20 青い闇
「どう思うね?」
「なにが?」
「なにが、じゃない。アガサ」
オウエン・ストウの言葉に、アガサ・メイスフィールドはわずかに視線を地面におろしたままで小首を傾げた。
オウエン・ストウの太い腕がメイスフィールドのスーツの内ポケットに伸ばされる。そこから無造作に取り出されたのはリーバー伯爵家の紋章の透かし模様が入った便箋を取り出したストウは顎をしゃくった。
ジェイソン・バトラー。
二十年ほど前に一代男爵に叙せられた男で、プライドの高いリーバー女伯爵ヴィクトリア・オールディスはその男に軽蔑に近い感情を抱いていることは比較的有名な話だった。それでもリーバー伯爵の知人関係の中に含められているのは、それが貴族にとって必要な処世術のひとつだからだ。
「ジェイソン・バトラーのことをリーバー伯爵はお嫌いだということは有名な話だろう。我々のような平民でも知っているのだからな。彼女の後継者として指名されているならなおさらだ」
「いつもの如く、顔色ひとつ変えないのは見事なものね。伯爵閣下も」
良くも悪くもヴィクトリア・オールディスは、いつでも表情が変わらない。
古狸とはこのことだ。
「それで、ジェイソン・バトラーについて、君はなにか知っているか?」
「人並み程度にしか知らないわよ。あなたが知っている以上のことはわたしにだってわからないわ。少なくともわたしが知っているのは、派手好きで趣味が悪いっていうことくらいね」
「派手好き?」
「そうよ。私利私欲……――金儲けに目が眩んで、結果的にそれがイングランドに栄華を取り戻したことから叙された。わたしはあんまり興味はないけれど」
「確かに君はもともとそういった事柄にあまり関心が薄かったな」
おおよそ四半世紀ほど前に全盛期を誇ったイギリスのロックミュージシャンで、その功績で叙勲された。
要するに爵位を金で買ったのだ。
それゆえに由緒正しい貴族の名家でもあるリーバー伯爵のヴィクトリア・オールディスはジェイソン・バトラーのことを嫌悪するのだ。
「貴族の地位が金で買えるなら安いものだわ」
淡々とつぶやいたメイスフィールドに、ストウは首をすくめた。
「君は、伯爵と同意見なのかね?」
問いかける刑事に、メイスフィールドは車のボンネットに寄りかかったままでリーバー伯爵邸を振り返った。
その瞳には何の感情も込められていない。
「別に、わたしは……」
なにも。
昨今のポップ・ミュージックが好きかと言われればそうでもないが、クラシック音楽が好きかと問われてもそうでもないような気がする。
なんとなく気に入った音楽を聴いているだけだ。
別段、インテリを気取るつもりなどないメイスフィールドは、左手に持った帽子を自分の五分刈りの金髪の頭の上に乗せながら、静かに踵を返した。
「きっと、伯爵閣下が連絡を入れてくれていると思うから、さっさと行きましょう。そうしなければ、女伯爵の顔に泥を塗る事態になりかねないわ」
イギリス貴族の名誉に泥を塗る。
そんな事態にぞっとして、ストウは大きな溜め息をついた。
敵はひとつで充分だ。
権力の側にまで敵を作っては、身動きすらままならなくなるだろう。
「それもそうだな。貴族というのはこれだから厄介だ」
「あら、貴族の権力はうまく使えばいいのよ。別に気負う事なんてないわ。平民と貴族だなんて言っても人は人じゃない? いちいち区別したって意味などないわ」
なんでもないことのように告げたメイスフィールドは、にこりといつもと変わらない笑顔をたたえると短い動きでストウの愛車の助手席へとするりと乗り込んだ。
とりあえずメイスフィールド自身が運転をするという頭はないらしい。
「オウエン、ぼーっと突っ立ってないの。エリカさんも」
「あ、はい……」
ふたりの男たちのやりとりを聞きながら立ち尽くしていたエリカは、突然話しかけられて驚いた様子で足を踏み出す。
オウエン・ストウもメイスフィールドに急かされるように運転席へと乗り込んだ。
「リーバー伯爵がバトラー男爵のことを好きではないといっているからと言って、別にバトラー男爵が犯罪に手を染めているというわけでもないわ」
「それはそうだろうが」
口ごもるストウは車のキーをズボンのポケットから取り出すと、続けてタバコを口元にくわえながら厳しい瞳で目の前を睨み付ける。
「本当に問題のバトラー男爵が犯罪に荷担していないと言い切れるか? 年齢を考えれば、君のプロファイリング通りの年齢に近いのではないか?」
「それはないわ。バトラー男爵はしがないミュージシャン。外科医としての修行も積んでいないわ。ついでに彼は文系出身で、血を見ると貧血を起こすくらい暴力沙汰には免疫がないわ」
「……ふぅむ」
訝しげな瞳でフロントガラスの向こうに広がる中空を凝視するストウは解せない顔つきのままだった。
「なぁに? わたしのことを信頼できないの?」
「そうじゃない」
即答で返したストウは助手席で窓に肘をついているメイスフィールドに視線を走らせた。
「君の言いたいことは誰よりも信頼している。君と一番長く組んでいたのは俺なんだからな。だから信頼していないわけがない」
そこまで一息に言ってから、ストウは車のエンジンを始動させるとバックミラーにちらと視線を走らせる。
「君のことは信じている。君が、可能性が低いと言うのであれば、実際そうなんだろう。ただ、ひとつだけ聞かせてもらいたいのだが、確かにあの傷痕は検死通りプロの仕事なんだな?」
「当時の警察の検分通り。プロの仕事に間違いないでしょうね」
あれはメスの切り口だ。
オウエン・ストウの厳しい眼差しを流されてもメイスフィールドは顔色ひとつ返ることもなく、やはりストウと同様にフロントガラスの向こう側を凝視する。
「幼い人魚……――」
ぽつりとメイスフィールドが独白した。
エリカは声色の調子が変わった臨床心理学者に視線を上げた。
「まだまだ謎は残っているけど、事件の全容は見えてきたんじゃない?」
「つまりこうですか? ロンドン港事件が三十年前。そして、幼い人魚の噂を聞いたというリーバー伯爵閣下の噂が約二十年前。そして、ここ数年の間にも頻発している児童誘拐事件。これらが繋がっていると博士はおっしゃいたいのですか?」
目の前に突きつけられた情報をもとに状況を自分なりに整理したエリカが、指を折りながら慎重につぶやくと、肩越しに振り返ったメイスフィールドが緑の片目をつむって見せた。
「当たり。まぁ、簡単な話ね」
三十年前のロンドン港事件で実験を始め、二十年前の人魚とやらでそのテクニックが完成に近づきつつあった。手口は年々巧妙になり、今やその技術は完全犯罪という形で結実する。
謎の失踪事件として。
最初はその足が付きにくい、不法就労者や移民の子供たちが標的にされたことだけは確かなようだ。
「計画的な犯人は、足がつくようなへまはしないでしょう。だから、謎は謎のまま、三十年の時が流れた」
「どうしてロンドン港事件が怪しいと感じたんですか? 博士」
狭い車中で足を組んだメイスフィールドはなにやら思考に捕らわれている。
「きっとバトラー男爵が新しい情報を提供してくれるはずよ」
「そうだといいが」
男ふたりは、エリカの存在など気にも留めていないようで、そんな男たちになぜか苛立ちを感じる。
自分のことを蔑まれているような気がしてならない。
それは自分が女だから? それとも若いから?
……それとも、平民出身だからだろうか?
いや、平民出身という意味ではオウエン・ストウも同じなのだろうが、それにしたところでオウエン・ストウは同じ刑事とは言え、警視のストウと巡査の自分では天地の差だ。
先ほどストウとメイスフィールドと共に同席したリーバー伯爵邸でもそうだった。
その主人でもあるヴィクトリア・オールディスは大人の余裕か、エリカをなめ回すように値踏みしていた。
イライラとするのはそうした積もり積もったものがあったからなのかもしれない。
だいたい初対面の相手に突然、メイスフィールドの恋人なのかと問いかけるとは失礼極まりない。なによりも四十代のメイスフィールドと、二十代のエリカでは年齢が離れすぎているではないか。
普通に考えれば互いに恋愛対象になりそうにもない。
もっとも、若いエリカがたまにどきりとさせられる程度にはメイスフィールドは品が良く、どこか不思議な色気も漂わせてはいるのだが。
「博士」
「なーに?」
「だから、どうして博士はロンドン港事件を怪しいと睨んだのですか?」
もう一度問いかけた。
「そうねぇ、強いて言うなら、昔出た本の……、ほら、あの”迷宮入りしたロンドン港事件――その真相”よ。あの写真を改めて見たときピンと来たのよ。たまには俗っぽい本でも置いとくものね。今起こっている事件の被害者の子供たちとよく似ているってね」
人種も。
民族も違うが、よく似ている。
「貴族には中には悪趣味な性癖を持つ人もいるから」
とつとつとメイスフィールドは言葉を続けた。
「だから、伯爵に聞けばなにか収穫があるんじゃないかと思ったの」
貴族社会の闇の部分をメイスフィールドは知っている。
時に犯罪寸前の手段に訴えていても尚、貴族という理由で許しを得られる。
「エリカさん、あんまりリーバー伯爵の言っている事を真に受けないほうが賢明よ」
まるで彼女の内心を察するように、メイスフィールドは鋭い口調で言い切った。




