セキセイインコ、君に敬す
どこかに悪い人がいた。そして少しだけ裕福な夫婦がいた。悪い人はトモといい、夫婦はタカハシといった。トモとタカハシ夫婦はひょんな拍子で知り合った。夫婦が喫茶店でエコーを吸っていたら、隣に座るやけにたくさんの指輪をした老婦人に、あら、珍しいタバコ吸ってらっしゃる、とタカハシ夫婦は声をかけられ、そこに割って入って、そのタバコすごくおいしいですよね、僕だってよく吸います、と声をかけたのがトモだった。
その老婦人はどうやら機嫌を損ねたようで、バッグからワニ側の財布を取り出し、しばらく手の中で弄び、立ってお会計を済ませ、むっつりと黙って帰っていった。
トモはその老婦人が座っていた席に移ってきて、
「お願いがあります。僕をあなた方の家に一週間ほど泊らせてもらえないでしょうか?」
そう懇願するのだ。特に断る理由も思い浮かばないそのタカハシ夫妻は黙ってそれぞれに考えにふけるのだった。この少年が一週間わたしたちのマンションの一室に住む。それに何かのリスクがあるのだろうか? この設問は夫婦に共通していて、妻の方は「わたしはずっと昼間もマンションにいる。それにこの子はそれほど悪い人間とも思えない。そうだ、昼間だってわたしはマンションにいていいし、パルシステムも来るのだから」と考えたし、夫の方も「昼間はずっと妻がマンション内にいる。それにこの子はそれほど悪い人間にも思えない。昼間だって妻はマンションにいていいし、パルシステムも来るのだから」
と結論付けたが、まだ何も発しなかった。というのもそのタカハシ夫婦の夫の方は、様々な角度で検討してみたものの、やはりその僕たちのマンションに一週間泊らなければならならない理由を尋ねよう。それから考えても遅くないだろうという結論に至ったからだった。
「君が僕たちのマンションに一週間泊らなければならない理由っていうのはなんだい?」
「くだらない理由ですよ。僕は以前ファッション関係の仕事に就いていたんですけど、ええ、レイクタウンの中の一角です。でもあそこって競争が激しいじゃないですか。だから僕の勤めていた店舗が突然閉鎖になっちゃったんです。そして一人でアパートを借りるのも厳しかったから、それにさみしさもあって、そうそう、僕はみなしごなんです。正直に学のないのを言ってしまえば、中学も卒業していない。中学は孤児院から通っていたわけですが、家出をしてしまって。僕は今二三になるんですけど、ここまで生きていくには大変だったなあ。だからさみしくてルームシェアをしていたんです。そして僕はルームシェアをしていた親友に家賃を含めた全財産を預けて職探しをしていた。そして夕べ職探しから帰ったら、不思議なことに鍵が開かない。鍵をどうやら変えられちゃったみたいなんです。親友は今北海道で仕事をしているそうです。とても寒いそうです。ダウンを買うお金がないって嘆いています。僕は仕事が見つかり次第、初のサラリーで親友にダウンをプレゼントしようって決めています。そうです。親友がお金を持っていて、つまり滞った家賃もすべてその親友が持っていて、その親友が一週間後に帰る。そういうことなんです」
「なるほど」
タカハシ夫妻は同時にそう言った。とても気の合う夫婦だ。そしてこの子はよくしゃべる。同じ瞬間に同じ感想だって持った。その夫婦はどうやらとても気が合うらしい。
「ご迷惑はおかけしません。本当にお願いします」
妻はつつましく黙り、夫の発言を待っているようだった。そして夫は
「よし。一週間。約束だぞ」
そう言って笑ったから妻も笑った。トモはふと林家ペーパーを思い浮かべた。
喫茶店に止めてあった車の後部座席に座るよう、夫はトモに言った。その車はBMWであった。
「なんですか、この車は!」
トモはBMは初めて乗るらしかった。夫も鷹揚に笑って、
「そんなに大した車でもないさ」
と賛辞をさらに求めるような、そんな言い方で受けた。
トモは見た目も内装も素晴らしいじゃないですかとか、この曲、僕は知らないけれど、音がすっごくいいですね。そうなんですか、エレカシっていうんですか、ずいぶんと大迫力だな。まあ、そうとはいっても電車とバスくらいにしか僕、乗ったことないし、どこがすごいって本質的なことはちっとも言えていないんでしょうね。などと己を卑下しつつ持ち上げるっていうような賛辞を述べながら、BMの3シリーズは湾岸へ向かって走る。
「三六階なんだ。覚えていてほしい」
夫はそうアドバイスした。エレベーターホールでだ。そしてしんという沈黙が訪れる。エレベーター待つ時っていうのはたいていそんなものだ。特に何か思索にふけっているわけでもない。
「そして今、確かに部屋は開いているんだ。この前まで妹が住んでいてね。ゲストルームではない部屋だ。君の荷物がそれだけならば、広く自由に使えると思うよ。残念ながらロケーションはいまいちだ。けれどそのロケーションはリビングの窓から見るといい」
また夫は何かしらアドバイスじみた言い方でトモに言う。けれど妻は思う。夫にこういう話し方をさせているのはこの少年だ。そう見抜いていた。夫は呑気なだけであった。慎重そうでこの人っていうのはどこか抜けている。妻はそうも思った。つまりあきれていたっていうわけだ。
「わー、すっごいなあ。リビングが広い。海が見える。あそこに灯っている灯りはなんですか? ご主人」
トモの突然の質問に夫はうろたえた。わからなかったのだ。そして夫は仕方ないと、正直になり
「僕にもわからないことは、この世にはたくさんあってね」
と答えた。
トモは自分が宿泊する部屋に満足し、けれどその部屋に閉じこもるっていうわけでもなく、夫婦がリビングに揃えば、トモもリビングに来て談笑するなどして、不思議なくらい夫婦の暮らしにすぐに溶け込んだ。けれど夫婦は怪訝に思うことがあった。失職中の割に、仕事を探しているようには見えないのだ。そしてケータイはフルで活動していて、いろんな人からなのか特定の人からなのか、それもよくわからないが電話がかかってきて、それを一瞬でとる。トモがケータイを持っていないときはないように見えた。
ある日妻の財布に一万円足りないように思えた。妻はまあ、勘違いだろう。そういうことっていうのはよくあることだ。特にわたしにはねとからから笑いながら夫に説明した。夫の反応は特に楽しそうでもなく、
「ふーん」
と言うのみだった。
ある夜、トモは食事を終えお風呂から出てパジャマに着替えてこう言った。
「僕彼女がいるんですよ。埼玉です。草加です。僕はいつも原チャリに乗った使いっぱです。メイベリンのマスカラを頼まれてDSに行って、ケイトのマスカラを買って帰った時には怒鳴られました。ああ、ぼくは本当はあいつを飼いたいんだけどなあ」
「飼いたい」
「飼う」
その言葉はタカハシ夫妻をドキリとさせた。胸が騒ぐような表現のように思えたのだ。
そして妻の財布がなくなった。
「馬鹿ねえ。わたしって。財布をどこかに置き忘れちゃったみたいなの。でもそのうち出てくるわよね。最後に置いたのって、リビングの棚の上だったって思うのになあ」
とからからと笑った後、からから笑いをひっこめると、少し声をひそめ
「ねえ、ダーリン、あの子、本当に一週間で出ていってくれるかしら。なんだかわたし毎日お肉料理を作るの飽きちゃった」
と言うと夫は
「大丈夫さ。必ずあいつは一週間で出ていく」
そう断言したので、妻は不思議な気持ちになった。
一週間の期限、その前日の夜トモは突然言った。
「俺明日仕事が入りました。日給の土木の仕事です。でも俺………、交通費もお昼代もなくって」
けれど妻はお財布を失くしたままだったし、どうすることもできない。すると夫が二千円を懐から出し、テーブルの上に置いた。
「トモ、交通費これで足りるか?」
「足りると思います。ちょっと待ってください。今ケータイで調べてみます」
そう言うとなにやらケータイを操作し、
「すみません、あと五百円あると足りるんですけど」
とトモは言い、夫の懐からもう五百円引き出した。
「なにせ突然ね。冷蔵庫の中空っぽだわ。どうしよう、梅干しもない、ああ、ノリも切らしてたんだっけ」
妻は絶望の淵に沈む。そしてやっとっていう風によろりと立ち上がり、
「トモ君、塩結びなんて、そんなもの食べないわよね? それって中身も何にも入ってなくって塩味のノリも巻かれていないっていうお結びなんだけど」
そう言うと突然トモはがくっとしゃがみ込み、
「ありがとうございます。ありがとうございます。いただきます。明日食べます。かならず残さず全部食べます」
と言って長い間うつむいていた。妻は不思議そうにその光景を見ていた。
翌日はその約束の一週間後にあたっていた。けれどそれをトモも言いださなかったし、タカハシ夫妻も言葉にしなかった。けれど帰ってきてもいい、夫婦はそうも思っていた。もしくは正直に言ってしまえば、トモの帰りを待ちわびていたのだ。けれどトモは帰ってこなかった。トモの部屋に置かれたスポーツバッグに入っていたのは、ヘインズのTシャツが2枚、それだけだった。そして夫のセカンドバッグを持ったままトモは帰ってこなかった。
「本当に、本当に、どこかに置き忘れたんじゃないの? そんなの嘘よ。きっと何かの勘違いよ。ウソよ」
妻は涙を流した。
「僕はわかってた。最初の一万円でね。あいつはそういう風にしか生きていけない奴なんだ。そういう存在なんだ。君に生き方を変えろと俺が言っても、君にはどうしようもないだろう? そういう風にだ。僕はそうなると予感してカードを抜いてお財布には三千円しか入ってない。確かにディオールのバッグではあるけれど」
「ダーリン、トモ君は塩結びを食べてくれたかな?」
「食べた。絶対に」
夫はそう答えるとむっつりと黙り、そしてソファから立ちあがって、
「俺は今日はミストサウナに入ろうと思う」
と重々しく言って風呂に長いこと入っていた。
そして不思議と涙をぽろぽろこぼしながら、それでいて笑いながら身体から湯気を発し、髪からは水滴を垂らしながら、パンツも履かず風呂から出てきて
「なあ、トモは悪いやつだ。君は育ちがいいから経験ないだろうけど、俺は一回だけ万引きの経験があるんだ。中学の時。そうありがちだけどエロ本さ。そのときっていうの、身体が震え、少し意識が遠のくような感覚と、妙に研ぎ澄まされたすべてが見えているような理性的な感覚が同時に働くんだ。そう身体を震わせているのにね。そして万引きが成功して、本屋を出ると、僕はガタガタと身体がくずおれていった。きっとトモもそんな風に一万円、財布、セカンドバッグを盗んだんだろう。そしてトモが悪人ゆえに彼はよくしゃべった。途切れることもないようによくしゃべった。そういうやつっていうのは黙っていることが怖いんだ。けれど身についたその悪さは、あいつから多分一生抜けないんだ。悪かったら悪い風にしか生きられないんだ。孤児院とかみなしごとかそういうことって俺にはわからない。中学校も出ていない。それも俺にはよくわからない。育ち、そう言っていいのかそれもわからない。ただ俺にわかるのはあいつは確かに悪いやつだ。そういうことだ」
「正直言ってわたしも何もわからない。でも塩結びをトモ君は食べたって、あなた言ったわ。トモ君はわたしが朝こしらえた、塩結びを残さず食べたのでしょう? だから、わたしはトモ君の味方をしたい。心がふるえているトモ君、彼女すら飼いたいという、彼女への愛情表現しか求められないトモ君。絶望したくない。諦めたくもないの」
「いや、そうじゃない。俺たちは夫婦でトモの悪口を言わなければならないんだ。悪口雑言を二人で吐かなければならないんだ。そういうものなんだ」
「わたしこう思う。善人。ウソをつかない人たち、そういう人たちはいつもメンタルが強いわ。揺るがない。そういう心を持っている。その一方で最も救われたいと、来世ではこういう生き方をしたくないって願うのがあなたの言う悪人、そういう人たちが、あなたの万引き体験を参考に言うなら、トモ君の心はいつだってプルプルと震えているのでしょう? だったら」
「いや、違うんだ。トモは悪人であり、僕たちの財産の一部を盗んだ。僕たちはいくらでもトモを、いくらでも悪く言っていいいしどんなに憎んでもいい。そういうことなんだ」
そんな風に言いながら、夫は笑っている。ぽろぽろと涙をこぼしながら笑っている。そして全裸だ。風邪を引きますよ。妻はそう注意した。




