19 女伯爵の疑惑
彼のためにあつらえられた灰色のスーツを身につけた中年男の来訪にリーバー女伯爵ヴィクトリア・オールディスは安楽椅子から立ち上がると、手元のカゴに毛糸の玉と編み棒を戻して老眼鏡を品の良い仕草で外しながら、微笑を口元にたたえて目尻を下げる。
「あらあらあら、まぁまぁまぁ」
老伯爵の穏やかな笑顔にアガサ・メイスフィールドは小さく会釈をするとためらいもせずに踏み出した。
「噂になっていたのよ。あなたがベルンを離れるなんてびっくりすることもあるものだって。あなた年々腰が重くなってひとところに根が生えるようになってしまったんだもの。あなたを独り占めできてグレッツナーが羨ましいわね」
ほっそりとしたしなやかな体つきは、老伯爵が若かった頃の美貌を覗わせる。
「よく顔を見せてちょうだい。五年も会いに来ないなんて、あちらに魅力的なお嬢さんでもいたのかしら? アガサ」
「スイス銀行のグレッツナーさんには本当に良くしていただいています」
「わざわざプライヴェートジェットまで出してくださるという彼の申し出をお断りしたそうじゃないの。あんまり失礼な態度は良くないわ」
「申し訳ありません、失礼をしたつもりはなかったのですが。本当にいつも分相応なほど良くしていただいているので、逆に申し訳なくて……」
「それもそうね」
老婦人に跪いて、ヴィクトリア・オールディスの手の甲に口づけたアガサ・メイスフィールドはいつもの如く穏やかな笑顔で立ち上がると、女伯爵の導くままにリビングのソファに腰を下ろした。
「あの方たちは? お友達? アガサ」
「はい、友人の……。ロンドン市警のオウエン・ストウ警視と、その部下のエリカ・フェリル巡査です」
「そう、警察なの」
メイスフィールドの紹介を受けて、型どおりの礼を取ったふたりの刑事にリーバー女伯爵は、まるで値踏みでもするように冷徹な視線で頭のてっぺんから靴の先まで見下ろした。
「ようこそ、そちらにおかけになって」
女伯爵とメイスフィールドの大切な空間にどうして部外者がのうのうと幅を利かせているのか、とでも言わんばかりの態度だが、そこは二枚舌で有名なイギリス貴族だ。表向きにはそんな言葉は口にしない。
「それで、今日はどんなご用件かしら? 刑事さんたちがご一緒ということは最近ロンドンで起こっている事件のことなのでしょうけれど、わざわざあなたがこうしてわたしを訪ねてきたということは、若い方たちでは解決できないことでも起きたのかしら?」
悠然と言葉を綴る彼女から感じるものは、海千山千の老練さだ。
ちらと女伯爵の視線が、エリカをとらえた。
明かな値踏みにエリカは少なからず動揺と不快感を禁じ得ない。
どうせ、平民などこれだから俗っぽくて下品だとでも思っているのかもしれない、などとエリカは勘ぐった。
どうにも不愉快だ。
「閣下にも大変目をかけていただいているのに、お心を煩わせてしまったようで申し訳ありません。どうぞお許しください」
「いいえ、あなたが元気にしているならそれでいいのよ。もしも外国で何かしら不都合があったら連絡をくださればわたくしが何でも滞りなく運ぶように手配をしてよ?」
まるで過保護な母親だ。
エリカはうんざりとした。
ヴィクトリア・オールディスと話をしていると、本来何の目的でリーバー伯爵邸を訪れたのか忘れそうになる。
「今日は閣下にお聞きしたことがありましてお伺いしました」
「なんでも聞いてくださってかまわないわ」
長々とした女伯爵の話に、エリカが嫌気が差し始めた頃にむっつりとした瞳のオウエン・ストウが興味深そうに女伯爵を凝視した。
「閣下、三十年前のロンドン港事件を覚えておいでですか?」
静かに。
けれども単刀直入にアガサ・メイスフィールドが切り込んだ。
「三十年前? そんなに時間がたっていると星の数ほど事件があるからことこまかには覚えていないけれど、確か、それなりに悪趣味な事件だったかしら」
「はい、異民族の少女が解剖され、ホルマリン漬けにされて遺棄された事件です。とはいえ、処理は中途半端で、腐敗が始まっていた様子ですが。やがてその事件は発生しなくなり、事件は忘れられていきました」
イライラとエリカは腕を組むと右の人差し指で自分の二の腕を軽くたたく。
貴族というのはこうも話が回りくどく長いものなのだろうか?
「あぁ、そんな悪趣味な事件だったかしらねぇ」
自分にはまるで関係ない。
そう言いたげな女伯爵の言葉に、メイスフィールドはますます憮然と唇をへの字に曲げる。結局、彼ら貴族にとっては平民も移民も大差はないということなのだろうか?
中には領民を大切にする地主領主もいるようだが。
「その事件がどうかしたの? アガサ」
「閣下は上流階級の人間関係には通じていらっしゃいます。なにか気に掛かるような噂を聞いたことはないでしょうか。年齢は、そうですね六十代から八十代で、裏ではやましい取り引きをする外科医や、標本収拾が趣味の男性。そういった当てにならない噂の類で結構です」
「どういうことなの?」
唐突に、グロテスクな内容に感知する範囲にアガサ・メイスフィールドの言動が切り込んだことに、女伯爵は柳眉を潜めた。
「閣下、わたしはこの事件の真相の裏に、そうしたグロテスクな趣味を持つ人間が絡んでいると考えております。詳細についてはお話しいたしかねますが、わたしを息子と思う程に信頼してくださるというのであれば、お願いします」
真剣な眼差しで告げるメイスフィールドに、やがてヴィクトリア・オールディスはいたずらっぽい瞳を上げた。
「あなたにわたくしが必要だ、ということですか?」
魂胆が見え見えだ。
エリカは思った。
ヴィクトリア・オールディスは、アガサ・メイスフィールドという男に「必要だ」と言ってもらいたい。
現在起こっている事件は人の命が関わる大変な事件だというのに、そんなことはまるでどうでもよさそうにリーバー伯爵はメイスフィールドを見つめている。
どうやら彼女はメイスフィールドにしか興味はない様子だ。
「噂で聞いたことがあります。あんまりくだらない話だったから、”当時は”冗談かと思っていましたが。二十年くらい前だったかしら」
思わせぶりな口調で伯爵は告げる。
「”お人形を集めるのが趣味のご老人がいる”と」
「お人形……?」
「拝見したことはありませんわよ。噂ではまるで本物の少女のような人形で、類い稀な人形師の手に寄って造られた一品だとか。まるで”幼い人魚”のように美しかったと……」
秘め事でも告げるように声色を落とした老伯爵はそうして片目をわずかに細めてみせる。
「そのコレクターの方のお名前をご存じですか?」
「いいえ、関心がなかったものだから、聞いたことはないけれど、相応の資産家のご主人だったとか。でもわたくしの知人がそのお人形を見たと言っていましたから、教えて差し上げられるかも知れませんね」
突如、進展しはじめた事件の歯車に、オウエン・ストウはすっかり動揺していた。
ヴィクトリア・オールディスはまるでなんでもないことのように、かつての噂話を話聞かせてくれているが、その中にある情報は恐ろしいなんていうものではない。
背筋が凍り付くようなおぞましさに、吐き気がした。
「伯爵閣下、もしよろしければ知人の方のお名前を教えていただけますか?」
「構わなくってよ」
言いながら、女伯爵は表情も変えずに立ち上がる。壁に据え付けられた棚の引き出しを引いた彼女は、ノートを片手にしてそれをめくると自分から遠くに話ながら考え込んだ。いかんせん由緒正しい伯爵家の知人関係だ。いったいどこまで広がっているのか、平民出身のストウとエリカにはさっぱり理解できない。
貴族の人間関係など考えただけで頭が痛くなる。
エリカはしかつめらしい表情のままで小さく息をついた。
「これよ、この人」
細い指先がひとりの男の名前を指し示した。
「彼を訪ねるなら連絡を入れておくけれど?」
「そうします、閣下」
ニコニコとわざとらしい満面の笑顔になったヴィクトリア・オールディスは、ところで、と言いながらソファに座り直してテーブルの上のメモ用紙を手に取った。ペンを右手で取ると名前と連絡先を書き留めて、紙を二つ折りにするとアガサ・メイスフィールドに差しだしながら、探るような人の悪い目つきになった。
「ところで、そちらのお嬢さん。どこの馬の骨とも知れないけれど、あなた、警戒心のないアガサをたぶらかそうとしているんじゃなくって? 前にも何人もいたわ。この子がたくさんのパトロンがいるのを良いことに、この子から甘い汁を吸おうとした馬鹿な女たち。女ばかりじゃないわ。どうしようもない若い男が、人の良いアガサからお金をむしり取ろうとして馴れ馴れしく言い寄ってきたりもしたわ」
女伯爵の冷ややかな声が室内に響いた。
「なっ! なにを言ってるんですか!」
不意の言葉に、エリカが激昂して立ち上がった。
体の脇で握りしめた拳がかすかに震えている。怒りで沸騰しかけたエリカの頬が紅潮していた。
だいたいメイスフィールドとは年齢が離れすぎているし、彼が巨万の富を背負っていることを知ったのはごく最近だ。彼をたぶらかそうとしたもなにも、メイスフィールドの助手としてついているのはストウの命令だ。
「わたくしは、あなたのようなじゃじゃ馬がこの子のパートナーになるなんてことは絶対に許しませんよ」
リーバー女伯爵ヴィクトリア・オールディスの目がぎらりと光った。




