第十三章 正体
隠し通路は砂に埋もれていた。入口だけは無事だったが、内部は膝の辺りまでが砂に埋もれていた。誰も手入れをしなかったからだろうが、隠し通路なので仕方ないとも思う。
「食べるものも無いし、蠍は居ないわよね?」
アイオナは怖々と尋ねた。
「お前たちローゼンディア人は本当に蠍が嫌いだな」
「当然よ。刺されたら死ぬじゃない!」
「全ての蠍がそんなに強い毒を持っているわけではないさ。それに毒だと言うなら毒蛇も同じだろう。ここらにはヌビが居る。毒の強さなら決して蠍に引けは取らんぞ。むしろ勝ると言ってもいい」
ヌビは砂漠に生息する毒蛇である。尾を激しく振って独特の威嚇音を発する。
噛まれればまず生命は無い。
「でも蛇は驚かせない限り噛んでこないわ」
「お前たちローゼンディア人は本当に蛇好きだな」
ダーシュはちょっと肩を竦めた。
「あら、どうして? 蛇は貴い生き物よ」
「それを言うなら蠍だって貴いさ。蠍は天の下方を支配する力有る生き物だ。その背には豊穣の女神ナダが乗るという。お前たちの蛇に劣るとは思えんがな……」
ローゼンディアでは蛇は決して嫌われる生き物ではない。毒蛇ならば恐れられるが、毒を持たない普通の蛇ならば、特に理由が無い限りは憎まれたり嫌われたりする事は無い。
もちろん場合によりけりなのだが。
例えば鶏を飼っている人などは日々卵を狙う蛇との格闘をしているだろうし、そういう人は多分、蛇は嫌いだろう。
だけどそういう理由が無い限りは、まずもって蛇は貴い生き物である。王権の守護者、大いなる女神メーサーの使いでもある。
他方、蠍は確かにアウラシール西部・南部においては畏怖される生き物である。
噂に名高いアウラシールの占星術師は、天に巨大な蠍の姿を見るという。毎年、太陽はそこで死に、翌年、やはり天に輝く雄牛の上に再び現れるのだという。
雄牛と蠍が天を二分して支配している。アウラシールの占星術師はそう語る。
牛は天の水を支配し、蠍が火を支配するのだ。
ダーシュが語った『天の下方』とは、即ち蠍の支配する領域のことだ。
「……普通、女は蛇を怖がるものだ」
「その普通は誰が決めたのかしら?」
アイオナは首を捻った。
「そういうところがローゼンディア人だな」
ダーシュは軽く笑い、松明に火を点けた。油の爆ぜる音と燃える臭いが、僅かに流れてきた。
「行くぞ」
アイオナを促すと、ダーシュは隠し通路に入っていった。
隠し通路は都市の西側の壁、その近くにある水場の背後にあった。水場と言っても今はもう使われてはいない。すでに水は止められている。
場所は城壁沿いの通りから一本入った所で、救護医療院近くの細い通路の奥である。
水場の正面には一応広場が切ってはあるのだが、店が出ることはおろか、立話をする者さえほとんど無い。
こんな奥まった場所にあるし、今はすぐ近くにもっと開けた水場があるしで、段々と使う人がいなくなったのだ。
二十年ほど前に廃止されたのだが、水場自体はこうしてまだ放置されたままである。
隠し通路の入口は、この水場の背後にある見張り小屋の中にあった。尤もこの見張り小屋は建築のために煉瓦を持って行かれてしまっており、足場というか、土台しか残ってはいなかったが。
ダーシュは小屋の床に膝を着いて土を払い、隠し通路の入口を開いて見せた。
これだけ巧妙に隠されていると、ダーシュのように知っている者でなければ見つけ出すことは難しいだろう。
砂に足を取られないようにしながら階段を暫く下りると、西側に向かって真っ直ぐな通路が伸びていた。
松明の明かりに照らされる通路は、厚い砂に埋れてはいたものの側壁はすべらかであり、確かな職人の手になるものと推察出来た。
「服の裾を上げておけ」
このままだと砂の上を掃いていくことになるからだと思ったが違った。
「蠍がいた場合、中に入り込まれる虞がある。おっと下だけ見ていても駄目だ。上から落ちてくるかもしれんぞ」
冗談ではない。
「泣きそうな顔をするな。俺に掴まって、ゆっくり歩いてくればいい」
ダーシュが差し出した手に掴まった。日頃剣を振っているだけあって皮は厚いが、柔らかさのある手だった。
「急ごう。ザハトは知恵が回る。ヒスメネスも向こうに付いたとなれば尚更だ」
通路自体は予想を超える長さがあった。行けども行けども出口が見えてこない。始めは緩やかに下っていると感じたが、やがて水平になり、何度か折れた。どこから入り込んだのか判らないが小さな蜥蜴を何度か見かけた。ヌビには出遇さなかったが、蠍には遭遇した。
悲鳴を上げたが、ダーシュが素速く間に入って庇ってくれた。
「騒ぐな。このまま通り過ぎれば大丈夫だ」
「騒いでなんかいないわよ!」
思わずムキになって声を荒らげてしまった。
「落ち着くんだ。上の連中に声を聞かれるかも知れないぞ」
耳許でダーシュがささやいた。注意されているにも拘らず、何故か優しさを感じた。
「俺を信じろ。こんなところで蠍に刺されるような馬鹿はしない」
それで気が落ち着いた。その後は黙って歩いた。
遂に出口の明かりが見えた時、アイオナは歓声をあげそうになった。慌てて口を手で塞いだ。
「出口だ」
特に感動した様子もなく、ダーシュは外に出た。
そこはアンケヌからほど近い岩場だった。常識的に考えてもそう遠い場所まで地下通路など掘れるはずもないのだが、やはり意外に思った。ここの他にも都市を訪れる交易商人が目印にしている岩場は幾つかあるが、まさかその中に隠し通路を持っているものがあるなどとは。
「さてと……」
何かを探すようにダーシュは辺りに目を配った。おそらく駱駝を探しているのだろう。
屋敷を出る時にも思ったが、駱駝は絶対に必要だ。だからダーシュは絶対に用意してあるはずだし、用意してあるとすればここしか無い。
「ホイヤム! ホイヤムはどこだ!」
ダーシュは大きな声を出した。駱駝はホイヤムというらしい。
名前を付けて可愛がっている辺り、この男らしくないと思ったが、さぞや大切にしている駱駝なのだろう。
「はいはい! 申し訳ございません!」
甲高い男の声が聞こえた。すぐに下から声の主が登ってきた。
ずんぐりとした体型に、黒い袖無し上着、騎乗用の下穿きを穿いた中年の男である。思わず摘まみたくなるような鬚を鼻の下と頤に蓄えていた。
「おお、ホイヤム。不安になったぞ」
どうやらこれがホイヤムらしい。随分可愛くない駱駝だと思った。
ホイヤムはダーシュの前まで来ると、恭しく片膝を着いた。
「我が王子様。お待たせして申し訳ございませんでした」
「王子様?」
自分でもひどく間抜けだと思える声だった。どこに王子が居るというのか。
「してこの女は? 婢でございますか?」
ぎろりとアイオナを見て聞いてくる。睫毛が凄く長い。ばさばさと砂を弾きそうだ。
この男の駱駝を連想させる顔付きの中で、目と睫毛は特に駱駝に似ていると思った。
「いや、妻だ」
素っ気無いダーシュの返答にホイヤムは目を剥いた。
「つ、妻ですとっっっ!!」
「ああ、お前には報せることが出来なくてすまなく思う。俺は結婚したんだ」
全然そうは思ってないような口振りである。ダーシュの人が悪いのは、自分に対してだけではないのだなと思い、妙に安心した。
「け、結婚ですとっっっ!!」
実に判りやすく驚いてくれる。見ていて飽きない男だった。
「そのような重大事を何故お一人でお決めになったのですかっっ!!」
「非常事態だったのでな。すまんが喚かないでもらえるか。耳が痛くなる」
ホイヤムは息を吸い込んだ。軽く咳払いをした。
「申し訳ございません。しかし御結婚などと……ザハト様は御存知なのでしょうか」
「奴なら俺を殺そうと躍起になっている。今頃捜索を始めているかもしれん」
ホイヤムは口をぱくぱくと動かした。何か言おうとしているようだが事態の動きに舌がついていかないらしい。
「安心しろ。お前には危害は及ばない。ダナン族の所へ行け。話は通してある。お前一人くらいは庇ってくれるだろう」
「おう、王子様はどうなさるので?」
「俺か? 俺は妻を護らねばならん」
急に話を振られてアイオナはどきりとした。同時に怒りが込み上げてきた。
なんとなれば、今までこの男は、自分の身分を隠してきたからだ。いや隠してきたのは構わない――のではなくて隠してきたのは仕方ない。この問題を先送りしてきたのには自分も加担していたからだ。
だがどうにも腹の虫が収まらない。言うに事欠いて王子だと?
よく考えてみれば符合することばかりだ。隠し通路にしても王族ならば知らないはずはない。おそらく最初に潜入してきた時も、似たような通路を使ったのだろう。
ザハトとの会話もそうだ。古典ナーラキア語を話せたことだって、王族ならば不思議は無い。物腰にある気品だってそうだ。
だが、だが……とにかく腹が立つ。
「どうした? 恐い顔をして」
初めて、こちらの様子を窺うような声をダーシュは出した。
それがまた怒りを誘った。つまりこの男は今の自分の立場を自覚しているというわけだ。
今までダーシュは自分の身分、素姓という、最も重要な事実を伏せてきた。
隠してきたわけだ。
当然それが明らかにされる時には大きな影響があるわけで、それまで隠してきた時間や、その隠し方が強固なものであればあるほど、影響は激しくなる。
無論それはアイオナの驚きや怒りといったものになるだろう。
この男はそれをちゃんと解っていたのだ。
アイオナは剣呑な眼差しでダーシュを睥んだ。
「……王子ですって?」
ダーシュは何か言いかけたが止め、僅かの間を置いてから不敵な笑みを浮かべた。
謝るべきか、虚勢を張るべきか考えていたのだろう。
そしてどうやら虚勢を張る方を選んだようだった。
「ああ。光栄に思うがいい。お前の夫は実は王子だったのだ」
その言葉で、目に見えない何かが、張っていた糸のようなものがぷっつり切れた。その音が確かに聞こえたとアイオナは思った。
「冗談じゃないわ! つまりはこれって、わたしは政権争いに巻き込まれたってことでしょ!? どこが損にならないのよ! 王子だって判ってたら、結婚なんかしなかったわ!!」
ダーシュは、苦味と驚きの混じった笑みを浮かべた。
「アウラシールの女ならば、王族の妻に選ばれたとなれば、一も二もなく喜ぶものだがな……」
「生憎と、わたしはローゼンディア人なもので!」
再びダーシュは何かを言いかけたがやはり口を噤み、言葉を探し始めた様子だった。
どうやって宥めるべきか、それともこの期に及んでまだ誤魔化そうか考えているのかも知れない。
アイオナはダーシュが話すのを待った。その間にも、怒りにとろとろと油が注がれるのを感じた。
駱駝のホイヤムが口を挟むべきか、それとも黙っているべきか、やはり考え倦ねて不審な挙動を見せている。
立ち上がりかけて中腰のまま口を押さえているその仕草は、リスか何かの小動物のようだ。滑稽な姿だったが今のアイオナには全然おもしろくない。
何やら視界に入るものすべてが、怒りの目盛を上昇させることへと加担している気がした。
だが、こういう時こそ冷静にならねばならない。
「顔は怒っても心は静か。目と指は賢く。数えることを間違わない」
父はいつもそう言っていた。商人は冷静たれ。勘定を間違ってはならないと。
アイオナは大きく深呼吸した。ダーシュとホイヤムが警戒したように身動ぎした。安心しなさい。あなたたちをこれ以上怒鳴りつけたり、棒で追い回したりはしないから。
「……今の言葉は取り消すわ。どのみちあの夜のわたしには選択肢はなかったのよ。ただあなたが嘘を吐いたことだけはたしかね」
「俺は嘘など吐いていない」
ダーシュは不満げである。
「あら? 権力闘争真っ最中の王族と結婚することが「必ず得になる。損はさせない」なんて言い切れるのかしら? 危険も大きい代わりに見返りも大きいというのならば解るけれど、必ず得になるというのは言い過ぎではないかしら? 店先に羊の頭を置きながら、売っていたのは犬の肉だったという話があるけれど、まさにそれね」
「なんだと」
かっとなったのかダーシュは睥んできた。負けずに睥み返した。怒っているのはこちらも同じだ。
おろおろしているホイヤムを放置して、アイオナとダーシュは無言で睥み合った。
先に根負けしたのはアイオナだった。こんなことを続けても仕方ない。それにたった今、冷静になると決めたばかりではないか。
「あーあ。もういいわ」
頭を振って背中を向けた。
「今更どうにかなるでなし。どうでもいいわ。それよりも先のことを考えましょう」
「……」
ダーシュはまだ無言でいる。何となく、再びダーシュの顔を見るのが躊躇われた。だからというわけではないがホイヤムに目を向けた。実に情けない表情をしている。それで少し、気持ちが和んだ。
「それで、わたしはこれからどうすればいいの?」
振り向いて、しっかりとダーシュを見つめた。睥んでくるかと思ったが、意外にもダーシュは気まずそうに目線を下げた。
「……俺の妻になった以上、ザハトはお前を殺そうとするはずだ。差し当たっては安全な場所まで逃げてもらわねばならん」
「なぜザハトはわたしを殺そうとするの?」
それが疑問だった。
「未来の王母となられるからです」
答えたのはホイヤムだった。
「血筋の上でもダーシュ様が正統。ザハト様は大臣家の御子息。母方でしか王家の血を引いてはおられません。この上ダーシュ様が御成婚となれば、アンケヌの市民、そして宮殿の家臣たちのすべてがダーシュ様を推戴いたしたいと思うことでしょう。ザハト様は聡明なお方。そこを恐れたのではございますまいか」
「それだけでわたしを殺す理由になるの?」
「それは私めには判断出来かねます。ですが我が王子が先程仰せになったところでは、ザハト様はお二人のお生命を狙っているということでございました。ならばそういうことなのではございませんか?」
この男、見かけによらずなかなかに頭が良いではないか。
アイオナは感心すると同時に、ホイヤムに好感を持った。
「あなたホイヤムと言ったわね」
「ははあ~」
ホイヤムは岩場上にひれ伏した。
「別段這いつくばる必要は無いわ。それよりも水を持ってきてくれない? 咽が渇いたわ」
「はい。ただいまお持ちいたします」
ホイヤムは素速く立ち上がり、岩場を降りていった。軽やかな動きだ。ずんぐりした体型からは考えられない身のこなしだと思った。
アイオナは手頃な岩を見つけて腰を下ろした。召使いの服を着ていて良かったと思う。
高価な普段着だったならば、こんな所に坐る気にはなれなかったに相違無い。
「あなたも坐らないの?」
手近な岩を指差してダーシュを招いた。大人しくダーシュは従い、アイオナの隣に坐った。
「……お前に損をさせるつもりはなかった」
ぽつりと呟いた。まだ気にしていたらしい。こちらはもう逃避行のことを考え始めているというのに。
「別にあなたの善意を疑ったわけじゃないわ」
内心微笑ましいと思いつつも、わざと素っ気無い口調で答えた。
「あなたの読みが外れただけでしょ」
「口惜しいがな」
「あなたにとっては生命の懸かった非常事態だったし、私の頸に手を掛けたことも赦してあげるわ。読みが外れたことも、残念だけど仕方ないわね」
「随分気前がいいな」
「何言ってるのよ! これでも泣く泣く在庫整理してるのよ。あまりローゼンディア商人を甘く見ないことね」
「それもこれもヘキナンサの思し召し、か?」
「確かにそうだけど……異教徒に言われると複雑なものがあるわね」
「だろうな。俺はアルシャンキを引き合いに出すべきだった」
二人して笑った。笑っていると、ホイヤムが水袋と何か、他の袋を提げて戻ってきた。大方、乾物などの軽食が入っているのだろう。笑っている自分たちを見て不思議そうな顔をしたが、すぐに釣られたように笑顔になった。
「干し葡萄を持ってきました。棗椰子、干し肉もあります」
「ありがたいな」
ダーシュが晴れやかな顔になった。
「駱駝は三頭用意したな?」
「はい。王子様のお言い付け通りに」
「良し。ならばもう、お前は去れ」
「ちょっとダーシュ!」
それは非道いのではないか。使うだけ使っておいて、用が無くなれば「去れ」とは。
「いえ、良いのです。王子様は私めの安全を考えて下さったのです」
「良いか? ダナン族の所へ行け。そしてザハトのことを長老に話せ」
「その後はどうすればよろしいのですか?」
「俺たちはディブロスにゆく。あそこはローゼンディアだ。ザハトの手は届かない。お前は長老への報告を済ませたらその足でディブロスへ来てくれ」
「かしこまりました」
「良いか? 急いでダナン族の所へ行け。そして必ず長老に直に面会してこのことを話すのだ」
ダーシュは厳しく命じた。
「ははあ。仰せの通りに致します」
「お前に死なれては俺が困るからな。必ず生き延びよ」
「ははあ」
ホイヤムは再び岩場上にひれ伏した。
「ダナン族っていうのは何? そこが安全なら私たちもそこに逃げ込めばいいんじゃない?」
「そうはいかん。そこまで甘えられない」
「どういう関係なの?」
「母の実家だ」
「……いろいろと複雑なのね」
アイオナは溜息を吐いた。王族というのはいろいろと大変そうだ。いろいろと。
ローゼンディアにしたって現王妃の奢侈は問題視されているし、それに伴うどろどろとした貴族間の人間関係など、アイオナは耳にしたことがある。
「我が王子よ。何とぞ、何とぞ御無事で……」
ホイヤムはダーシュの手をしっかりと握ると、祈るように言った。
「俺がそう簡単に死ぬものか」
「お妃様もお体を大事にして下さいませ」
その言葉が何を意味するのか想像して、アイオナは何だかこそばゆくなった。
「あなた様は未来の王の母となられるお方」
やっぱりそうだった。うるうるとした駱駝のような目を向けられて、この結婚が偽装であることを思い起こすと、何だか悪いことをしているような気になった。
「ホイヤム。もう行きなさい。王子の言い付けに従うのですよ」
自分でも似合わぬと思いながら、雰囲気に流されてそう言った。ホイヤムは至極自然にその言葉を受け容れて、感謝の言葉を返し、それから岩場を下っていった。すぐに駱駝に乗って去っていく姿が見えた。
「さて、我らも浮々はしておられぬ」
ダーシュが腰を上げた。




