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偽装の結婚  作者: 琴乃つむぎ
第二部(暫定版)
31/64

第一章・一

 ディブロスはダルメキア王国内にありながらローゼンディアの都市として認められた、いわば植民都市である。

 ローゼンディア人がいつ頃この土地にやって来たのかは定かでない。

 市の記録によれば、今から三千年以上前には、すでにここディブロスは交易都市の形を成していたというから、相当に昔の話ではある。

 ここに人が初めて上陸してきた時期に到っては、一体いつ頃までさかのぼれるのか想像もつかない。

 地面を掘り進めば、いくらでも昔のつぼだのモザイクの床だのが出てくるのだ。

 つまり都市の歴史の古さという点で言えば、ローゼンディア本土の大概の都市よりも古い。

 これは植民市としては少し変わった特色だと言える。

 本国よりも古い植民市など、花より先に実がなるような話だからだ。

 とまれローゼンディアが統一国家として完成するよりも遥か前から、ディブロスは交易都市として繁栄していたのであり、その後ローゼンディアの都市として数えられるようになったわけだ。

 新ナーラキア帝国からローゼンディアへと、あえて独立を選ばず、植民都市としてその傘の下に入ったのは、元々この都市の住人がローゼンディア建国の人々と深い縁を持っていたり、建国そのものにたずさわったからであるが、ローゼンディアに王権が確立するよりも余程以前から、この街では交易が行われ、人が、物が、あふれていたことは、ディブロスの人々にとって誇りとすべき事柄であった。

 だから皮肉と、そして若干の敬意を込めてローゼンディアの人々はディブロスの人々を『ディブロス人』という独立系の名詞で呼ぶことがある。

 ……これは伝説と呼ぶべきなのか、それとも神話と呼ぶべきなのかは判らないが。

 遥かな昔、ここディブロスの地にアバブという怪物が現れた。

 いや追い立てられて逃げてきた。

 巨大な怪物を追い立てていたのは海神ゼーフル。

 黒髪なびかせる、大地を支える神。

 ゼーフルは三つまたもりたずさえて、遠くカラクトス島の北からこの怪物を追ってきたという。

 怪物は神の三叉銛さんさもりから逃れるべく必死におかに上がった。ゼーフルもまたそれを追って陸に上がったという。

 ゼーフルは怪物に追い着くと、その巨大な三叉銛を振り上げて激しく打った。

 打たれた怪物はそのまま岩山と化したという。

 それが今もディブロスの北東にある巨大な岩山だ。

 その山裾はディブロスを目指してきた隊商などの旅人に、市門が開くまでの休憩所として使われている。

 怪物を打ち倒したゼーフルは己が何歩、海より陸に入り込んだかを数え始めたという。

 神の歩幅である。当然、人のそれよりも遥かに大きく、力強いものだった。

 己が足跡をゼーフルが全て数えたところ、海より陸に踏み込むこと百歩であった。


「海より百歩はローゼンディア」


 ここディブロスでそう言われる由縁である。


   *


 市の通りには常に沢山の人が溢れている。

 ローゼンディア人、ダルメキア人、そしてアウラシール人、レメンテム人、更に遠く南大陸のニムリやマゴラ、トゥルネクからも人がやってくる。

 陸路で、海路で、ありとあらゆる物がディブロスへ入ってくる。

 小麦や塩が、黄金が、香辛料が、壺や絵皿が、香油が、織物や細工物が、貴重なイビドシュ杉やカラトヤヌの大理石が、棗椰子なつめやしが、宝石細工が、家畜が、ありとあらゆる物がディブロスで取り引きされる。

 だが一つだけ取り引きされないものがある。

 周辺世界ではあまり珍しくもないその商品は『人間』である。

 奴隷制度を持たないローゼンディアでは当然の措置ではあったが、このことがある種の歪みをこの都市にもたらしていることも事実であった。

 なぜならディブロスに隣接する広大なるアウラシールでは、奴隷制度はごく当たり前のものであるからだ。

 ローゼンディアの同盟国であるダルメキアは、ローゼンディアよりも遥かにアウラシールに近い文化と歴史を持っているが、同じヴァリア教を崇拝することもあって公的には奴隷制度は禁じられている。

 ところがダルメキアのいくつかの都市には奴隷が存在している。

 そこには色々な事情があるわけだが、とにかくディブロスでは奴隷は存在できない。

 ディブロスではいかなる理由であれ奴隷は存在してはならないとされているのだ。

 新ナーラキア帝国の滅亡以後、もっとも色濃くその影響を受けた歴史を持つローゼンディアは、奴隷制度に対して過敏なまでの抵抗感を持っているからだ。

 するとどういう事が起こるか。

 自由を求めてディブロスに逃げてくる奴隷達、というのが当然ある。

 ディブロスの国境線の近辺ではそうした逃亡奴隷と、追跡者の戦闘がちょくちょく発生しているが、別にディブロスの警備兵はそれを助けることはしない。

 あくまでそれは『外国人同士の私闘』だからだ。

 奴隷が安全を確保するにはディブロスの政庁へ届け出る必要がある。

 それはほとんどの場合、無学で、判断力にも欠けた立場に置かれている奴隷達にとっては絶望的な高さの壁だと言えた。

 しかしそうした事情があるものの、逃亡奴隷たちが手助けを得られないわけではない。

 彼らを救い出すため、ヴァリア教の神官達を中心とした組織が活動しているのだ。

 これは主に神官戦士を中心とした集団であり、政治的な背景を持たない一種の慈善団体であるが、ディブロスの政庁としては管理の範囲外ということで、その活動は黙認されている。

 実の所を言えば、彼らの活動内容にはかなり過激な面があるのだが、政庁としてはそれに関わるつもりは昔も今も無いようである。

 これら慈善団体の餌食えじきになるのは、ディブロスの周辺を通過する奴隷商人がその筆頭であるが、命からがら逃げてきた奴隷なども保護の対象になる。

 ただ、実際にはそうした逃亡奴隷よりもむしろ、レメンテムやアウラシールなどの交易商人の方が問題になる。

 その構成員の中に下働きの奴隷が含まれている場合があるからだ。

 商人達はディブロスで商売がしたい。しかしそのために奴隷を手放すのは惜しい。

 ならば奴隷が奴隷でないということにすれば良い。

 こうして都市内にいる限りは暫定的に自由民と同じ立場となる奴隷、つまりこのディブロスでだけ見られる新たな社会階層が出現してしまうわけなのである。

 当然ローゼンディアの側としてみれば、こうした『隠れ奴隷』を捜し出してその主人を罰する必要があるわけなのだが、それが常に上手くいくとは限らない。

 一つにはその捜索自体にかかる手間という問題。

 もう一つはもっと複雑で、要するに奴隷の全てが必ずしも自由民になりたがるわけではないということだ。

 誰もが主人に脅されて従っているわけではない。騙されている者もあるだろうし、やむにやまれぬ事情がある者だっている。主人を愛する者さえいる。

 この世には人間の数だけ事情があるのだ。

 こうした矛盾が積み重なり、ねじれとなって都市の中に横たわっているわけだった。

 それこそがディブロスに漂う独特な異国情緒であり、歴史の重みもでもあり、そしてこの都市の活力と退廃の根元なのだ。

 それらは幾重にも重なる薄布のようにディブロスを覆い、守り、飾り立てているのだ。

 どれだけローゼンディア本国と同じ法を適用し、秩序の維持に努めても、ここにはローゼンディア本国の都市とは違うある種独特の歪み、陰のようなものがある。

 それはさながらこの町の間を漂う独特な香辛料の香りのように、目には見えないが強くその存在を感じさせるものだった。

 その香りは海からの潮の香りと複雑に混ざり合い、しかもどこから流れて来ているのかわからない。

 そしてそうしたかげりを持ちながらも、都市は大きく繁栄し人々と物で溢れている。

 それがディブロスという都市であった。


   *


 水平線上に新たな船の姿が現れた。

 新たな、と言うのは、すでに港には幾つも船が停泊しているからだ。

 港内の船はローゼンディアではタラカーと呼ばれる商船だけではない。バラカーと呼ばれる軍船も停泊している。

 さらに軍船と商船の中間とも言えるオルカーという船もある。

 これは海賊が好んで使用する船だが、海賊対策を重視する商船団などは全ての船がこれで編成されていることもある。

 最近オルカーが増えてきたが、このことは世の中が乱れる前兆ではないかとささやかれている。

 ミスタリア海で大きな戦争が起こるのではないかと。

 その話を本気で取り合う者はさして多くはないが、海上の治安を不安視する商人が増えてきているのは確かであった。

 そしてそんな人々の思いとは無関係に海は静かだった。

 だがそれも今という季節だからの話だ。

 ミスタリア海では年の半分は海が荒れるために、沿岸部を除いて船の航海は困難になる。

 大型の商船など危険なのでとても海外貿易に精を出すというわけにはいかない。

 だから交易は海が荒れない時期、安全な時期に集中することになる。

 今の時期ならば滅多に海が荒れることはないのだ。今日ものどかに港はいでいた。

 空をカモメなどの海鳥が優美に舞っているが、こちらはのどかとばかりは言えない。

 カモメは獰猛な狩猟者だからだ。

 どこからやって来たのか、カモメを狙うあれはハイタカだろうか? 翼を拡げて鋭く飛ぶ姿が美しい。

 港に姿を見せた新しい船は段々と大きくなり、やがて一気に近づき、その大きさが明瞭に分かるようになる。

 掲げられた旗はメルサリス商会の旗だ。

 アイオナの父、ファナウス・メルサリスが乗っている船であった。

「あれだわ!」

 アイオナが声を上げる。耳にした感じではかなり嬉しそうな声である。ダーシュは意外に思った。

 もっと嫌そうな声を出すと思っていたからだ。

 それとも潮の香りが気分を盛り上げているのだろうか。

 潮の香りは良い。好きだ。

 初めてこのディブロスに来たときには、町をおおうように漂う潮の香り、磯の匂いに違和感を覚えたものだが、今では心地よいと思える。

 だが海の匂いというものには好き嫌いがあるとダーシュは思う。ダーシュの知り合いの中にはどうしても受け付けない者も多い。

 海洋商人の娘にして海の女神トリュナイアの血を引くアイオナに対して、海の香りが好きかどうかと尋ねるのは愚問としか言えないことだろう。

 己はどうか。ダーシュとしては聞いてもらいたかった。

 あなたは海が好きかどうかと。

 だがアイオナは一度も聞いてくれない。そのことに不満というか、ちょっとした寂しさをダーシュは感じていた。

 そんな不満の表明というわけではないが、体がまだ本調子でない頃からダーシュはよく港に出掛けていた。

 床を離れて動けるようになると、ダーシュはすぐに杖をついて歩き出したが、自然と足が港に向かうのだった。

 海には不思議な魅力があった。暗殺者ガズーの毒にやられて死にかける前にはこんな風に感じたことはなかった。

 あの事件を境に生まれ変わったからだというのは、言い過ぎだろうか。

 しかしダーシュにとって世界のり方がそれまでとは違ってしまったのは確かだった。

 ダーシュは学者や僧ではない。ゆえに己の心境の変化を考察したり、言葉にしたりすることには慣れていないし、そのつもりもない。

 ただ港に出ることが多くなった。それだけだが、今日のようにアイオナに誘われて港に出てくることは珍しかった。アイオナとは市街の方に出掛けることが多かったからだ。

 今日辺り船が着きそうなので迎えに出ようと誘われたのが今朝の、というか早朝の話で、目下の問題であるアイオナの父親が来るとなれば、ダーシュとしても港に出て迎えないわけにはいかないわけだが、どうもアイオナがダーシュを誘った理由はそれだけではないらしい。

 先日の市内での不愉快極まる一件を埋め合わせようということなのだろう。

 あの貴族の女は非常に不愉快だった。思い出しても気分が悪くなる。

 足元を横断していくかにを見つめながら、ダーシュは数日前の不愉快な事件について思い出していた。

 最近ようやく杖が手放せるようになったのだが、今日はアイオナの指示で杖を突いている。何か考えがあるのだろう。

 港には出航待ちの船や、荷下ろし中の船が停泊して、商人や作業をう男衆が働いている。

 それは紛れもない交易商人達の風景だが、ダーシュにとっては異国情緒溢れる光景だった。

 商人と言えば駱駝らくだの隊商を率いる者と決まっているダーシュにとって、船とはそれ自体で巨大な、不思議なものだったのだ。

 そのくせ実際の荷物の取り扱いや、商売上の契約などはダーシュにもすんなり理解できる慣れ親しんだ方法が採られているのが面白かった。

 ダーシュの生まれたアンケヌも交易によって栄える都市だが、同じ交易都市でもディブロスとは多くの点で違いがあり、多くの点で同じ所があった。そのことが面白かった。

 商売上の手続きや、訴訟などはほとんど同じだし、集まる人々が様々な国、地域からやって来ているのも同じだったが、かたや内陸のオアシス都市、かたや海に面する港湾都市とあって、実際の生活環境には大きな違いが幾つもあった。

 磯の香りもその一つだし、あちこちにやたらと公衆浴場カラシュハルがあったりする。

 最大の違いは門の近くなどの通り沿いに奴隷市が立っていない事だ。ローゼンディアでは奴隷市が立つ事は有り得ない。

 アンケヌと違い、傾斜した地面に作られたこの町は、中央政庁と貴族の屋敷群が高台の方向へと伸びているが、そうした景観も今では面白いと思える。

 吹き寄せてくる風はやわらかく、そして潮の香りが含まれていた。

「ほらほら! あの船よ!」

 指をさしてダーシュに教えてくる。

 アイオナは暫く前から覗き眼鏡も外して船をじっと見ていたが、先ほどから随分ずいぶん嬉しそうである。

「お前は父親が苦手なのかと思っていたが」

「時と場合によりけりね」

 再び覗き眼鏡を目に当てて船の方を見始める。

 まるで子供のようだ。

「何を笑っているのよ?」

「いや、別に」

 ダーシュは軽く首を振って誤魔化した。

「いいわよ? 笑っていても。父様に会えばたちまち笑う余裕なんて無くなるんだから」

「ふうむ。娘可愛さに婿いじめをするようなつまらん男なのか?」

「つまらなくはないわよ。本人はいつも面白がっているし。というか何でも楽しんでしまう人だから、ある意味無敵だとも言えるわね」

「そうなのか?」

「最悪だとも言えるけれど」

 アイオナは肩をすくめた。

「以前、父様は砂漠で遭難したのよ。隊商のみんなは生きた心地もしなかったと言っていたけれど、父様だけは歌を歌ったり、走りトカゲを追いかけたりしてたらしいわ」

「それを聞く限りではまともとは思えんな」

「あら? 誰がまともだって言ったのよ?」

 アイオナは不思議そうな顔でダーシュを見た。

「父様は変よ?」

「ああ、それは散々聞かされたから分かってる」

 しかし、実の娘に変と言われる父親は気の毒ではある。

「かなり変よ。口さがない者は頭がおかしいとか、相当ひどいことを言う人もいるけれど、とにかくそれくらい言われるほどには変ね」

岳父がくふ殿が相当な変わり者だということはわかっているさ」

「岳父殿って随分立派な言い方ね。義父殿でいいと思うんだけど」

「父親は最も尊敬すべき人間だろう。特別な敬意をもって接するのは当然のことだと思うが」

 徹底的な家父長制度のアウラシールでは、一家の頂点に立つのは父親である。

 父親は絶対的な権威を持って家族の上に君臨しているのだ。

「うん……あなたが好きなように呼べばいいと思う。たぶん父様も自分の好きなようにすると思うし」

「お前は俺をづかせたいのか、それとも鼓舞こぶしようとしているのか判断に苦しむ」

「ただ事実を告げているだけよ。判断はあなたに任せるわ。がんばってくれるんでしょ?」

「もちろんだとも」

 アイオナは黙ってダーシュを見つめている。何か考えているようだが表情が読めず、何を考えているのかダーシュにはわからなかった。

 最近はこういう風に表情が読めないことが多い。

 気持ちが顔や行動に表れやすい女だと思っていたのだが、何か心境の変化があったのか。

 ダーシュとしては気になるが、聞くのも何だか躊躇ためらわれるのだ。

「船が入ってくるぞ」

 船は全部で三隻。いずれもかなり大きなオルカー船だ。

 砂漠で生まれたダーシュには船種の違いなど判らないが、その大きさは見たままに心に印象を与える。船主の持つ大きな力が感じられてくるのだ。

 一体どういう男なのか。

 いくら話を聞いても実際に会ってみなくてはわからない。人物というのはそういうものだからだ。

 もっとも、このアイオナと、今は不在だがあのヒスメネスを育て上げた人物だ。

 一筋縄でいくとはダーシュも全く思っていない。

 さてどういう男か……かなりの興味と、若干の期待を持ってダーシュは船が港に入るのを待ち続けた。

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