夜明けに響く叫び~E30 BMW М3~
「じゃあ車で迎えに行ってやるよ」
兄貴に丁度用事があったのだが、兄貴はその頃仕事で多忙だったこともあって、会うことが出来る時間は夜明け前の時間だった。仕事帰りに迎えに行くと言われ、僕は始発の電車に乗って兄貴の仕事場の近くの駅へ向かった。
兄貴と言っても、年は7歳離れていた。僕が小学6年の頃に、兄貴は大学生で実家から出ていたから、物心がついたころの兄貴の思い出と言うものがあまりなかったりする。どちらかというと、実家に出入りしていた業者のお兄ちゃんとの思い出の方が多いくらい。親父に似て、口数の少ないのは今も昔も変わらないけど、当時はほとんど会話らしい会話はしたことがなかった。大人になってからの方が沢山話をするようになった気がする。
京王線仙川駅。夜明け前の真っ暗な駅に降り立った。今では綺麗な街並みの仙川だけど、当時は平屋の駅を出ると、何にもない本当に田舎の各駅停車が停まるだけの駅だった。駅の外は、深い青の世界。少しずつ上りくる太陽の光によってだんだん一面青白い世界になってくる。白と青の世界の中で、信号機の赤だけが鮮烈に目に飛び込んできた。
ふーっと吹けば白い息が上がり、夜明け前の寒さが身に染みる。ほとんど車もいない甲州街道の信号が青から黄色、赤に変わるのを何度か繰り返すのを眺めながら、兄貴が迎えに来てくれるのを待っていた。青白い世界が少しずつ色づき始めた頃、遠くの方からエキゾーストノートが聞こえてきた。僕はなぜか直感的に兄貴だと感じた。
BMW3シリーズの姿が遠くに見える。バブル時代、六本木のカローラと揶揄されていたのがBMW3シリーズとメルセデス190シリーズ。スポーツカーが好きな兄貴にしては、普通っぽい車に乗り換えたなと思った。故障しては修理工場へ預けるを繰り返し、一年のうち、半年は代車に乗っていたくらい壊れる当時のイタリア車に嫌気がさして、もうちょっと壊れづらいドイツ車に落ち着いたのかと思った。
シフトダウンするごとに唸るエンジン音。マニュアルシフトだということが分かる。よく見る丸目四灯のフロントマスクが近づいてくると、どことなくいつも見る3シリーズと迫力が違った。くらい甲州街道に夜明けのオレンジ色の光が差し込んでくる。その明かりの中に飛び込んできたBMWは、普通の3シリーズとは違う、グラマラスなボディーラインをあらわにした。それは、あの世界のツーリングカー選手権で活躍していた初めて3クラスでMの称号を冠した、初代BMW M3だった。
「よう、待たせたな。」
「兄ちゃん、これ…。」
「いいから乗れよ。」
再会の挨拶も無いままに、車道側のドアから助手席に乗った。コックピットの計器は全部と言っていいほど、ドライバーズシートの方を向いていて、この車の助手席はとりあえずついているものだということを物語っていた。信号で停まると、ズロロロロ…と低回転を響かせる。
「良い車なんだけどさ、真っすぐはそんなに速くない。」
何も聞いていないし、今日会った用事とも関係のない話を始める。
「でもさ、やっぱり負けると分かってても勝負しなきゃな。」
赤から青になった瞬間、フルスロットルで飛び出した。いつの間にか僕の右隣の車線には、真っ赤な車体。フェラーリ328GTB。誰もいない甲州街道に二台のエンジン音が響く。クォオオオーンと甲高い音を奏でるV8と、グォオオオオと生き物の唸り声のようなM3。直進車線を行く僕達と、右折車線に入る328の勝負は直ぐに終わり、フェラーリのドライバーはこちらを見て軽く手を挙げた。
兄貴はいつもそうだ。興奮するでもなく、悔しさを見せるわけでもなく、淡々とした面持ちでつかみどころがない。だから、いつもどういう言葉で話しかけていいかわからなかった。僕が何かを話し掛けようと思った時、
「こいつのエンジンはさ、レース直結のエンジンで、競技車両も同じエンジンを使っているんだってさ。だから、本物ってどういうものか知りたくてさ、この車を選んだんだよ。」
「うん。」
当時、ギャランVR‐4や、レガシーRS、セリカGT—Fourなど、ラリーを戦う日本車が増えていた。その後レース界を席巻する日産スカイラインGT—R(R32)といったハイパワーターボ時代が始まりを迎えていた中、このBMW M3を選んだのは、何だか兄貴らしい気もした。その頃、二十代半ばで、当時700万ほどもするその車を買ったのも驚きだったが、生き馬の目を抜くような世界でがつがつ働く兄貴は自分も本物になりたいがゆえに、レース車両のホロモゲーションモデルを手に入れたかったのだろうと思った。
夜明けの道を走り抜け、僕のちっぽけな用事も済んだ。
「じゃあ、何かあったら連絡しろよ。」
駅前で僕を降ろして、兄貴はまた仕事へ戻っていく。
多分、僕の頼み事を聞いてやりたいと思ったというより、M3を買って、そして自分ももっと仕事で本物として通用する人間になりたいという気持ちを聞いてほしかったのかなと思った。大きなリアウイング、横に大きく張り出したブリスターフェンダー、唸りを上げるマフラー。でも、分かる人じゃなければ、小型のBMWにしか見えない。それを理解できる僕に見てもらって、自分の気持ちを知ってほしかったのだろう。
信号が青になり、兄貴のM3は唸り声を上げながら、まだ朝早い甲州街道を走り去っていった。
あのM3の咆哮は多分、普段無口で何も話さない兄貴の、仕事で戦っていくという心の叫び声そのものなのだと思った。