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Quad East Diver   作者: 糸
3/4

1-3 当千のマイステルン

「へっくしょい……ああもう」

「……これで3回目なんだけど、こんな時期に風邪? いや、それは4回だっけ……?」

「一回目は陰口、二回目は笑いの種、三回目は恋の噂で四回目は風邪……じゃなかったか。というかアンタも一回くしゃみしてただろ」

ゆうとチェルが風呂に入っている間、事務所にいるのは朋香のデスクのそばにいる朋香本人とその息子の2人である。朋香はコーヒーの残りを全て流し込み、視線を自分の右手に握っているものに落とした。

「ICカードか、何かのカードキーか。なんのカードなんだろうな」

厚さは2~3mm程度、カード裏の上部に黒い線のある磁気ストライプカードカードで、右下隅にICチップが埋め込まれているような凹凸を確認できる。色は銀色で、表の中央いっぱいに石蕗市の市章である石蕗の花を3輪重ねたようなマークが書き込まれている。

「ICチップと磁気ストライプがあるのは普通キャッシュカードとかクレジットカードなんだけどね。これも見た目そんな感じだけど……市立銀行なんて石蕗にはなかったはずだよ? コレに似たような模様のキャッシュカード発行してる銀行も、市内の銀行にはない」

ネットで検索した石蕗市内に本店、支店のある銀行のホームページを葉一郎に見せる。

「なんかの店のポイントカードかと思って調べたけど、そこまでやると細分化されすぎてネットじゃ調べきれない。まぁこんなにどでかく市章が描かれてるんだからほぼ公営企業のものだと思うけど……下石(おろし)市場(公設市場)ではカードは使われてない、市立病院の診察券も違う。となると……公務員の職員証かなあってなるんだけど」

「どう見ても違うよな。名前も顔写真も普通は書いてあるものなんじゃないのか」

「それ以前に……これがゆうたんのワンピースから出てきたってことなんだけどねぇ」

葉一郎とチェルが学校に行っている間、朋香が元々ゆうが着ていたワンピースを洗っておこうと風呂場前の洗面所へ運んでいく最中に気づいた。しかもこのワンピースはポケットがある構造ではないため、スカート部分の裏に縫い付けられているような状態だった。なんのカードなのか当然朋香はゆうに尋ねたが、やはり首を横に振られてしまった。

「うーん……その辺に売ってるリーダーでも大丈夫なはずなのにねぇ。そもそも読み込まない」

朋香が何種類かのカードリーダーをPCにつなぎ、カードを通しては画面を見る。しかし機械が反応を示すことすらなく、何度通しても、リーダー変えて試しても同じ。カードの情報自体が暗号化されているのだろうか、そうなれば朋香自身はコレ以上調べることが出来ない。

「友達に解析してもらおうかな。ユキジどーせ暇でしょ……うんそうしよそうしよ」

「あのーさぁ」

「ん?」

PCの通話アプリを開こうとした朋香を葉一郎の声が制止する。彼とてそのカードを解析する方法を知っているわけではないが、少し気になるいきさつがあった。

「俺さ……ゆうを見つける前にスーツ姿のグラサンにぶつかったって言ってたでしょ。その人がゆうを探してたって」

「あーうんうん」

「……そのカードとさ、関係あるんじゃないのって」

「……やっぱり?」

ゆうを救出する前に見かけたセキュリティポリスみたいな風貌の男。彼はゆうを探しているとだけいい、それ以外は素性も一切語ることなく去って行ってしまった。警察や市の職員、いや民間の企業でも所によっては素性を聞けば答えくれるだろう。しかし彼は無関係の通行人には必要最小限の接触にとどめ、誰にも悟られることなく捜索しているように感じる(最も、いかつい風貌の男があの辺でもうろついていたら目立つことこの上なさそうだが)。

「あのカードの中身を調べるのもいいけどさ、あの男を辿ればカードの中身もある程度想定できるんじゃないかって」

「どういうこと?」

「ゆうを捜していた奴……ゆうを捜していたのか、ゆうが持っていたカードを捜していたのか」

「でも、ゆうたんはあのカードのこと知らないんだよ? 持っていたことはちゃんと知っていたけど、何処で手に入れたのかもわからないって……その男はどんなカードか知ってるってこと……なのやっぱり?」

「だって言い方悪いけど身元不明で見た目もボロボロな子をわざわざ……そういやあの写真……どこで撮られたんだろうな」

「写真? あー、その男の人が持ってたの?」

「あぁ。その写真のゆうはあの白いワンピース着てて、見た目も綺麗だった。綺麗だったというか、少なくとも普通だったな。どこかの施設で撮られたような写真だったが」

「へぇー……じゃあもしかしたら、記憶がはっきりしてる頃のゆうたんのことも……。なんとか探して聞き出さないと」

「また捜索かよ……毎週街中まで行きたくない」

「まぁまぁそう言わずに。お昼いいもん食べてきていいからさ」

「……メテオラ行きたいから2000円で」

メテオラとは石蕗市中心街にあるハンバーガーショップであり、正式名称はメテオラ・フェイント。アーリーアメリカン調の雰囲気が色濃い店内では外国人マスターによる本場仕立てのハンバーガーを楽しむことが出来る。値段は高校生が出すには少々値が張るものの、非常にジューシーなパティとアボガドのまったり感がマッチしたアボガドバーガーにパティ4段乗せにブルーチーズを使った非常に濃厚なチーズバーガー等のメニューが人気で、昼夜を問わず若者を中心に賑わっている。青野家の3人は皆大好きだが、引きこもりは一度も店内に入ったことがなく、もっぱらテイクアウト品だ。

「本当はゆうたんも連れて彼女の記憶に刺激させたいんだけど……狙われているのだとしたら危険かな」

「あの時は1人見かけだだけだったけど……多分1人で探してるわけではないと思う。それがはっきりするまではいいんじゃないか」

「ゆうたんのこともっと知らなくていいの?」

「迎え入れたばっかで急ぐこともないでしょ」

葉一郎は母親が見ていた石蕗市の公式ホームページをジーっと見つめる。

何よりもまず、ゆうがこの家に慣れることが最優先にすべきと考えている。家族の一員として溶けこむ前に自身のことあれこれ探しまわって危険に晒すことだけは御免被りたい。そもそもゆう、自身がどう思っているのかを聞かないことには勝手に事を進めるのも見当違いと葉一郎は思っていた。

「へぇー……ゆうを迎えるのに一番渋ってたアナタがねぇ。同情しちゃった?

「嫌らしい言い方だなあ。ゆうは家族の一員になったんだから……当然だろ」

彼女が持っていたカードの中身、市章が刻まれたカードを(知らず知らずの内に)持っているゆう、ゆう自身かの持つカードを追うスーツ姿の男。あの小さな少女の裏に葉一郎が考えうる以上の事情、もっと言えば闇のようなものを感じる。彼女は何者なのだろう、あのカードは一体何なのだろう、そんな彼女をホイホイ迎え入れて本当にこの家は大丈夫なのだろうか。

「いざとなったらあたしに任せなさい。子供を守るのは大人の役目なんだから!」

デスクに座る少女みたいな大人が無い胸を張って鼻息を荒らげているのを傍目で見ながら、

「ま、考えたって仕方ないか」

何のヒントもないことをあれこれ推察することに虚しさを感じて本当に探偵事務所の人間なのっていいのかとナーバスになっていった。


週末、葉一郎は朋香の指令通りに再び中心街へ向かい、例のスーツ姿の男を探した。それとは別にゆうの写真を改めて取らせてもらい、それでその周辺にある孤児院何件かに聴きこみをさせてもらった。しかしどれも収穫らしい収穫はなく、ただメテオラ・フェイントでハンバーガーを食べただけで終わってしまった。そもそも休日とはいえ、街中にはスーツ姿の男性はいくらでも歩いている。どれだけ厳つくても、どれだけ目立っても、それがスーツ姿を脱しない限り発見するのは難しいと気づいたのは店でコーラを流し込んでいた時だった。

孤児院の方に関しては、訪れた場所が小さなところであり、また彼女のボロボロさから遠くから彷徨ってきたと、そう考えることでひとまず区切りを打つことにした。中心街から少し離れた孤児院の調査や記憶が少しでも戻ったら本人の話を聞いて孤児院を絞り込むなどということも必要になってくるだろう。

徒労に終わってしまった調査から数日後の夕方、葉一郎はゆうと共に買い物に来ていた。どちらかと言うとゆうに道案内するために一番暇だった葉一郎が駆り出された。

「〜〜♪」

「……」

足取り軽いゆうの格好は葉一郎が当初言ってた幽霊少女というものとは程遠い歳相応の明るさ感じる女の子になった。ピンクのカーディガンと明るい黄色のひざ丈スカートという服装で、あのべったりした黒髪は傷んでいたこともあり、バッサリと切った。ふんわりとしたショートボブという趣だ。

少し浮ついているゆうとは対照的に葉一郎はわずかに固まって苦虫を潰したような表情になっていた。その理由として考えられそうなものに、2人の両手が仲良さそうに繋がれているのが見える。

『ゆうちゃんが迷わないように手を繋いであげてね、お兄ちゃん!』

『誰がお兄ちゃんだ。ていうか手を繋ぐっていう年じゃ……』

『ゆう……お兄ちゃんと手……繋いじゃ、ダメなの……?』

『……』

男は小さな女の子の涙にどうしようもなく弱かった。

「えへへ……お兄ちゃんと歩くの……初めて」

「そうかも……しれないな……?」

不自然にお兄ちゃんの目線がキョロキョロしているのは見知らぬ小さな女の子と手を繋いで歩いている自分を知り合いに見られたくないから。とある事情からとにかく目立ってしまっている葉一郎としてはコレ以上噂の種を増やすことはしたくなかった。

「ま、この子に比べたら……」

「んん……?」

「あ、いや……なんでも……ん?」

そんな風に一人挙動不審になりながら歩いている時、車道を挟んだ反対側に派手な格好をした男女の集団が横並びで歩いて行くのを見つけた。すれ違う人に道を譲ることなく我が物顔でのし歩くガラの悪い連中は悪い意味で注目を集め、周りの人も絡まれないようにしようと無関心を貫いているようだ。背丈は皆葉一郎よりもやや大きめ、歳は20歳前後と言ったところだろう。この近くに短大があるのでそこの学生が講義終わりにほっつき歩いているといったところか。葉一郎も何度か見たことはあるしこの場にいないチェルも当然見たことはある。

「お兄ちゃん、おかし買ってもいいの……?」

「ソフトクリーム屋あるから買い物終わったらそこに行こう。ゆうは好きか?」

「よくわかんないけど……おいしいの?」

「冷たくて甘いんだ。俺よりもお母さんが好きだな」

「たべてみたい……! はやくいこ!」

「うわっと……焦るな焦るな」

「うりきれ……いやだ!」

少年のズボンを引っ張る少女の好物は甘いもの。甘いお菓子は女の子と小さな子どもを奮い立たせる。控えめに言っても異常な出自であるゆうとて例外ではなく、家でロリポップをなめていたら興味津々で見つめて、それ以来葉一郎と共にチョッパーチップ社のファンだ。

ソフトクリームの話を聞いたゆうがはしゃぎ気味で葉一郎の手を引いたまま走りだし、彼が気づいたものに一瞥もすることなくスーパーへ入っていった。


「はやく……! そふと、くりーむ……!」

「そんな簡単に売り切れないって……ほらすぐ買えるから」

スーパーで買物を終えた2人はフードコートのソフトクリーム屋前で品定め中だった。葉一郎の隣の幼い少女は店の写真やコピーに目を奪われたのか、カラフルな色のソフトクリームに眼を爛々とさせていた。本当に初めて見るというリアクションだった。

「あっ……やべぇ」

「……どうしたの?」

「あー……電池買い忘れた。先買って食べてていいぞ」

「……?」

小銭入れから百円玉を3枚、ゆうの小さな手のひらに乗せて葉一郎はすぐに振り返って歩き出した。

「……」

1人になったゆうは葉一郎の言うとおりにした。長い長い吟味の末に王道のバニラアイスを選び、早速舌でひと掬い。

「ん〜……あまあま……」

冷たさとともに口の中で広がるバニラの香りに、無表情なゆうの顔もひとりでに綻ぶ。小さな赤い舌が白いアイスをつつき、舐めとって口に運ばれると再びニンマリ顔。最も一人で食べていると少し物寂しさも感じるものだった。

「お兄ちゃん……まだかな……」

葉一郎を探しにバニラソフト片手にペロペロしながらフードコートを離れだすゆう。平日の夕方という微妙な時間帯だが人はそれなりに行き交っていて、人を探すために眼をキョロキョロさせながらアイスにも注意しているため、前方不注意もいいところだった。当然ゆうも夢中になっててそれに気づく様子はない。フードコートを離れてスーパーの出入り口付近に近づいていけば人の行き交いは更に多くなる。その中には、

「……うわっ……!」

「……おぃ?」

いつの間にか現れた怖そうな人にぶつかってせっかく買ったソフトクリームをぶつけてしまうかもしれない。


「あれっ……ゆうどこ行ったんだ?」

葉一郎が電池を買い直して戻ってくると、ソフトクリームを先に買わせていたはずのゆうの姿が見えなかった。

「……そういやココに居てとか言ってなかったっけ。というかさっさと買わせて歩き食いでも良かったな……目を離すべきじゃなかった」

歯ぎしり一つして周囲を見渡す。ソフトクリーム屋があるフードコートにはあの小さな少女の姿は一切見られない。もしかして自分を探しにどこかへ移動してしまったのだろうか、と思い浮かべる。

「じゃあここ以外……店内を急ぎ足で回れば……」

すぐさまフードコートを離れてスーパー内を急ぎ足で歩き出す。小柄なゆうを人が多いスーパーの中から見つけ出すのは……と思ったのもつかの間だった。すぐ見つかった。

「おぃ、ソフトクリームすっげぇついてんんだけど?」

「クッセェ!バニラクッセェ!しかもベタベタするぞこれ!」

簡単に見つかったのは、もしかしなくても周りの派手な取り巻きのおかげだろう。

場所は出入り口付近。3,4人の髪の色まばらな男達に半ば取り囲まれるような状態でゆうがいた。手に持っているソフトクリームは何かにぶつかったみたいに変形し、男の中の一人のジャケットに白い液体のようなものがべったりくっついてしまっていた。

なんとなく状況がつかめた。

「お嬢ちゃん〜?ちゃんと前向いて歩かないとダメだよ〜? じゃないと良輔のジャケットにソフトクリームぶつけちゃうからね〜?」

「このジャケット高かったんだけどなあ〜? クリーニング代もバカにならないだろうなぁ……お嬢ちゃん払えんの?」

「そういや名前なんていうの? 黙ってないで答えてよ。……だんまりかよクソが」

「幼女!白濁!複数プレイ!」

大の大人4人が小さな女の子を殆ど取り囲むように立って見下ろし、好き勝手に言葉を浴びせる。トラブルの中心は俯いたような顔で、身動きひとつ取らない。取れない。

自分より10も下かもしれない女の子に寄って集って包囲網作成。クリーニング代取りたいならもっと説き伏せるような言い方もあるだろうに、何故ああいうふうに威圧する必要がある。取り囲んでいる男たちの風貌も手を出せそうな感じでもなく、周りの人はスルーを決め込む。

「全く……面倒なことになったもんだなあ……!」

もう見ていられるはずもなかった。買い物袋を買い物カゴの山のそばに置いて、ゆうを取り囲む悪漢共へにじり寄る。一番小さい人でも葉一郎より3,4cmくらいは大きそうな連中。そもそも数を見るだけでもこちらが劣勢なのは明白である。が、葉一郎は、

「どーもすみませぇん、連れがちょっと不注意やらかしたみたいで」

軽く会釈しながら現れてゆうの隣へ滑り込んだ。

「ここのクリーニングで500円位で出来ますから、これ渡すんでこの場は修めましょうよ。それでは」

ちょうど正面にいた金髪のマッシュショートボブの男に500円玉を握らせ、縮こまってしまったゆうの手を引いて自動ドアの方向へすたこらさっさと立ち去るつもりだったが、

「おい、てめ何逃げようとしてんだよ」

その金髪男に肩をおもいっきり掴まれた。しかも爪を立てて身体に食い込ませてくるほどに固定させてきた。

「誠意がないんと違う? 人にアイスクリームぶつけたんなら土下座が先だろぉ?」

「つーかアンタ誰? お兄さんか何かかな?躾なってないんとちゃう?」

「兄!妹!公開ネトラレ!」

「というわけでちょっと死んで……」

掴まれている肩が引き寄せられ、金髪の男の方へ身体を向けられる。その振り向きざまで

「ううっ!……クッ……」

ガツン、という鈍い音。それと同時に掴んでいた葉一郎の肩から手が滑り落ち、金髪男の体は沈み込んでいく。うつ伏せ状態で床に倒れ、片膝を抱えて歯を食いしばるような表情になった。

「いった……て、てめ……何を……ぐあぁっ!

転倒した体を起こそうとして立ち上がるも脚に力が入らないかのようにすぐに崩れ落ちる。荒く息をついて恨めしく葉一郎を睨みつけるが誰が見ても負け犬行為にしかなっていなかった。

葉一郎は振り向きざまにその男の右膝をおもいっきり蹴り飛ばしたのだ。脚の可動部となるデリケートな部分、片方でも大きな衝撃を与えて強い負担をかければ立つこともままならなくなる人体の急所だった。

「てんめっ……やんのかゴラァ!!!」

仲間がやられたことに気づいたドレッドヘアーの男が飛びかかり、それと同時に葉一郎とゆうを取り囲むように残り2人が回りこむ。ドレッドヘアーが掴んでかかり、拳を振りかぶろうと……

「よくも良輔を……んがっ!」

「……ふんっ!」

「ガァ……ふぅっ、んがっ、あががぁっ……んがっ、ああっ……ガッ」

自ら懐へ入ってきたドレッドヘアーを迎え撃つように、葉一郎の片手が彼の首元を捉えてえぐるような動きをする。こちらも人間の急所だ。器官部と頸動脈が集まる喉仏を圧迫されると簡単に呼吸困難に陥る。

「あぐぐっ……てめっ……よく、がふっ!」

首を絞めたまま、鼻とそのすぐ下の唇との間の部分をまとめて狙えるヘッドバットを繰り出した。鼻は軟骨程度しかない弱い部分であり、その下の部分も比較的薄い唇の肉が被さっているだけなので衝撃を与えられたら歯が折れやすく、また固めの歯茎と衝撃を加えたものとサンドイッチされて凄まじい激痛が襲う。

ドレッドヘアーがふらふらと後ろへよろけながら倒れていくのを見向きせずに自分の後ろにいる残り2人へ今度は自分から距離を詰める。

「そういやこういうのがあったなあ……?」

海外のお騒がせスーパースターみたいなリーゼントショートのグラサンが懐からカッターナイフのようなものをゆっくりと葉一郎に見せつけるように抜き出す。カチカチカチとゆっくり刃を抜き出しそれを守りが手薄になっていたゆうに向けようとして、

「痛っ……!!!」

カッターナイフがグラサンの男の手からポロッとこぼれ落ち、カタンと乾いた音を立てて床に落ちる。男が葉一郎の方を見ると、何かを投げたような体勢を取っていた。

「道具には道具で、当然だよな」

男の手にぶつけられたものがスピンして跳ね跳び、床に落ちて買い物カゴの下へ滑りこんでいった。先ほど買いなおした電池だった。しかも単一だった。なかなかの重量のあるものだ。

「えっそんなっ何だコイツ……」

電池を振りかぶって投げたフォームからのめり込むように走りだしてその勢いのまま

「あがっ……!!!」

こめかみを狙った渾身の一突き! 呆気にとられたグラサンは耳への衝撃で平衡感覚を狂わされ、軽い脳震盪も起こしてふらふらと倒れていった。当たり前だがここも人間の急所だった。

「俺!お前!一対一!」

スキンヘッドでひげも少し生やした一番いかつそうな男が少しずつ葉一郎と距離を取る。手のひらを前にだして待ての姿勢をしながら、どんどん自動ドアの方向へ後ずさる。

「俺!最弱!エスケープ!!!」

そのまま脱兎の如く逃げ出した。

「やれやれ……大丈夫だったか?」

「お兄ちゃん……!」

「ダメだぞ歩きながらアイスクリームなんか食べちゃ。前が疎かになっちゃうだろ」

「でも、お兄ちゃんどこにいったのか……わからなくて……」

「悪いな遅くなっちゃったか。とりあえず帰ろう……少し目立ちすぎた」

ココはスーパーの出入口。一般客もスーパーの店員も葉一郎の方を見て訝しげに、何人かはスマートフォンで電話をかけようとする仕草までしている。厄介な人を呼ばれたら葉一郎とて咎めがないわけではないだろう。どんな事情があるにせよ喧嘩自体は営業妨害も甚だしい。

「……うん?」

ゆうの背後、倒れている男の側に何か銀色に光るものが転がっていた。手にとって見ると何か蕗の葉のような形をしたバッジだった。

どこかで見覚えがあったものだった。

「あっちょっとキミ! もう少し待って……!」

「お兄ちゃん……はやく!」

「おっそうだな……!」

葉一郎はゆうの手を引いて買い物袋を回収してから駆け足で店員の追手から逃れるように立ち去っていった。もうしばらくはこの店にいけないだろう。


「お兄ちゃんすごかったんだよ!すごいおっきくてわるそうな大人をいっぱつでバタバタたおしていったの!」

「あらあら、それはすごかったわねぇ。そうよ、このお兄ちゃん特殊な訓練受けていたから小さくてもそこらのチンピラじゃ敵いやしないのよ?」

「小さいは余計だ。ったくなんか恥ずかし……」

帰宅後、事務所の応接間でもある和室で洗濯物を畳むメイドのそばで興奮冷めやらぬとばかりにはしゃぐゆうの声を聞きながら葉一郎はソファーに倒れていた。

「怪我がなくてよかったわね、ゆうちゃん。ヨーイチは……大丈夫そうね」

「……」

「それでそれで……!」

はしゃぐお子様の声を聞きながら、葉一郎は手にしているバッジを手の中で転がす。

「何なんだろうな……これ」

蕗の葉の形をした金属のバッジ。家に帰ってじっくり見て思い出したが、これはゆうを捜索していた時にぶつかったスーツの男がつけていたものだ。記憶が朧気なので確証はないし、そもそも郊外のチンピラと街の中で見たSPみたいな男が同じものを持っているとは思えないから、半分以上くらいは違うものだと思っている。その確証を得るための手がかりとして朋香に知っていることがないか聞き出したかったのだが、

「こういう時に限ってなんでお母さんいねえんだ……」

チェルの話では葉一郎が帰ってくる10分前くらいに(珍しく)一人で出かけると言って出て行ってしまった。週1くらいのペースでこういうことがあるのでそれ自体を気にすることはないが、単に間が悪かったと思うしかなかった。

この朋香の外出、時々午前様になることもあり、何時に帰ってくるのかはさっぱりわからない。何度か行き先を聞いても毎回はぐらかされてしまい、何処へ何しに行っているのかすらさっぱりわからない。探偵業務に関係することなのだろうかと思ったこともあるが、それなら葉一郎やチェルに言ってもいいはずだ。

「ヨーイチ、ちょっとこっちに来て」

「えー……」

チェルに呼ばれた葉一郎がバッジをテーブルの上に置いて、和室の方へ行く。

「ゆうちゃんがお話あるって。聞いてあげて」

「……なんだ?」

「えっとね……お兄ちゃん……」

少し顔を赤くしてうつむき、スカートをきゅっと握りしめるゆう。葉一郎にとっては監督不行届で怖い思いをさせてしまったショックがあるのだろうかと心配になる。

「お兄ちゃん……ありがとう。お兄ちゃんに……ゆう、2回も助けてもらった……」

「2回……? あ、あぁ……まぁそれは」

「ゆう……まだお手伝いもよくわからないし、べんきょうもできないけど……」

「う、うん……?」

もじもじと握りしめるスカートのシワが少しずつ強くなる。

「お、お兄ちゃんの……ために、いっぱいごほーしするから!」

「お、おう……?」

俯いていた顔を頑張って上げて、控えめな目つきが葉一郎のものと交差して。

「お兄ちゃん……ゆうをメイドに……して?」

控えめ少女の真っ直ぐな告白。残念ながら葉一郎は異性に告白されたような恋愛経験は未だにないが、なんとなく告白される状況というのはこんなかんじなのだろうかと考えていたりした。告白内容がだいぶおかしいのはおいといて。しかもこんな小さい子に倒錯したこと言わせることもおいといて。

「わーぉ……ヨーイチったら凄いこと言わせるんだからぁ」

「言われてからなんか凄いこと言われてんなって……ってかチェルが言わせたんだろこれ」

「私はヨーイチがメイドフェチだってことしか言ってないわよ?」

「言ってんじゃねえか! てか俺メイドフェチじゃない」

「じゃあゆうちゃんのメイド姿想像してみてよ」

「ゆうのメイド……?」

目を閉じてゆうのメイド服姿を想像してみる。

ふわふわした黒髪の上にヘッドドレス、小さな体にシックなエプロンドレスを着てオペラグローブをつけ、下は編み上げブーツで黒いストッキング。母親の趣味というかチェルの普段着ている服装で想像してみた瞬間、心のなかで反射的にガッツポーズをしていた。少し大人っぽすぎるかもしれないが、絶対似合う。絶対かわいい。絶対着せたい。

「いやいやいや! ゆうはゆうのままでいいって! そのままも可愛いから!」

「……や、やっぱり……ゆう、めーわく……?」

「いやそういうことじゃ……でもなぁ……。他にやりたいこと優先してくれりゃいいのに」

「ゆう……お姉ちゃんみたいに、いっぱいお手伝いする……やくにたちたい……!」

「今でも家のこと自分なりに手伝ってくれてるから助かってるぞ。それに自分のことは……その、いいのか」

自分のこと、というのはゆうがそもそも一体どういう子なのかということ。今でこそ青野家の一員となったゆうでも、それは記憶喪失で以前の自分が思い出せないということが、養子として迎え入れた理由の一つだ。

市街地にあるあの公園で彷徨っていた、あのスーツ姿の男に探されていたゆうは、元々何者だったのか。葉一郎は今でもゆうのバックに何かこちらを簡単に押しつぶしてきそうな闇の塊を直感的に感じ取っている。

「ゆうちゃん別に貴方に迷惑かけるって言ってるわけじゃないからいいじゃない。それよりも、こんな可愛い子2人に……ご奉仕されたくない……?」

「さり気ない自画自賛やめろ。まぁ……俺としては、本人のやりたいようにやればって感じだし」

「ゆう……もっとがんばる! ゆうも……お兄ちゃんをたすける……!」

「おう。難しいことあったらお姉ちゃんに聞くんだぞ」

「うん……!ふあぁ〜」

葉一郎がゆうの頭を撫でると少しこわばっていた表情が一気に緩まった。12歳の少女らしい天衣無縫で陽だまりのような暖かさを感じる表情だった。あの公園で見たゆうと今眼の前で頭を撫でられているゆうとのギャップ。前者が都心で見た幻影だったかのような錯覚、当の本人が迎えに行ったようなものなのに、現実感がなかった。

「ヨーイチ、頭なでながら仏頂面しないの」

「あ、あぁ。とりあえずもうそろそろ夕飯の時間だし、2人で作ってきたら?」

「それはいいわね。ゆうちゃん、お姉ちゃんと一緒に作ろっか?」

「うん……!お姉ちゃんとごはんつくる!……お兄ちゃんは……?」

「あぁ……えっと俺は……」

「お兄ちゃん、料理のセンス壊滅的だから。おかゆも満足に作れないしこのサイフォンだって全然使えないのよ?」

「そんなことねーよ!ていうか台所一切使わせてくれないからだろ!」

「ヨーイチは色々調べたいことあるんでしょほら、早く自分のデスク行きなさい」

「あっちょっと……全く」

葉一郎だけ和室から追い出される。

「おにーちゃん、ごはんまっててねー!」

手を降ってゆうに応えて、自分は自分のやることをする。未だ手の中にある小さな金属バッチを握りしめて、葉一郎はデスクの上のノートPCを開く。

「まずはコイツを……。どっかのネットの掲示板で聞いてみるか」

前に比べて賑やかになった台所。2人が微笑ましく料理を進めている様子をBGMにノートPCに集中し、葉一郎は目の前の謎に取り掛かることにした。

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