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天の杯~神の掌で踊れ~  作者: 雪ノ幸人
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第九話 嫉妬とはやっかいな感情である

 守衛隊長カナード・レドナンドが倉庫の扉を開け、中に入ると目の前には信じられないような景色が広がっていた。



「……これは……」

「うっ」



 倉庫の床一面に落ちている白い蜘蛛の巣、辺りに散乱した肉片、そして魔物の体液と思しき紫色の液体が倉庫全体に飛び散っていた。

 扉を開けたことで中と外の空気圧の違いで生じた風が顔を撫でていく。



「うっ、ゲエ~」



 新人の騎士たちは目の前の光景と漂ってくるあまりの臭気に嘔吐するものが続出する。だがベテランの騎士たちも彼らを未熟だと叱責するものはいなかった。それほどまでに目の前に広がる光景は彼らの常識とはかけ離れたものだった。



「各自二人一組で調査に当たれ、まだ中に誰かいるかもしれん、警戒を怠るなよ!」



 彼の言葉に呆然としていた騎士たちも我を取り戻し次々と倉庫内の調査に向かった。

 彼の副官が近づいて来るのに気がつくと顔だけをそちらに向けた。



「隊長これは」

「ああ、誰かが倒したようだな」



 そう言うとカナードは足下にあった肉片を拾い上げた。内側から弾け飛んだようなそれを眺め抱いていた疑問を口にした。



「しかし、どうやったらこんなことが可能なんだ?魔法か?」



 口ではそう言いつつも彼はこれが魔法で行われたとは考えていなかった。少なくともこのような魔法を彼は知らない。



「何らかの魔法が使われたのは間違いないでしょう。私の力量では何の魔法かまでは判断がつきませんが」

「有力なのは水の魔法か?」



 休廷魔法使いの中にも鬼蜘蛛を倒せるものはいるだろう。だが何の魔法を使ったのが皆目見当がつかない。火の魔法を使えば焦げ跡が残るだろうし、風の魔法を使えば傷跡残る、土の魔法を使えば突き刺した跡が残るはずなのだ。考えられるとすれば、水の魔法で内側から破裂させることだが……



「水の魔法なら可能かもしれませんが、ステージ3の魔物をここまでバラバラにするとなると間違いなく上級魔術師以上の力量です。私には水の上級魔術師は近衛隊のジャンヌ殿しか思いつきませんが」

「『氷角の魔女』。ジャンヌ殿か……だが確か」

「はい、近衛隊は遠征で殆ど残っておりません。どう考えてもジャンヌ殿以外がこれをやったとしか……」

「……」



 副官との間に気まずい空気が流れる。今回監視対象を殺されたことも問題だがそれ以上にそれを行った人物が分からないというのがまずい。その人物が上級魔術師以上の実力を持っている可能性があるならなおさらだ。



「上にはなんと報告しましょう」

「ありのまま話すしかあるまい?」

「……ですがそれでは……」



 副官の顔に悔しげな表情が浮かぶ。



「まあ、間違いなく今回功績を狙っていた貴族は騒ぐだろうな」

「……それで済めば良いですが、下手をすれば隊長が今回の責任を負わされます!」



 彼もそうなるだろうと考えている。副官が自分の安否を心配してくれていることに喜びを感じながらもだがそれ以上に今回の事態を無視するのはまずいと考えていた。



「もし国が確認していない上級魔術師が絡んでいるのだとすればそちらのほうが無視できんよ」

「しかし!」

「それに民のことを考えるなら早い段階で討伐されたのは悪いことではない。貴族が欲を張って不利益を被るのは国民だからな」

「……わかりました」



 彼の覚悟を感じ取ったのだろう。悔しげな表情のままだが副官は自分の上官の言葉を聞き入れた。



「それにいざとなれば『聖女様』が助けてくれるかもしれんぞ」

「エーデル公爵ですか、それは羨ましいですな」



 カナードが場を和ませようと言った事だとは分かっていたが副官はそれでも付き合う事にした。

 いくら慈悲深く、名領主と称えられていようと相手は貴族。

 たかが一騎士の身案じるとは思えないが軽口に付き合うぐらいは彼でもできる。



「あの美貌は一度見ると目に焼き付いて離れませんからな」

「全くだな。今国内のどれだけの騎士が彼女に熱を上げていることか。しかも本人は嫌みなところがないと聞く。『聖女』の名も分かるというものだ」



 自分とは親と子程年が離れているがそれでも目を奪われるのだ。彼女と年齢が近いものは余計に気になるだろう。



「ましてや、エーデル公爵はまだ未婚だからな。選ばれるお相手は国内中の男を敵に回すことになるな」

「公爵家との繋がりが出来るあれば尚更でしょう。今もかなりの数の貴族が彼女に求婚しているそうですから」

「見ているだけなら楽しいものだな」

「全くです」



 そう言うと二人は声あげて笑いあった。不思議に思う騎士たちもいたが特に何も言うことなく仕事を続けていた。




 ♦♦♦♦♦♦♦




 夜の街を駆け抜け、念のため尾行を警戒したシュウは二時間ほどかけて公爵家の屋敷にたどり着いた。

 正面玄関を避け屋敷の裏手に回り、使用人が使う入口から中に入った。

 話にあったとおり人払いがされているためか廊下はシンと静まり返っており、痛いほどの静寂を保っている。

 廊下を抜け執務室の前まで来ると扉を一度たたき、中に入った。



「お疲れ様です」

「問題なくいったようですね」



 部屋の中ではミリアリアがソファに座って紅茶を飲み、そのすぐ傍でバルドが紅茶の給仕をしていた。

 労いの言葉と共にタオルを渡され、汗や『鬼蜘蛛』との戦闘の際についた汚れなどを丁寧に拭き取ってゆく。



「……依頼通り『鬼蜘蛛』は討伐した。見回りの騎士達にも姿は見られていないから安心してくれ」

「……そうですか。……ひとまず安心ですね……」



 バルドはそう言って紅茶をすする主と黒髪の冒険者の間に何かぎこちない空気を感じたがお互い表面上普段通り振舞っていたので特に何も言わなかった。



「これが回収した『鬼蜘蛛』の核だ」



 そう言って拳ほどの大きさの赤黒い球体を机の上に置いた。

 ミリアリアはそれを取ると背後に控えていたバルドにそれを渡す。

 バルドはルーペでしばらく光に当てたり全体を見渡したりしていたが、やがて満足したようでゆっくりと頷いた。



「本物ですな、間違いありません」

「そうですか。では約束通り、報酬をお支払いいたします」



 バルドは魔物の核を懐に仕舞うと、袋を取り出し、自分の主に手渡した。



「これが報酬の金貨百枚になります」



 ミリアリアはシュウの前に金貨の入った袋を置くが、彼はそれを受け取らず神妙な面持ちで口を開いた。



「実はもう一つ報告しておきたいことがある」

「何でしょう?」

「これだ……」



 シュウが取り出したのは倉庫を出てくる際に見つけてあの短剣だった。

 ミリアリアはそれを手に取ると慎重に確認していく。



「倉庫を出てくる際に床に刺さっているのを見つけたんだ。どうやらマジックアイテムのようなんだが俺には調べるスキルがない。そっちで鑑定を頼みたい」

「……これは……何か術式が付与されているようですね。私では……何の術式かまでは判断できませんが……」



 ミリアリアは過去に読んだ魔導書の中にこのような術式は覚えがなかった。

 彼女は魔法の専門家というわけではないがそれなりの知識は持ち合わせている。その自分が覚えがないとなると相当古いものではないかと考えた。



「知り合いの専門家に調べてもらいます。」



 シュウは満足げに頷き、ミリアリアは紅茶のカップに口を付ける。

 洗練された動作に目を奪われそうになるが今はどうしても聞いておきたいことがある。



「それで、お嬢様は今回の件をどう思う?」

「どうとは?」

「誤魔化すなよ。アンタも違和感は感じてるだろ?」



 ミリアリアは姿勢を正し、目を伏せると淡々と答えた。



「今回の騒動、これで終わりとは思えません」

「同感だな。魔物の侵入ルートも分かってない。それに近衛隊がいないのを見計らったタイミングでの魔物の出現、偶然にしては出来すぎてる」

「シュウさんは誰か裏で手を引いている者がいると考えているのですか?」



 彼女もそれは可能性の1つとして考えていた。

 本当に裏で手引きしている者がいるとすればそれは間違いなくある程度の権力を有している。

 当然貴族の可能性が高い。

 民を守るはずの貴族が魔物を国内に呼び込む。

 同じ貴族として考えたくはなかった。



「人為的な介入を疑わない方が無理があると思うけどな。だが、魔物は人に操れる存在じゃない。なんかしらの方法であの倉庫に運び込んだと考える方が自然だろうが……推測の域を出ないからな……」



 シュウの言葉を聞いてミリアリアは何か考える仕草を取った。

 眉間にしわを寄せて考え込んでいる表情も彼女がするとその神々しいまでの美貌と相まって愁いを帯びた切なげなものに見える。

 美人はどんな顔していても似合うから得だなと、どうでもいいことを考えながら紅茶を啜った。

 やがて考えがまとまったのか彼女は顔を上げるとまっすぐシュウと視線を合わせた。


「シュウさん暫く私に雇われませんか?」

「……何だ急に」

「もしもの時に備えて自由になる戦力を手元においておきたいのです。あなたなら実力も申し分ないですし……裏切る心配もないですから……」

「お嬢様は随分俺を過大評価されてるみたいだな」

「人を見る目はあるつもりですよ。それより……」



 ミリアリアは一旦言葉を切ると首を傾げながら言った。



「『お嬢様』と言うのは?」

「アンタ前に『聖女様』って呼ばれるの嫌がってただろ。だからお嬢様だ」

「普通に名前で呼んでくださって構いませんが?」

「平民の俺が貴族のアンタを? ハッ、冗談は止めてくれ。どんな罰に合うか分からないからな」



 ミリアリアはここまで、シュウの態度の裏に貴族に対しての嫌悪を敏感に感じていた。

 そして、「罰」と短く言い切るシュウの顔にこれまでに表に出さなかった明確な拒絶が浮かんでいるのを感じ取った。



「―――そんなに貴族が嫌いなのですか?」

「お嬢様。俺はな、全部の貴族が悪い奴だとは考えてない」



 ミリアリアはてっきり激しい嫌悪の言葉が飛んでくるものだと考えていたため、シュウのこの言葉には少々目を丸くした。



「ちゃんとした統治をしている貴族がいるのも知っているし、アンタみたいな種族的な差別を嫌う貴族が居るのも知ってる。だがな……俺が貴族を嫌う理由は理屈じゃない感情論だ。頭で分かっていても心が拒絶する、貴族は不倶戴天の敵だってな」

「―――ど、っ」



 ミリアリアは「どうして」と言葉を続けようとして、その言葉を飲み込んだ。

 正面に座る男が自分を見据えながらもその目に映すのは自分ではないと分かったからだ。



「俺には貴族を憎む理由がある。アンタにはすまないと思うがこれは決して変わらない」



 その目にあるのは憎悪。

 その色は烈火のような赤ではなく、相手を憎み、殺そうと考える黒。

 ミリアリアは貴族だ。

 いままで女性という事や他人から搾取する立場にあるという事で幾度となく恨まれることも経験している。

 だがこれ程までに深い憎悪は経験にない。

 何が彼をここまで掻き立てるのか。



「シュウさん。私は亜人との関係を正しいものにしたいと考えています」

「……アンタの言う正しい関係とは何だ? どっかの宗教みたいに下等な亜人はすべて人のもとに下れって事か?」

「いいえ。人と亜人とが手を取り合える関係です」



 この答えは半ば予測していた。

 エーデル侯爵領での亜人の厚遇。

 亜人を労働力としてしか見ていない者は絶対に行うはずがない。

 彼女の政策は亜人を良きパートナーとして考えているように思えてならない。



「人と亜人が共存できる社会、私はそれを現実にしたいのです」

「夢物語だな。そんな理想論は俺には理解できないね」

「いえ、シュウさん、あなたは理解してくれると考えています」

「……根拠は?」



 シュウは腕を組むとソファに体を預けた。



「あなたは孤児院宗教会で亜人と共に暮らしていると聞いています。それに亜人街の者たちの多くがあなたに好意的でしたよ」

「―――確かに俺は亜人に対して差別意識を持ってないが、俺はアンタほど夢想家じゃない。俺が救うのは俺の手の届く範囲に居る者だけだ。アンタの言う亜人と人が共存する社会を実現しようとは思わない」

「何故です?」

「―――手の届く者を確実に救うためだ。自分と無関係の者をいくら救おうと、親しい者を救えなければすべて意味がない」

「貴方は助けを求める者を見捨てるというのですか!!」

「俺は自分に親しい者を救うためならなんだってする! 他者に憎まれようが殺意を抱かれようが構わない! 今度は絶対に失わない、そう決めたんだ!」


 パンパン



 乾いた音が室内に響き、言い争っていた二人は音の方に顔を向けた。



「申し訳ありませんが、今日はもう遅くございます。互いの意見を交えるのは次の機会にしたほうがよいかと……」



 バルドの言葉で二人は我に返ると、気まずそうに視線を逸らした。



「―――すまない。今日はもう帰る」

「―――こちらこそ。なにか情報が入りましたら連絡をお願いします」



 ごまかすように咳払いをして、シュウは席を立った。

 女性に対して怒鳴り声を上げてしまった後ろめたさから目を合わせることが出来す、そのまま部屋を後にする。

 玄関までバルドが送ってくれるらしく俺の前を歩いていたのだが、さっきまでの事を見られていたかと思うと居心地の悪さが胸を支配していた。



「……あれほど楽しそうなお嬢様を見るのは久しぶりかもしれません」

「……楽しそうだったか?」



 執務室を離れて少し経つと、こちらを振り向くことなくバルドはポツリと呟いた。

 シュウとしては言い争った感覚しかない。

 そもそもミリアリアは声を荒げ、怒っていたものの楽しそうには見えなかった。



「楽しそうとは少し違うかもしれませんが、実に生き生きしているように感じられました。あの方は当主としてめったに感情を表に出しませんので……あのように他人と意見を交わして怒鳴りあう姿など前に見たのが思い出せないほど昔だったものですから……」

「……そう言えば何故アイツが当主なんだ?普通に考えればまだ父親が当主のはずだろ?」



 この世界において貴族の女で当主を務めている者は少ない。

 政治の世界は男世界であり、例え長女が居たとしてもその下の弟を当主に据えることがほとんどだ。

 まして、十代のミリアリアが当主になっているのは異例といっても過言ではない。



「ミリアリア様のお父上は6年前に亡くなりました。お母上もあまり体が丈夫な方ではなかったものですから……旦那様が亡くなった半年後に後追うように……」

「……すまない。配慮が足りなかった……」

「お気になさらず。話し始めたは私ですから」



 バルドの表情は後ろからでは見えなかったが彼が攻めているわけではないというのは雰囲気から分かった。



「じゃあ、ずっとミリアリアは当主を?」

「はい。公爵家を手に入れようと何人もの血縁者が養父を名乗り出ましたが、ミリアリア様はこの家と領民を守りたかったのでしょう。十三歳の時に領主となる決意をなさいました」

「だが、成人前の子供では他の家を納得させられなかっただろう?」



 この世界では十五歳から成人とされている。

 いくら本人が当主を名乗ったところで未成年の子供では認められないことが普通だ。



「はい。しかし成人するまでという約束で王家から相談役をたてていただき、ミリアリア様が領主となったのでございます」

「……大変だったんだな……」



 両親を亡くし、女性の身で幼い頃から権力闘争の中に立つなど想像がつかない。だが無理やりこの世界に連れてこられた自分には肉親を失った悲しみは理解する事は出来た。

 ありきたりの言葉ではあったが自分の口から自然と漏れ出た言葉は本心を示していた。



「私たちなどミリアリア様に比べれば大したことはございません。あの方はご自分が辛い時でも私たちを励まして下さるものですから、皆元気づけられました。」



 バルドの言葉を聞いてその光景が目に浮かぶようだった。

 彼女は例え辛くてもそれを他の者に見せたりする人物ではないというのは彼女と接する機会が少ない自分にもにも分かる。

 たとえ悲しくても人前ではそれを絶対に表に出さない、そんな姿がふと思い浮かんだ。



「……ただ、後悔があるとすればあの方に責任を負わせてしまった事でしょうか。そのせいで普通の子供のように過ごす筈であったのに、そうさせて差し上げられなかった。……もっと何か出来たのではないかと、今でも考えてしまいます」



 そう言ったバルドの背中はとても小さくどこか自分を責めているように感じた。

 執事長として当主を支える任を負っている彼はミリアリアを誰よりも近くで見てきた事で他の者よりも後悔が大きいのかもしれない。



「……父親が死んだ原因はなんだったんだ?」

「……地方への視察に行った際に亜人の盗賊に襲われたそうです……」

「何?……だが公爵家の騎士団が盗賊程度にやられるとは考えられないんだが……」



 この世界の盗賊とは食い詰めた農民や犯罪奴隷たちがほとんどだ。

 武装も大したものではないし、きちんとした訓練を行っていることもない。

 そんな者たちに公爵家の騎士団がやられるとは考えづらかった。



「……亜人達と戦闘になった際に魔物に襲われたのが直接の原因だと聞いています。当然騎士団の者達も奮戦したそうですが魔物の数が多かったために後手に回り、隙を突かれて倒したはずの死に体だった亜人に斬られたそうです。」

「……父親を亜人に殺されたのに彼女は亜人の保護政策を進めているのか……」

「はい。私たち使用人は怒りを隠せませんでしたが、ミリアリア様は涙をこらえた表情で「父を殺した盗賊たちに罪はありません。あるとすれば盗賊になるしかなかった今の社会に問題があるはずです」と……そうおっしゃられました。」

「……強いな……」


 自分なら家族を殺されて同じセリフを言えるとは思えなかった。

 彼女は強い。

 誰かを恨み、自分の感情をぶつける方がはるかに楽なのにそれをしない。

 そしてその原因を何とかしようとしている。

 過去に、感情に引きずられ、他者に手をかけていた自分とはまるで違う。



(クソッ……なんだよこれ)



 自分の胸に小さな残り火のような感情が渦巻いていた。

 それは怒りのように胸の内を焼き尽くすわけでもなく、悲しみのように心にぽっかりと穴をあけるわけでもなく、歓喜のように胸の内からとめどなく湧き出すわけでもない。

 ただ小さな棘が刺さったようにほんの少しの痛みといつまでもそこにあるような異物感を感じさせるそれに名前を付けられずにいた。



「……だから亜人の地位向上を目指しているのか……」

「はい。亜人の地位が向上すれば争いあうこともなくなると……」

「……」



 その感情は他の者が見ればすぐに分かっただろう。


 それは『嫉妬』。


 自分に出来なかったことをなしたあの少女に彼は少しだけ嫉妬していたのだ。

 そして何より本人に聞いてみたかった。どうして恨まずにいられるのかと自分から家族を奪った者が憎くはないのかと。



「見送りさせて悪かったな」



 気づけば門の前にまで来ていた。

 ずいぶん長く話し込んでいたようで空はうっすらと明るくなり、数匹の鳥たちが空を飛び回り始めていた。

 馬車が目の前に到着し、乗り込もうとしたところでバルドが再び口を開いた。



「シュウ様」

「何だ?」

「ミリアリア様を支えて差し上げてください」

「……俺なんかより、騎士団やアンタがいるだろ?」

「私たち使用人や騎士団の者はあの方に使える身です。どうしても心の中に壁を作ってしまいます。ですがあなたなら対等の関係になれる。あの方には頼れるものが必要なのです」

「……出来ることならするが……あまり過度な期待はしないでくれよ……」

「十分です」



 そう言って深々頭を下げるバルドに見送られ俺は屋敷を後にした。

 馬車の中から見た屋敷はあまりに大きくこれを彼女はずっと背負ってきたのかと思うと同情を禁じ得なかった。

 馬車の中で眠りにつくまで彼女の事を考えていた。



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