28 悪魔の巣
「年齢は七十五歳、外科医のリック・ワイラーを指名手配しろ」
事態は一刻を争う。
イギリス全土に跨る警察と住民登録などを含めた全ての情報網をストウは、リック・ワイラーで検索をかけた。
イングランド全土、及び、北アイルランド、ウェールズ、スコットランドを含めたイギリス連邦全域に凶悪犯の指名手配が発令されたのは、オウエン・ストウとアガサ・メイスフィールドが若手ながら政界の大物と呼ばれるウィリアム・スペンサーと密談を持った当日だった。
スペンサー家の中枢により近しい血筋の彼は、若干五十三歳にして貴族らしい政治的影響力を発揮した。
本来、ロンドン市警察に勤務するストウだったから、イギリス連邦全域に跨って指揮を執る権限はないのだが、ウィリアム・スペンサーの鶴の一声によって。この緊急指名手配に際して捜査全体の指揮を任命された。
禍々しくもおぞましい。
その事件の全体像へと差し迫る。それがはたして真実であるならば、英国史上屈指の猟奇殺人犯となるだろう。
「知っているわ。リック・ワイラー。当に引退した医師のはずだけど、母親は”あばずれ”で、父親はアルコール中毒。わたくしは毛並みの悪い雑種になんて興味はなかったけれど。よその二流貴族たちは、彼が上昇志向が強い努力家だってよく持ち上げていたけれど、人間というものは生まれと育ちは隠せなくってよ」
吐き捨てるようにリーバー伯爵ヴィクトリア・オールディスは、電話口でメイスフィールドにそう告げた。
確かにリーバー伯爵が嫌いそうな経歴だ。
メイスフィールドは思ったが、きっと彼女が彼を嫌うのは庶民の生まれだというだけではないだろう。
そうでなければ、平民の生まれと思われていたメイスフィールド自身をこれほど心を傾けてくれることの理由がつかない。
上昇志向の強い努力家――。
確かにそれだけならば、うまいこと褒め言葉に聞こえなくもなかった。
*
ゆらりと。
少女の漂う水槽を老人は凝視した。「誰でも良かった」わけではない。彼女でなければならなかったのだ。
純粋で、無垢な姿のまま「残してやらなければ」、いずれ「彼女」も罪深い堕落の谷底へと落ちていくだろう。「彼」の母親のように。
「”あの売女め”」
しわがれた独白は、かすれたように夕闇に染まる室内へと消えていく。
灰色の瞳の老人は憎々しげに言ってから、愛しげに「彼女」を見つめてからワイングラスを傾けた。
人として、不完全で汚らわしい女として、いずれ彼女らも朽ちていく。だから、彼はそんな彼女らを堕落から守ってやったのだ。無邪気で美しく、汚れのない姿のままで。
「ここは天使が住むには”ふさわしい”楽園だ」
それが一見して、身勝手な老人の思い込みでしかなかったとしても。
苦しめることもなく、息の根を止め、心臓の鼓動が聞こえなくなったことを確認して、彼は「処置」にかかった。
――天使は生前の姿をとどめ。
淡いライトに照らされている少女の姿。
薄く開いた唇は肉感的で、ともすればホルマリンの満たされた水槽の中で生きているようにも見える。
金色の巻き毛。
青い瞳。
全ては、リック・ワイラーの母親と「同じ」。
「”君”は汚れてはならない」
壁に掛かった時計が夕方の四時を指している。
不意に老人はギシリと響いた扉の開く音に、ぎょっとして固まってからゆっくりと、まるでスローモーションのように振り返ると瞠目した。
「あなたのお母さまは”ひどい”虐待の後に、あなたを捨てた。男も女も恨んで、呪って、自分が”何”に対して怒っているのかもわからないほど怒り狂って、そして、あなたはなにを見つけたの?」
廊下の暗がりから、滑り込むようにして長身の影がリック・ワイラーの「楽園」に侵入した。
「……――誰だ!」
「”あなたと同じ、闇の住人”」
「ど、ど……、どうしてここがわかった……!」
「リーバー伯爵が教えてくださったわ」
途中経過をはしょって侵入者――金髪の五分刈りの臨床心理学者は答えた。
四十代で特にスポーツマンというほうでもないメイスフィールドだが、やせ衰え、動揺しきった老人の反撃など特に気にする必要もなかった。
「汚れていると思ったから、時間を止めたのね。汚れないように。自らの手で汚さないように。他の男たちの手に寄って汚させないように。あなたのお母さまは、あなたにとってマリアだったけれどマリアは堕落して、かのマグダラのマリアのように正しき道に戻ることもかなわなかった。だから、あなたはそんなに怒っているのね。とても、……とても心を傷つけてしまったあなたは大人の女と恋に落ちることもできなかった。あなたのかつてのマリアのように、”彼女”があなたを裏切るのではないかと恐れたから」
メイスフィールドはそこで一度言葉を切った。
突然の楽園の侵入者に、呆然としてぽかんと口を開いた老人は、その時初めて我に返ると右手にしていたグラスを床にたたきつけて、左手に持っていた杖を振り上げる。
もはや意味をなさない咆哮をあげながら、突進してきた老人の振り上げられたその杖を、メイスフィールドはリック・ワイラーの手首を握りしめることで防いで、そのままその手を翻して身軽な動作で老人の体をひねって振り払う。同時に、ワイラーの軸足を、メイスフィールドが払いのけると、老人はそのまま壁にたたきつけられて崩れ落ちた。優美な動作で押さえ込んでメイスフィールドは口を開いた。
「終わったわよ、オウエン。エリカさん」
「相変わらず手際の良いことで」
皮肉混じりのオウエン・ストウにアガサ・メイスフィールドは笑った。
エリカは突然の成り行きに馬鹿のようにぽかんとしていた。
「エリカさんは廊下で待っていて」
「……だそうだ」
ぱたんと、若い娘の鼻先で扉が閉められる。
楽園へと続く扉。
「なに言ってるの、相手が体の不自由なお年寄りだったからわたしでもなんとかできただけじゃない。おだててもその手には乗りませんよ」
くだらないことを言わないの。
ぴしゃりとアガサ・メイスフィールドは言った。
「なんだ、ひとりで入ると言ったのは君だぞ」
首をすくめたストウがぼやけばメイスフィールドは室内に視線を走らせてから、足元に戻す。うつぶせにして、背中の中央に膝を入れて老人の体を押さえつけている。そんなメイスフィールドの様子に、手錠を取り出したオウエン・ストウは鼻から息を抜いた。
「老人だけだって”最初から”わかっていたから別に加勢してほしいなんて言ってなかったでしょう?」
「銃を持っているとは思わなかったのか?」
「多少は想定していたわ、そんなに怒らないで。オウエン」
眉尻をつり上げて本格的に腹を立てているオウエン・ストウに対して、困った様子でアガサ・メイスフィールドは眉尻を下げると微笑をたたえた。
「午後四時三十二分、児童誘拐、及び、殺人の容疑で被疑者確保」
おごそかにオウエン・ストウの声が室内へと低く響いた。
「――……ただ、わたしの”正体”をあなたには見られたくなかっただけよ。オウエン」
いっそかき消えてしまうほど小さなメイスフィールドのつぶやきが、晩秋のイングランドの空気をさざめくように震わせた。
暗闇の怪物と戦うために、彼の心をも暗闇の怪物へとなりはてる。
「アガサ」
「いいえ」
なんでもないわ。
知られてはいけない。
まるで南国の太陽のような、不正も不実も許さないストウにだけは知られてはならない。自ら怪物を追いかけるために、彼自沈が暗闇に取り憑かれた怪物だと言うことを。
犯罪に手を染める者と、手を染めない者。
両者の違いなど紙一重だ。
わずかなバランスの変化でそれはどちにも移ろい行くのだ。
「そんなもの」とメイスフィールド自身が同じだと言うことを、ストウには絶対に知られてはならないのだ。古い友人ならばなおさらだった。
ローズの復讐を誓ったときに、メイスフィールドの心はとっくに壊れてしまった。
粉々に。
心はバラバラになった。
こうして児童誘拐事件に端を発した一連の捜査は、メイスフィールドがスイスからイングランドに帰国したことによってあっさりと解決した。芋づる式に迷宮入りとまで言われていたロンドン港事件も解決してしまった。
もっとも、誘拐された子供たちは全員がすでに死亡しており、結果としては最悪だった。子供たちを誘拐した手段は自白によるとなんのことはなく、自動車でさらっただけであった。
――かつては優秀な外科医だった。
趣味は狩猟。性格は明るく社交的だが、突然訳もなく怒り出すこともあった。暗い噂もあり、現役時代は違法の臓器売買にも関与したとも言われている。
表面的には優秀な外科医という栄誉に預かりながら、彼は闇に取り憑かれた。
事件そのものは、こうして幕を引き、人知れず世間の目から遠ざかる一方で、当然ながらロンドン市警察はその後始末に追われていた。
リック・ワイラーの精神分析に関する報告書をまとめあげたメイスフィールドに、ストウは分厚い捜査ファイルからじろりと目玉だけを上げて口を開いた。
「”奴”が性的虐待を受けていた、というのは?」
「本当なのかって?」
「……うむ」
重々しくストウは頷いた。
「そうね、今さら物証なんてないけど、おそらく両親の双方から。でもね、子供って無力だから親を信じるしかないの。親から逃げられないの。物理的にも、精神的にも、逃れられない。これが平凡以下の知能を持つ子供であっても悲劇的なのに、平均以上の知性があれば更に悲劇。子供は攻撃を受けないために、親の望む自分でいようとするわ。本来の自分を殺し、草むらに引きを潜めて、望まれる自分であろうとする。どんなに心ない言葉をたたきつけられても、ありとあらゆる暴力を振るわれても、子供は信じることしかできない。いつか、彼らが自分に本当の愛情を傾けてくれると信じている。愛に飢えて、満たされない子供は、そうして常識を理解できない化け物に親がするのよ」
「彼はサイコパスか?」
「いいえ、彼はソシオパスよ」
ストウの率直な問いに、メイスフィールドは一言で否定する。
「彼の母親は娼婦で、父親はアルコール中毒。まぁ、妥当なところね」
死ぬ思いで少年期を「生き残り」、医学の博士号を取って、イングランドでも有数の外科医とまで呼ばれるようになった彼に、ふしだらな母親は金を息子にせびったのだ。
そして名医の心の片隅に、悪魔が産声を上げた。
「そうそう、地下の実験室からひとりだけ成人女性の遺体が見つかった」
「母親?」
「そう、”生きたまま解剖されたあげくにホルマリン漬けにされたらしい”」
「写真を」
メイスフィールドの言葉にストウは一冊のファイルを会議用の長テーブルの上を滑らせて寄越した。
高さは二メートルもあろうかという巨大な水槽に、女は苦痛に歪んだ顔のままで保存されていた。
腹から胸を切り裂かれ、内臓が晒されている。片目は取り出されてピンで留められて顔はのこぎりで真っ二つに切断されている。
見れば見るほど見事な人体標本だ。
正確に。
おそらくこの正確さが、リック・ワイラーのものだったのだろう。
「”人魚”とは大違い」
「死亡推定時期は約四十年前、ロンドン港事件の前だそうだ」
アガサ・メイスフィールドは写真を見つめたままで、眉毛すら動かさなかった。
「”そう”」
気の毒ね。
息子の才能を、無駄にした母親だ。
殺害されたことに対しては同情もするが、息子という化け物を生み出したのもその母親なのだ。
「全く……」
「リック・ワイラーにとって、それはレリーフなんでしょうね」
ぽつりとメイスフィールドが告げたとき、オフィスの廊下をばたばたと足音が響いて、ふたりの男は我に返った。
「ストウ警視! メイスフィールド博士! これはどういうことなんですか! わたしに勉強させてくれるって言ったのに、全然事件解決の役に立ってないじゃないですか!」
これじゃただの使いっ走りだと、ぷりぷりと怒っているエリカ・フェリルにメイスフィールドは表情を緩めると口元をほころばせた。
いつも一生懸命な彼女は、ローズとどこかが似ている。
「なに言ってるの、あなたあんなに泣いてたじゃない。そんな女の子にあんなひどい遺体を見せられないわよ」
たしなめるように笑った臨床心理学者に、若い女性巡査は指摘された内容にぱっと恥ずかしそうに頬を赤くしてから、唇を尖らせると顎を引き上げて横を向いた。
「……それは、その」
覚悟が足りませんでした……――。
エリカはそう付け加えた。
「素直で強い女の子は大好きよ」
しょげてしまった柴犬のようなエリカを見つめて、メイスフィールドとストウはそうして笑い声を上げた。
読んでくれてありがとうございました。




