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『ブラック企業で死にかけた経理係長、ギャル服店に拾われる』 ─拾ったのは、強気なギャル店長  作者: 月白ふゆ


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第18話 行く場所がない

嫌な匂いは、音もなく戻ってくる。


朝の駅のホームで、鳴海遼人はスマホの画面を見た瞬間に胃がきゅっと縮むのを感じた。通知が増えただけで、心拍が一段上がる。この反射がまだ抜けない。抜けないまま、指先だけが勝手に動いてしまう。


差出人は、元の職場のドメインだった。


件名は丁寧だった。「確認のお願い」「追加資料のご共有について」。丁寧な言葉の皮の下に、あの圧がいるのが分かる。丁寧な件名ほど、恐ろしい。会社の丁寧さは、基本的にこちらの体力を削るためにある。


遼人は白湯を飲んでから家を出た。胃は痛くないはずだった。なのにそのメールを見た瞬間、胃が冷たくなった。


指先で開くのを躊躇い、でも開いた。開いてしまう癖も、まだ抜けない。


本文は案の定、要求だった。


過去の処理の根拠資料、監査対応用の補足、引き継ぎ資料の更新、そして最後にさりげなく添えられた一文――「念のため、週内に一度ご出社いただけますと助かります」。


助かります、という言葉が、脅しの形をしている。


遼人の呼吸が浅くなる。ほんの数行の文字で、あの場所の蛍光灯の白さと、紙の匂いと、乾いた声の圧が蘇る。誰もいない早朝のオフィスで、ひとりで帳尻を合わせ続けた夜の感触まで戻ってくる。


行きたくない。


けれど、無視したらどうなるかを体が知っている。


遼人はスマホを握り直し、まず「承知しました」と打ちかけた。打ちかけて、止める。ここで反射のまま返したら、また同じことになる。


電車が入ってくる音が、救いみたいに聞こえた。


遼人はポケットにスマホを押し込み、深く息を吸おうとした。吸おうとして、うまく吸えない。胸の上の方で息が止まる。止まるのに、身体は歩く。歩けてしまうから、進んでしまう。


Edge Girlsの鍵の冷たさに触れた時、遼人は少しだけ落ち着いた。ここは別だ。ここは怒鳴られない。ここは、整えるために動ける。ここは自分が開ける場所だ。


シャッターを上げ、照明を点け、音楽を流す準備をする。その一連の動作が、昨日までの遼人の生活を作っていた。生活を作る動作。救いの動作。


なのに今日は、手が少しだけ速い。


速いのに、落ち着いていない。整える動作が、逃げの動作に変わっている。逃げとして動くと、動きは滑らかでも呼吸が浅くなる。


遼人は気づかないふりをした。


陽那が来るまでに、できることを増やしておこう。そう思って、いつもなら開店直前にやる作業まで先回りした。値札の差し替え、返品棚の整理、入荷予定の照合、昨日の簡易日報の見直し。やればやるほど、心は少しだけ落ち着く。


落ち着くのに、疲れる。


疲れるのに、止められない。


扉の鈴が鳴って、陽那が入ってきた。いつも通りのゆるい笑顔で「おはよ」と言いながら、レジに向かう。けれど今日の陽那は、遼人の顔を一瞬だけ長く見た。見て、何も言わない。言わないまま動きに入るのが、陽那の“空気を守る”やり方だ。


少し遅れて、蘭奈が入ってきた。


蘭奈の足音はいつもと同じ速さだった。けれど遼人の耳には、その足音がいつもより強く聞こえた。胸の奥がざわつくと、外の音が全部大きくなる。会社の時に覚えた症状だ。


蘭奈は一度売り場を見渡し、すぐ遼人の方を見た。遼人が自分でも分からないうちに、肩が少し上がっていることに気づく。視線を合わせるのが怖い。怖いのに、合わせなければならない。


「おはようございます」


遼人が言うと、蘭奈は短く頷いた。頷いたまま、いつもなら出るはずの指示が一拍遅れた。


遼人はその遅れを見て、胸が妙に痛くなった。


蘭奈は、気づいている。


昨日の無理の再発を止めた人間の目で、今日の遼人の“匂い”を嗅いでいる。


蘭奈は腕を組みかけて、やめた。代わりに売り場に視線を戻し、店長としての声を作って言った。


「今日、変に早い」


ただの指摘みたいな一言。けれど、その裏に「無理してる?」が混ざっている。


遼人は反射で笑いそうになって、笑えなかった。代わりに淡々と答える。


「昨日の返品棚、もう少し回転させた方がいいと思って」


正論の形に逃げる。数字の形に逃げる。


蘭奈は短く言った。


「そう」


それだけ。追及しない。追及しないことが、逆に怖い。追及されないと、自分で止めなければならない。でも遼人は自分で止めるのが下手だ。


開店して、午前中はいつも通り回った。客足は平日らしく落ち着いている。試着室のカーテンが揺れ、レジの音が鳴る。陽那の声が軽く飛び、蘭奈の短い決断が店を締める。遼人は裏と表の境目を静かに行き来して、必要な時だけ前に出る。


外から見れば、何も問題はない。


問題は、遼人のスマホの中にある。


休憩のタイミングで、遼人はもう一度メールを開いてしまった。開くつもりはなかった。けれど、気になった。気になるというより、恐怖が確認を求めた。


そして、追撃が来ていた。


「念のため追加でお願いです。先日の決算整理について、担当者が不在のため、念のため再確認したく…」 「お忙しいところ恐れ入りますが、本日中にご回答ください」 「また、今後のために、当社としては鳴海さんに引き続き関与いただける形が望ましく…」


望ましく、という言葉が、戻ってこいの言い換えに見えた。


遼人の手が冷たくなる。昨日蘭奈が触れて固まった冷たさが、また戻る。戻ってくるのが早すぎる。


遼人は、淡々と処理しようとした。会社のメールに対する唯一の武器は、淡々と正確に返すことだった。感情を持ち込まない。怒りも恐怖も見せない。相手に隙を渡さない。そうやって生き延びてきた。


だから遼人は、頭の中で返答文を組み立て始めた。


「お世話になっております。ご依頼の件、確認の上、可能な範囲で対応いたします。ただし現時点で就業関係は終了しており…」


文面を作るだけで、呼吸が浅くなる。


ここはEdge Girlsだ。布と音楽の地獄のはずだ。息ができる地獄のはずだ。なのに、メール一通で“数字の地獄”が口を開ける。


遼人は喉の奥に苦いものが上がってくるのを感じた。


それを飲み込み、スマホをポケットに戻し、何事もなかったように売り場に出た。出るとき、笑顔を作ろうとして、うまく作れない。だから淡々とした顔になる。淡々とした顔は、仕事の顔としては成立する。


でも、その淡々は、疲弊の淡々でもある。


蘭奈はそれに気づく。


気づくのに、すぐには言わない。言えば遼人が「大丈夫です」と返すのが分かっている。大丈夫じゃないのに大丈夫と言う癖を、蘭奈は昨日見た。


だから蘭奈は、別の形で遼人を止めようとした。


「午後、裏で検品やるの私」


遼人が「僕がやります」と言いかけたのを、蘭奈が短く潰す。


「私。お前は売り場」


「でも、店の数字が…」


その言葉が遼人の口から自然に出た瞬間、蘭奈の胸の奥が一度だけ熱くなった。


店の。


遼人がここを、自分の“店”として語る。その言い方が、嬉しいはずなのに、今日は嬉しさより怖さが勝つ。


店の数字が、という言葉は、遼人が自分を追い詰めるための言葉にもなるからだ。


蘭奈は言い方を変えない。店長の命令で押す。


「数字は私が見る。お前は人を見ろ」


遼人は一瞬だけ口を閉じた。人を見る。客を見る。売り場を見る。自分の呼吸を見る。それが遼人にとってどれだけ難しいかを、蘭奈はまだ知らない。けれど、言葉としては正しい。


遼人は頷いた。


「……分かりました」


その返事が、いつもより小さい。


午後、店は落ち着いていた。落ち着いているのに、遼人の疲弊は引かない。引かないどころか、じわじわと濃くなる。忙しさで誤魔化せないからだ。忙しい日は動きで逃げられる。落ち着いた日は、頭の中の圧がはっきり聞こえる。


遼人は売り場に立ちながら、何度もスマホの振動を想像した。鳴っていないのに鳴った気がする。鳴っていないのに胸が縮む。


陽那がレジからちらっと遼人を見る。いつもなら弄る。今日は弄らない。代わりに、水のペットボトルをそっと置いた。何も言わないまま置くのが、陽那の優しさだ。


遼人は気づいて、小さく頭を下げた。ありがとうと言うと重くなる気がして、言葉にできなかった。


閉店が近づく。照明が少し暖かく感じる時間帯。客が引き、店内の音が静かになっていく。


その静かさの中で、遼人のスマホが震えた。


震えた瞬間、遼人の心臓が跳ねた。跳ねたせいで、手元が一瞬止まった。止まったことに自分で気づいて、すぐ動かそうとする。動かそうとして、また止まる。


通知は、元の職場からだった。


「本日中にご回答いただけない場合、こちらで判断いたします」 「また、鳴海さんの対応状況次第では、今後の対応も検討せざるを得ません」


検討、という言葉が、脅しの形をしている。


遼人は目の前の棚が一瞬遠くなるのを感じた。視界が飛ぶほどではない。倒れるほどではない。でも、身体の奥が冷えていく。


昨日の危険な一瞬が、別の形で戻ってきた。


遼人はスマホをポケットに押し込み、何もなかったようにレジ締めの準備を始めた。始めながら、頭の中で返答文を作り続ける。閉店後に返そう。帰宅してから返そう。いや、今返さないとまた追撃が来る。追撃が来ると眠れない。眠れないと明日が崩れる。明日が崩れると店が崩れる。店が崩れると――。


遼人の思考が、勝手に最悪へ伸びる。


伸びるのを止められない。


閉店。陽那は今日はいつもより早く「お疲れ」と言って帰った。わざとだ。二人きりにするための早退じゃない。自然な流れを作って、二人の夜を残すための退出だ。


扉の鈴が鳴り、店内の空気が一段静かになる。


二人だけの夜。


蘭奈は、何も言わずに棚を戻していた。戻しながら、ずっと遼人の呼吸を見ている。昨日見た“無理の匂い”が、今日は別の形で漂っている。遼人は動いているのに、目がどこか遠い。言葉が少ない。肩が硬い。


蘭奈は、問い詰めない。


問い詰めれば遼人は閉じる。閉じる人間だ。閉じて淡々と処理しようとする。淡々が壊れた時に初めて倒れる。倒れてからでは遅い。


だから蘭奈は、確認する。


命令でも叱責でもない、確認。


レジ締めの数字を揃えている遼人の横に立ち、視線を合わせずに言った。


「……また無理してる?」


その言葉は、責める形じゃなかった。昨日の「座って。今すぐ」と同じ種類の怖さを、今日は声に混ぜないようにしている。混ぜないようにしているのに、声が少し低い。


遼人のペン先が止まった。


止まって、すぐに動きそうになる。動いて誤魔化そうとする。そういう癖が出かけたところで、遼人の指が紙の端を強く押さえた。押さえたまま、呼吸が一つだけ乱れた。


「大丈夫です」


遼人はそう言おうとしたはずだった。


でも、言葉が出なかった。


出なかったのは、蘭奈の声が確認だったからだ。追及じゃない。詰問じゃない。逃げ道のない形で、ただ“見ている”と言われた気がしたからだ。


遼人はしばらく黙った。黙って、喉の奥が熱くなるのを感じた。泣くわけじゃない。泣けない。泣くほどの余裕はない。泣いたら何かが崩れる。崩れたら戻れない。戻れないのが怖い。


怖いから、遼人は笑いそうになった。笑って誤魔化そうとして、笑えなかった。


代わりに、堪えていたものが漏れた。


「……連絡、来てます。元の職場から」


蘭奈は黙った。


遼人は続ける。


「追加の資料とか、引き継ぎとか。今日中に返せって」


言いながら、遼人の胸の奥がじわじわと沈んでいく。会社の圧を言葉にしただけで、体がもう疲れていく。


蘭奈はそれでも、正論を言わない。


「無視しろ」とも言わない。


「法的に」とも言わない。


そういうのは、遼人が一番分かっている。分かっているのに、体が言うことを聞かない。頭の正しさだけで救われない世界を、遼人は知っている。


蘭奈はただ、もう一度確認した。


「……それで、また無理してる?」


遼人の喉が詰まる。


詰まって、言葉を探す。


探して、出てきたのは、情けない言葉だった。


情けないからこそ、口に出したくなかった言葉だった。


でも、口から漏れた。


「ここ辞めたら、行く場所がない」


それだけだった。


たった一行。


なのに、その一行の中に、全部が混ざっていた。


情けなさ。二十七にもなって、まだそんなことを思う自分への嫌悪。恐怖。あの職場の圧がまだ身体を支配している恐怖。依存の予感。ここが唯一の呼吸できる場所になってしまう怖さ。蘭奈に、店に、生活に、甘えてしまう予感。


遼人は言ってしまった瞬間、自分で自分を殴りたくなった。


こんなことを言ったら、重い。重すぎる。十九歳の店長に背負わせる言葉じゃない。言った自分が最低だと思う。思うのに、止められなかった。


遼人は、慌てて言い直そうとした。


「違うんです、店がとか、数字がとか、そういう…」


言い直す言葉が、うまく繋がらない。


蘭奈は、慰めない。


「大丈夫」とも言わない。


「うちにいればいい」とも言わない。


言ったら、遼人の恐怖が現実になってしまうからだ。依存の予感が形になってしまうからだ。


蘭奈は言葉が出ない。


出ないのに、目だけが遼人を見ている。


その視線が、責めていないのに怖い。遼人は視線を逸らした。逸らした先のレジ横に、紙コップがある。水は少しだけ残っている。残っているのに、遼人は飲む気になれない。喉が固まっている。


沈黙が落ちる。


店内の音が消え、冷蔵庫の低い唸りだけが聞こえる。外の車の音が遠くなる。二人の呼吸だけが、少しずつずれていく。


蘭奈は、返事をしないまま、レジ裏に置いてあったペットボトルを手に取った。


遼人のコップに水を足す。


ただそれだけの動作。


カップの中で水位が上がる音が、小さく響いた。


その音が、言葉の代わりみたいだった。


遼人は泣かない。


泣けない。


泣いたら、行く場所がないという言葉が本当になってしまう気がするからだ。泣いたら、ここが避難所じゃなく、唯一の居場所になってしまう気がするからだ。


蘭奈も泣かない。


泣けない。


泣いたら、自分が怖がっていることを認めることになるからだ。遼人がいなくなるのが怖いのは、店のためだけじゃないと認めることになるからだ。


蘭奈は水を足し終え、キャップを締めた。締めて、何も言わずにペットボトルを元の場所に戻した。


遼人はコップを見つめたまま、指先で縁に触れた。冷たい。水は冷たい。自分の手も冷たい。けれど、昨日ほど冷たくない。ここには、誰かの手が届いている。


届いているのに、言葉はない。


言葉がないことが、救いでもあり、怖さでもある。


遼人はコップを手に取って、水を一口飲んだ。喉が少しだけ動く。動いた分だけ、呼吸が戻る。戻るのに、胸の奥の黒い塊は残ったままだ。


蘭奈は遼人を見ないふりをしながら、棚のラベルを揃えた。揃える動作で自分を保つ。整える動作で、言葉にできないものを押し込める。


水を足すという行為だけが、今できることだった。


返事をしないという選択だけが、今の蘭奈の誠実だった。


遼人は泣かない。


泣けない。


ただ、足された水の量だけが、今日の夜の重さを静かに示していた。

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