18 パンドラの箱
――そう、わかったわ。
電話の受話器を握った老婦人は矍鑠とした様子で口元に柔らかな笑顔をたたえた。
「”彼”が元気にしているならそれでいいのよ。スイスの知人から聞いたのだけれど、急遽、あの子がスイス・インターナショナル・エアラインズを使ってロンドンまで行ったらしいと言うじゃない。本当はプライベート・ジェットを飛ばしてくれるとか申し出てくれたらしいけれど。それじゃ自分で動いた気がしないって断られたらしいわよ。まぁ、ベルンには空港はないからなんだかんだで、特別な手配をしてくれたらしいけれど。なんだかんだであの子も庶民感覚が抜けないわねぇ。あなたとは大違い。”サー・ジョージ・ステリー”」
窓の外の庭園を眺めている彼女は上品に口元に片手を当てるとクスクスと笑い声を上げた。
「悠々自適にベルンで暮らしているあの子が、突然、ロンドンに呼び戻されたからなにかと思ったけれど、ロンドン市警察本部長に何事かと問い合わせたら、快く教えてくれたわ。大変な事件が起こったって。でも、本当にお気の毒ね」
すらすらとまるでよどみなく彼女は告げる。
電話の相手はナイトに叙せられたジョージ・ステリーだ。
「サー・ジョージ・ステリー。ひとつだけ言っておきますけれど、わたくしの目が黒いうちにあの子の身の上になにか危険が迫るようなことになればあなたの地位なんて簡単に剥奪できるのよ。それを充分にあなたも刻んでおいていらっしゃいませね」
電話を置いたジョージ・ステリーは、長く鼻から息を抜きだしてからやれやれと肩をすくめた。青いオペ着を身につけたステリーはその上から白い白衣を羽織って青い瞳をちらつかせた。
「彼女はなんとも強引だ」
苦笑したステリーは腕を組み直す。
電話の相手はリーバー伯爵ヴィクトリア・オールディス。
王室に連なる遠縁を祖先を持つ彼女は、十年ほど前にアガサ・メイスフィールドの為人に惚れ込んで以来、その家督を彼に譲ることを強く希望していた。
ついでながらそのやり方も少なからず強引だった。
まるで蜘蛛の糸のような彼の貴族の血筋を探しだし、自分に正式な後継者がいないのを良い事に、アガサ・メイスフィールドという男の相続権を力押しで通してしまった。
そろそろ八十代にさしかかろうかという高齢だが相変わらずヴァイタリティに溢れており、当分死にそうにない。メイスフィールドが問題の伯爵家を継承するのは相当先だろう。
どうせ後継者がいなければ、伯爵家は絶えることになる。それならいっそ自分の有する財産の全てを誰か気に入った人間に与えたいと思うのも無理のない話だ。
「……それでも、”我々”は彼に捕らわれて離れられない。”伯爵閣下”」
少しでもアガサ・メイスフィールドの関心を持ってもらいたいと願って、せめて彼の行動の自由を妨げぬようにとその生活の支援をする。
ヨーロッパ各地に散らばるメイスフィールドの自宅もそうだ。
メイスフィールドは勝手に住んでいるが、基本的にはそれらはメイスフィールドの財産ではない。彼が使う金もそうだ。
もっとも莫大な財産を持っているからと言って、根本的に無欲で浪費癖がない彼のことだ。だからメイスフィールドに好きに使って良いと財産を託したところで、彼が生活する以上の消費はほとんどない。
誰も彼もメイスフィールドに無二の信頼を寄せているのだ。
ロンドンの彼の自宅を管理しているのはステリーだが、ヨーロッパにおいて彼の地位を保障しているのはリーバー女伯爵だ。
王室直系の貴族のような権力こそないが、中世から続く名家の主人の名前は天下に轟く。時には彼女の鶴の一声で、ヨーロッパ中の警察権力が動くことも想定された。要するに、アガサ・メイスフィールドの身分とはそういうものなのだ。
そしてそれほどの資産家たちが、こぞって彼を後援することから未だに多くの支援者が増え続けている。
とはいえ、本人はどこ吹く風、というところだが。
「これで、彼の協力を仰いだロンドン市警が事件を解明できなかったら、あの伯爵閣下が介入してきてトップ人事の総入れ替えという事態にでもなりそうだ」
リーバー女伯爵ヴィクトリア・オールディスは、いつでもどこでも事態を引っかき回す。
なまじっか権力を持っているだけに厄介な相手だった。
そんなことを考えながらジョージ・ステリーは仕事に戻ることにした。
いずれにしたところで、ロンドン市警察のトップ人事の総入れ替えということになったところで困るのはステリーではない。困るどころか自分の息のかかった人間をロンドン市警察に潜り込ませることもできるというものだ。
今のところ、ジョージ・ステリーにはオウエン・ストウという知己も存在するが、彼は正義感が強すぎる。それはストウの良いところなのだろうが、政治判断という意味ではどうなのだろうとステリーは訝しげに思った。
目に見えるものを信じてはならない。
ステリーはちらりと視線を上げて天井を睨み付ける。
一部では悪趣味にも人間の遺体を売買する連中も存在する。それをジョージ・ステリーは知っている。知っていたからと言ってどうすることができるわけでもないし、それがビジネスとして成り立っているならそれでも良いと思う。貧しい者は生きていくためには、そうするしか生きる道がないのだ。
別に驚くほどのことではない。
そんなことよりも、ステリーが気がかりなのはメイスフィールドの精神状態だ。
正直なところ、リーバー女伯爵もオウエン・ストウのことも。更に言えば最近、彼につきまとっているストウの命令で助手をしている若い娘のこともどうでもいい。
過酷な仕事は、アガサ・メイスフィールドの繊細な神経にひどい負担を強いている。いつでもにこやかにほほえんでいる聖人のような彼だからこそ、壊れかけた心でなにを感じ、なにを思っているのかわからない。
犯罪心理学を専門にしているからといって、その心がずば抜けて強靱であるとは限らないのだ。
残虐な事件の数々を前にしてその解決に尽力するメイスフィールドの心を、ローズが支えるはずだった。けれども、そのローズも若くして事故で亡くなった。そしてそれ以来、常人であれば心が潰れてしまいそうになるような事故現場を前にして淡々と平常心を保ってきたこと。
けれども、それは本当に平常心なのだろうか……?
そんなことさえ疑問に思う。
「ローズ、君もつくづく罪な女性だ」
彼の心をとらえて放さない。
死んでも尚、メイスフィールドを縛り続けた。
タバコに火をつけてから、ジョージ・ステリーは机の上に置かれた患者のカルテを開くと、それまでの自分の思考を停止させて仕事に戻った。
メイスフィールドの追いかける事件は、ステリーの問題ではない。
事件が解決しようが解決しまいが、ジョージ・ステリーには関わりのないことだ。
*
「人体の売買を扱う闇業者を当たれ!」
オウエン・ストウの怒号がオフィスに響いて、エリカは咄嗟に両耳を両方の手のひらで反射的に塞ぐ。
「ヨーロッパ中探したって大した数はないはずだ! その中でもイギリスを中心にして活動しているといったら、データベースと照らし合わせればすぐにでもわかるはず。全力で当たれ!」
違法業者やマフィアなどを含めた過激派に関与しているとは言え、三十年前から活動しているとなれば表向きは合法的な業者を装っているかもしれない。
ありとあらゆる可能性を考えながらストウは、上司の勢いに口をあんぐりと開けているエリカを睨み付ける。
「しょ、承知しました……」
立ち上がってオフィス内に用意されたパソコンで、データベースにアクセスをした。もっとも、彼女はコンピューターに関しては素人同然で大して詳しいわけではない。急遽慌ただしくなったオフィス内で、だがアガサ・メイスフィールドのほうはというと相変わらずの笑顔を浮かべて、頬杖をつくとファイルのページをめくりながら騒々しくなった刑事たちを穏やかに見つめている。
彼はまるで別世界にいるかのようだ。
「”人体の売買”とも限らないわよ、オウエン」
「わかっている」
「それに、三十年前から続いているロンドン港事件が発端なら、”アダム”は相当、歳を取っているはずよ。おそらく、年齢は六十歳から七十歳の男性、もしくはそれ以上。医師の資格を持っていて、当時は臓器売買にも関与していると思われるわ。全く屈折しきってるわよね。とんだ殺人医師だわ」
それらを含めて考えてみても、容疑者に若い成人女性に無理強いする腕力があるとは思えない。
六十代初めならあるいは、考えられるかも知れないがおそらくメイスフィールドの考えでは違うだろう。そうすると、容疑者の幅はだいぶ狭くなってくる。
「君に助っ人を頼んだのは間違いではなさそうだな」
ばたばたと足音を立てながら、携帯電話を片手にしてあちこちに電話をかけていた。
「……――オウエン」
緑の瞳がちらりと上がった。
「落ち着きなさい」
「落ち着いている。だが、これ以上犠牲者を出すのはどうしても防がなければならんのだ!」
悲痛に響くオウエン・ストウの声音に、長い手を伸ばしたメイスフィールドは、女性のエリカが驚くほど優美に彼の手首を引っ張った。そうして軽くその手の甲をはたいてみせる。
「落ち着いてないわ、しっかりしなさい。ストウ警視」
「三十年続いている事件を前にして君のように落ち着いてなどいられるか!」
「ほらご覧なさい」
オウエン――。
メイスフィールドが薄く笑った。
上品で穏やかで優しいのに、ぞっとするほど冷徹だ。
「落ち着きなさい。あなたは百戦錬磨の殺人課の刑事でしょう」
目尻を下げてアガサ・メイスフィールドはにっこりと笑った。
いつもこの女性的な笑顔に騙される。
「わたしなんかよりもあなたのほうがずっと強いのだから」