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今出会ったばかりの人間を信用できるほど、リドルは純粋ではない。目の前にいる男は美形であるが、美形だからといって油断してはならないことを前世で学んでいた。奴らはときに仕事中にパリピッてしまう時があるのだ。なんど悲しく悔しい涙を流したかわからない、と久しぶりに思い出した前世の記憶に、睡眠不足なのにストレスで不眠症になってしまいボロボロだった自分を思い出して涙が出てしまいそうになって咄嗟に目元を拭えば、何を勘違いしたかアルーラは慌てた様子でリドルに駆け寄り、己のハンカチのような布を目ともに押し当ててきた。
「すまない。そこまで辛い思いをさせたいわけではなかった。できればリドルの家族ごと保護できれば、と思ったが、そこまで俺は信用できる者でないことは自覚している。……保護に関しては見送らせてもらうから、安心してくれ」
「…わかった」
よくわからないが保護に関しては諦めてくれたらしい。意外にもあっさり引き下がるアルーラの姿を見て、本当に保護が目的なのでは?と思い直す。リドルは外のことについて詳しくはないが、アルーラが身にまとっているものがそこそこ上質な軍服というのは理解できるし、日本にいたときも、軍人がそのような服装をしていたのをみたことがあった。
王都とかなんとか言っていた気がするが、この国には王都なるものが存在し、アニメで見るようなファンタジー世界が森の外にはあるのかもしれない。少なくとも魔法はある世界だ。あまり見る機会はなかったけれど。断っといてなんだが、そこまで考えて興味が出てきてしまい、だからといって『やっぱり保護をお願いします』とは言えず、顎を触って悩んでいるとアルーラの方から声をかけられた。
「出口まで案内を頼む」
「あ、そうだったそうだった。こっち」
精霊が『人間が入ってきたらこの森に一生閉じこめておくのよ』と楽しげに言っていたのを思い出す。おそらく人間がこの森に入ったら出られなくなるとかそういったことだろうが、不思議とリドルが案内すればすんなり森の出口まで行くのとができ、アルーラも安堵したのか緊張していた顔は糸が切れたように穏やかになっていた。森の出口までの間、リドルはアルーラから外の話について教わった。
獣人は絶滅危惧種に認定されていること。
この国はマルニア王国といい、中央には王都が存在すること。
大体はそのようなことをざっくりと。リドルはそれをキラキラした瞳で真剣に聞いており、とくに王都という言葉に興味を持った。アルーラがいうには、王都という場所はこの国でも一番大きく、とても栄えているそうだ。獣人の両親はあまり外の世界のことを教えてくれないため、実に興味深い内容だ。
(もしかしたら旨いもん食えるんじゃねーか!?)
ここにきてからというもの、口にしたのは乳と木の実とよくわからない肉。おそらくその辺に住んでいるネズミとか、ウサギであろう。焼いてはくれるものの、味付けできるような調味料はないので肉臭さは残ったまま硬いそれをいつも水と一緒に流し込んで耐えていた。リドル以外の家族はそれを好んで食べているようだが前世で充分に肥えてしまっている舌は、いい加減日本にいた時に主食のように食べていたビール、ラーメン、スナック菓子が恋しくて仕方がなかったのだ。煙草は…強制的に一年禁煙したものの、吸えるもんなら吸いたい。
とはいえ、この男を信用してついていくのも悩みどころだ。それに家族の安否も気になる。
「リドル、本当に助かった。ありがとう。それじゃあ……また会う日まで」
「おう。きをつけてな」
別れの挨拶のつもりで上げた手で、ふと何を思ったかリドルはアルーラの袖を掴んで引っ張った。アルーラは小さな手が己を引き止めるとすぐに歩みを進めようとしていた足を止め、大きな瞳で見上げる幼子を見下ろした。
「おーとって、どっちにある?」
「王都は、ここから南西に進んだほうだが……行きたいのか?」
「うん。いまは行くつもりねぇけど、おおきくなったら」
「そうか。…ならこれを渡そう」
アルーラは自分の首にかけていたペンダントを外すと、小さな声でペンダントになにか唱えて、魔法をかけ終わると地面に膝をつき、そのペンダントをリドルの首に下げた。ペンダントには色とりどりの石が埋め込まれており、光輝くそれはとても綺麗だった。
「きれい。なにこれ」
「そのペンダントを開いて俺の名を呼ぶと、王都にワープすることができる。歩きだとここから二日ほどかかってしまうから、使うといい」
「すげぇ。べんりだな」
「それを使えば俺にもわかるようになっている。獣人が一人で王都を出歩くのは危ない。必ず迎えに行くから、ワープした先で待っててくれるか」
「おー、わかった」
やっぱりアルーラは悪いやつじゃないかも、そう思いながらペンダントを握ったままリドルが素直に頷くと、アルーラは口元を綻ばせ、リドルの額に唇を落とした。
「??」
「あー……まじないだ。お前が無事に王都に来れるよう」
「そっか。ありがとな」
アルーラはどこか名残惜しげな、スッキリしない顔で何度かリドルのいる方を振り返って、森から抜けていった。それを確認したあと、リドルは森の中を見渡してすんと鼻を鳴らしながら、精霊の匂いを探した。
「おーい、精霊。いる?」
「いるわよ。リドルちゃん、こんにちは」
「こんちは」
微かに精霊の匂いがしたので呼びかけると、リドル前にポンッと音を立てて大人の手のひらほどの大きさをした、小さな精霊が現れた。彼らは獣人達には友好的に接してくれる種族で、異世界から来たリドルのことはとくに可愛がってくれる。
「さっきのおとこの人のなかまって、知ってるか?」
「ええ、森の中に閉じ込めてるわよ。みんな絶望的な顔をしているわ」
「逃がしてあげることできる?」
「いいわよ。無害みたいだし。リドルちゃんの頼みなら断れないしね」
何が面白いのか精霊は両手で口元を抑えうふふと笑ったあと、頭上にその両手を上げて何かを唱えた。唱え終われば、にっこり笑顔でリドルの頬に擦り寄るように体を寄せる。精霊が無害だと言うことは、やっぱりアルーラは獣人を引っとらえにきた悪者ではないようで、リドルは安心する。
「リドルちゃんもお家に帰してあげるわ」
「ありがとー」
精霊がリドルの頬に口付けをすると、視界が真っ白になって数秒でいつもの見慣れた獣人ハウスへ。そこには涙をいっぱいためる母親と、絶望し顔を青ざめている父親と、泣きわめく弟の姿があり、リドルを見た瞬間全員で飛びつくようにリドルを抱きしめた。
(うーん、愛されてる)
前世じゃ抱きつかれることなんかめっきりなくなり、そもそも寂しい独身男の一人暮らしだったがためにこの家族からの愛はこそばゆいところもあるが、悪くはない。ただし人間に助けられたということを告げるととても面倒くさそうなので、ペンダントのことは黙っておき、いつものように固い肉を水で流し込んだ。