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『ブラック企業で死にかけた経理係長、ギャル服店に拾われる』 ─拾ったのは、強気なギャル店長  作者: 月白ふゆ


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第19話 辞めなきゃよくない?

翌日、店の鍵穴に鍵を差し込む手は、いつもと同じ動きをした。


カチリ、と音がして扉が開く。照明を点ける。スピーカーに手を伸ばす。棚を軽く整える。レジ周りを拭く。呼吸を整える。


全部、いつも通り。


だからこそ、違いが目立つ。


空気が重い。


昨日の夜、言葉にならない沈黙が落ちたまま、床に薄く残っている気がした。拭いても取れない汚れみたいに。触れない方がいいのに、踏むと分かる。踏んだ瞬間、ひやりとする。


遼人は、何もなかったふりをするしかなかった。


何もなかったふりは、遼人の得意技だった。ブラック企業で覚えた。地獄の中で、昨日泣きそうになったことを翌日に持ち込むと死ぬ。今日やるべきことができない。だから笑う。だから淡々とする。だから仕事の顔を被る。


Edge Girlsでも、その癖が出る。


いや、ここは違うのに。違うのに、癖は出る。


遼人は照明のスイッチを押しながら、昨日の言葉を思い出しそうになって、すぐ押し込めた。


「ここ辞めたら、行く場所がない」


言葉の感触がまだ喉に残っている。残っているのに、掴むと崩れそうで怖い。崩れたら今日が壊れる気がして、遼人は掴まない。


掴まないまま、店の音楽を流す準備をした。


扉の鈴が鳴って、白河陽那が入ってくる。いつも通りの軽い笑顔。けれど目だけが、空気の重さを一瞬で測る目をしている。


「おはよ」


「おはようございます」


遼人は、いつもより少しだけ丁寧に返した。丁寧に返すのは、距離を作る癖でもある。昨日の夜の沈黙が怖いから、今日の朝は礼儀で線を引く。線を引けば、崩れない気がする。


陽那はそれを見て、何も言わないままレジを開けた。釣銭ケースを確認し、いつもの手順でレジ周りを整える。軽いテンポで動くのに、今日は冗談を挟まない。挟まないことで、空気を守っている。


少し遅れて、蘭奈が入ってきた。


足音が速い。いつも通り速い。けれどその速さに、わずかな苛立ちが混じっている。苛立ちというより、鎧を急いで組み立てている音だ。


蘭奈は店内を一瞥してから、遼人を見る。見るのに、視線が一瞬だけ泳ぐ。


昨日の夜、言葉を返せなかった自分を思い出したのだろう。


遼人に水を足した自分を思い出したのだろう。


何も言えないまま、水だけを足したことが、今も喉に残っているのだろう。


蘭奈は胸を張る。突き出すほどに。鎧を着る。強黒ギャル店長の顔に戻る。戻って、短く言う。


「おはよ」


「おはようございます」


遼人も同じように返す。丁寧な返事で線を引く。引いて、昨日をなかったことにする。


蘭奈はその丁寧さに、ほんの少しだけ苛立ったような顔をした。苛立った顔をすぐに隠して、腕を組みかけてやめる。代わりに売り場へ視線を戻す。


「開店準備、分担」


声はいつも通り。短い指示。店長の仕事の声。


遼人はすぐ答える。


「僕が入口の新作ラックと値札差し替え、バックヤードの入荷確認。白河さんはレジと小物、店長はマネキンと試着室で大丈夫ですか」


「それで」


蘭奈の返事もいつも通り。淡々としている。淡々としているのに、昨日の夜の沈黙が、その淡々の裏でうごめいている。


午前中の営業が始まる。


客は普通に来る。普通に試着する。普通に笑う。普通に買う。普通に帰る。


店は回る。数字は動く。今日も生活は進む。


その進み方が、昨日までより少しだけぎこちない。


遼人は自分の動きを一つずつ確認するように働いた。水を飲む。休憩を取る。昨日の再発を繰り返さない。繰り返さないために、わざと意識する。意識するほど「意識しなきゃいけない自分」が浮き彫りになる。


蘭奈はそれを見て、何も言わない。


言わないのに、見ている。


遼人が水を飲むとき、ほんの一瞬視線が寄る。寄って、すぐ逸らす。逸らして胸を張る。突き出すほどに。鎧で誤魔化す。誤魔化していることに自分で気づいていないふりをする。


陽那はそんな二人を、売り場の端で見ている。見て、今日は弄らない。弄らない代わりに、いつもより丁寧に客の相手をする。店の空気を乱さないように動く。彼女の小悪魔は、時々優しさの形に変わる。


昼過ぎ、遼人が裏で伝票を整理していると、スマホが震えた。元の職場からの追撃は、今日も来ていた。けれど遼人はすぐに開かなかった。開かない、と決めた。決めたのに胸がざわつく。ざわつくのを押し込めるように、遼人はファイルの端を揃えた。


蘭奈が近くを通る。そのとき遼人のスマホの画面が一瞬だけ見えたのかもしれない。蘭奈の足が、ほんの一拍止まった。止まって、何も言わずに通り過ぎる。通り過ぎるのに、背中が硬い。


その硬さが、遼人には痛い。


昨日、自分は「行く場所がない」と言った。言ってしまった。言ってしまったから、蘭奈は何かを背負わされた気がしたかもしれない。十九歳の店長に、二十七歳の男が寄りかかるみたいで。そんな風に思われたら嫌だ。嫌だから、今日の遼人は余計に淡々としてしまう。


淡々として、距離を作って、なかったことにする。


そうするほど、空気は重くなる。


夕方。客足が落ち着いて、締め作業の時間が近づく。陽那はいつも通りのテンポでレジをまとめながらも、今日は早めに上着を羽織った。さりげない退出。二人の夜を作るための退出だ。


「お疲れ。先帰るね」


「お疲れさまでした」


「お疲れ」


扉の鈴が鳴って、陽那が消える。


店内の音が一段落ちる。


冷蔵庫の低い唸り、遠くの車の音、そして二人の呼吸。


昨日と同じ二人の夜が来る。昨日と違うのは、昨日の夜の言葉がもうそこに落ちていることだ。拾わないといけない。拾わないと重いまま。重いままだと、生活が歪む。


遼人はレジ締め表を揃えながら、言うべき言葉を探した。謝るべきか、訂正すべきか、軽く流すべきか。どれも正解じゃない気がした。


蘭奈は売り場の棚を戻しながら、遼人の一言を反芻していた。


ここ辞めたら、行く場所がない。


短い言葉なのに、何度も頭の中で響く。響くたびに、胸の奥が少しだけ痛む。痛むのに、理由を認めたくない。


店のためじゃない痛みを、蘭奈はまだ認めたくない。


認めたら、自分が遼人を欲しがっていることになる。


欲しがっている十九歳の自分を、遼人に見せるのが怖い。


拒絶の想像が勝つ。


だから蘭奈は、いつも通りの形に逃げる。


雑に。軽く。強く。


言葉を軽くして、意味を隠す。


締め作業が終わり、遼人がファイルを棚に戻したタイミングで、蘭奈がぽつりと言った。


「辞めなきゃよくない?」


声は雑だった。語尾も雑。まるで「当たり前の話じゃん」と言うみたいな軽さ。


けれど、その軽さの下にある意味は重かった。


辞めなきゃよくない?


それは、「居場所として残せ」という許可だった。


「ここにいていい」という許可だった。


「私が許す」という言葉だった。


そして一番重いのは、「私が選ぶ」という意思だった。


遼人は一瞬、言葉を失った。


正論で返せる話じゃない。慰めでもない。励ましでもない。助言でもない。


許可だ。


許可されると、人は困る。許可されると、逃げ場がなくなる。逃げ場がなくなると、自分の弱さが露呈する。


遼人は、言い返せなかった。


「でも」とも言えない。


「それは」とも言えない。


「迷惑を」とも言えない。


昨日までの遼人なら、まず言い訳したはずだ。数字が、とか、店に迷惑が、とか、ちゃんと働くので、とか、必ず何かを差し出して居場所を買おうとした。


今日は、その言葉が出ない。


救われる側として黙る、という経験が遼人にはほとんどなかった。


救う側でいることでしか、生き残れなかったからだ。


遼人は黙ったまま、蘭奈の顔を見ようとして見れなかった。見たら崩れる。崩れたら、昨日の「行く場所がない」が本当になる気がする。


蘭奈はそんな遼人を見て、胸を張った。突き出すほどに。強気の鎧で言葉の重さを隠す。隠して、少しだけ乱暴に続ける。


「どうせ向こう、都合よく使いたいだけだろ。だったら切ればいいじゃん」


乱暴な正論の形。でも本当の狙いはそこじゃない。


切ればいい、じゃない。


ここにいろ、が本音だ。


遼人はようやく息を吐いた。吐いて、喉の奥から小さな声を出した。


「……ありがとうございます」


その一言は、遼人の中で一番言い慣れていない種類の言葉だった。助けられた側が言う、ありがとう。救われた側が言う、ありがとう。返せるものが何もないまま言う、ありがとう。


蘭奈は即座に切る。


「礼いらない」


いつも通りの即断。いつも通りの強気。礼いらない、と言えば距離を保てる。保っていないと自分が怖い。


けれど蘭奈の目が泳いだ。


泳いだのは、遼人がありがとうと言ったからだ。


ありがとう、と言われると、蘭奈の言葉が“本当に救いになった”ことが確定してしまう。救いになったと確定すると、蘭奈は自分が遼人を手放したくないことを否定できなくなる。


蘭奈は泳ぐ目を隠すように、胸を張った。突き出すほどに。鎧を厚くする。厚くして、最後に雑に言った。


「明日も普通に来い。変に気遣うな。仕事しろ」


命令の形で、許可を上書きする。


遼人はその命令に、今度は素直に頷いた。


「はい」


短い返事。いつもより軽い返事。


軽い返事ができたことに、遼人自身が少し驚いていた。行く場所がないと言った夜の自分が、まだ胸の奥にいるのに、その胸の奥に小さな足場ができた気がした。


辞めなきゃよくない?


雑な言い方のその言葉が、遼人の中では「居場所として残せ」という許可になって残った。


そして蘭奈は、礼いらないと言い切りながら、目を泳がせたまま、今日の自分が少しだけ優しすぎたことを認めないようにしていた。

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