第十四章 彷徨える魔神
ザハトは苛立っていた。ある程度想定していたことではあるが、ダーシュが気配を察して逃げ出したのだ。
「……お前はいつも逃げるな」
本人の居ぬ場で、宮殿の中庭の前に立ちながらザハトは呟いた。
自分がアンケヌを攻めると言った時もそうだった。市民を巻き込むことを恐れ、ダーシュは反対した。ゴーサの傭兵団に渡りを付けたのも、ハダクを抱き込んだのも自分の仕事だ。
そのくせダーシュは市内への偵察を買って出た。大方、衛兵に見つかったのも、迷いを持ちながらうろうろとしていた所為であろう。煮え切らぬ男だと思う。
自分とダーシュの立場が逆であったならばと思うことは、今までにも幾度かあった。
同じ王家の血を引いているとはいえ、ダーシュは歴とした王子であり、一方ザハトは大臣家の人間だった。
ザハトの母は先王の妹に当たる。つまり母方の血筋を通して、ザハトとダーシュは従兄弟になるというわけである。
女の血筋を通してしか、自分は王家との血縁が無い……。
そのことはザハトにとっては大きな弱点だと言えた。父権の強力なアウラシールにあっては、何よりも父を持つこと、父の系譜を受け継ぐことが重要視される。
女では駄目なのだ。
だからといって、ザハトは母を軽視したり憎んだりしているわけではない。
要は問題点をどう解消するかだ。
今となっては馬鹿馬鹿しいことであるが、こうしてアンケヌを掌中に収めるまでは、ダーシュが王になり、己が大臣として政務を執る――それが漠然たる目的だった。
すべてが変わったのはゴーサの町を訪れた時だ。たまたま立ち寄った水場で、すべてが変わった。
「お前か」
ケザシュはそう言った。始めは何のことやら解らなかったものだ。
だが自分は運がいい。物事の絡繰りを知る機会に恵まれた。尤も、それすらもケザシュに言わせれば「護神像の力」ということになるのだろうが。
そう、ゴーサの町に入る途中、盗賊に襲われた隊商に出遇した。
ただし奮戦むなしく敗れたという感じではなかった。
盗賊が理由で壊滅したのではなく、何か他の理由による、奇妙な壊滅の仕方を示していた。そこに興味を惹かれてザハトは近寄ったのだ。
もちろん金目の物は後から來たであろう盗賊達にすべて持ち去られ、禿鷹が姿を見せるのも直であろうという頃合だった。
何か期待したわけではない。
だがザハトは、屍体と破壊された荷物の間に入って行った。そこで見つけたのだ。砂に埋もれた小さな人形を。
黒曜石を刻んだ物だった。この硬い石をどうやって刻んだものかは判らない。膝を抱えて坐った、侏儒のように見えた。初めは子供を授けるダフラ神かと思った。だが違う。見たことの無い像だった。
「お前は運がいい」
ケザシュはそう言った。だがその理由は決して語ろうとはしなかった。ただ跟いてきただけだ。
「一度だけ機会が与えられるだろう。それを逃さぬことだな」
ケザシュはそうも言った。真実だった。
機会とはすなわち、何故ケザシュが自分に跟いてくるのか、その理由を知る機会ということである。
ケザシュに出会う直前、確かにそれを暗示するような出来事にザハトは遭遇していた。そのことをケザシュは知らない。だからこそ不用心にそう発言したのだろう。
だがザハトは運が良かった。まさにケザシュの言葉そのままに。
ゴーサの町に入ってすぐに、どういうわけか占い師の小屋に入ったのだ。普段ならばそんなことはしない。何故か足が向いたとしか言いようが無い。
「お前が拾ったのはアシュバ神の像だ。小さな、黒い魔神だよ」
占いを始めてすぐに、老婆はそう語った。聞いたことの無い神の名だった。
最初は当てずっぽうだと思った。なんとなれば何かを拾うことなどよくあることだし、曖昧な言い方をして客を翻弄するのは、こうした商売には当然のことだからだ。
「遠く、ハルジット高原を越えてなお遠くの涯に、ヤヌシャフという山がある。その山には死を掌どる恐るべき者たちがおる」
「暗殺者のようなものか」
ザハトは尋ねた。暗殺者ならば、ザハトも知っている。誰もが恐れる死の使い。黒き手を持つ者たちだ。その本拠地がどこなのかは誰も知らない。
老婆は哂った。
「暗殺者は召使いに過ぎん。彼らの黒き手は、その主より与えられたものさね」
「ほう」
「昔。まだハルジット高原が人の住める場所ではなかった頃の話じゃ――」
老婆の語った話は東部域の古い伝説らしかった。アウラシールは広大である。西部の人間であるザハトにとって初めて聞く内容だった。
老婆によれば、ハルジット高原の東方、その涯にドゥルーダという山脈があるという。天を衝くばかりの高く峻しいその山脈の中に、ヤヌシャフという山がある。
それこそが魔の山。黒き予言者たちが住まう山だ。彼らは元は一柱の魔神を崇めていたと言うが、悠久の昔、自らの手によって魔神を追放したのだという。
魔神は小さな像の中へと封じられ、以来、アウラシールを彷徨っているのだと。
長い、長い間。
「アシュバ神は帰りたいのさ。山に、自らの故郷にね」
「その昔噺がどうしたというのだ」
「お前の持っておるその像がアシュバ神さ。そんな小さな姿に封じられて、今もアウラシールを彷徨っているのさ」
「馬鹿馬鹿しい」
ザハトは鼻で嗤った。この手の占い師に多いハッタリだと思った。
「信じるか信じないかはお前さんの自由さ。だがお前さんはアシュバ神の下僕に会っているはずだよ」
「どうしてそう思う?」
「アシュバ神は下僕を持っておるからさ。自分を追放した者たちに復讎するため、アウラシールを彷徨いながら、少しづつ力を蓄えておるのだと聞く」
「……」
「人知れず、黒き魔神を崇める者たちがおるということさ」
「俺の故郷ではそのような話、頓と聞いたことも無いがな」
「それはそうよ。お前さん、西の人間じゃろ。アシュバの信者は少ない。ほとんどがハルジット高原より西へは出て行かぬだろうさ。魔神は山から離れたくないのだよ」
「ほう。では何故俺の許に魔神はやって来たのだ。奇妙しいではないか?」
「そうさねえ。きっと何かのお考えがあってのことだろうねえ」
「魔神の下僕というのはどんな者たちなのだ?」
「大きな力を授かっておるそうだよ」
「大きな力?」
「魔道の力さ」
老婆は声を潜めた。ザハトは滑稽だと思った。自分自身が占いという魔道の一端を担いながら、まるで何か恐ろしいものについて話している風にするのは可笑しいではないか。
「魔神は自らの手足となる者に強い力を与えるというよ。そしてその者たちは必ずお前さんの前に現れるだろう」
「馬鹿馬鹿しい」
もう一度ザハトは鼻で嗤った。まともに取り合う気がしなかった。小屋を出て、咽の渇きを覚えたので水場に向かった。アウラシールでは大河に挟まれた中央地域を除いて、水は貴重である。丁寧に水を汲み、一滴も無駄にせぬようにする。ザハトは桶一杯の水で咽を潤し、顔を洗い、水を浸した布で肩や首の回りを拭いた。
いつの間にか背後に人が立っていた。
男である。が年齢はよく判らない。浅黒い肌をしており、その顔立ちにはアウラシールでも南方人の特徴が見て取れた。体格は雄偉とは言い難かったが、それでも不気味な凄味を感じさせるのは、異様なまでに鋭い眼光のためであろうか。頬は少し痩けていた。
黒紫色の長衣を着て、緑色の頭布を巻いているが、腰帯に剣は差していない。無腰であった。
「お前か」
ケザシュはそう言った。
ザハトは運が良かったと思っている。もしもこの順番で出会わなければ、そうと察することは出来なかったかも知れない。
もちろん魔神崇拝者なのかとケザシュに尋ねた。笑って取り合わなかった。
「もしそうだとして、だとしたらどうだというのだ?」
逆に問い返された。
「俺がどこの何者でもお前にとってはどうでもいいこと。お前にとって重要なことは、この俺を、俺の力をどう使うかということではないかな?」
確かにそうだった。
ザハトはケザシュの能力を大いに利用した。ハダクを抱き込んだのも、ゴーサの傭兵団を傭うことが出来たのも、すべてケザシュの奇怪なる協力あってこそだった。
ケザシュは何も語らず、何も要求せず、ただザハトが求めることを実行した。だからといっていい気になっていたわけではない。
やがて懐の神像は重くなり、手の内で蠢くように思えた。確かに言い知れぬ何か、人智を越えた力を持っているように感じた。
ザハトは己が掌を見つめた。考えごとをする時、常にあの神像を握り締めていた。
今はもう無い。突然に失われたのだ。持ち歩いている内に落としたのか? いや、考えられない。気付くはずだ。
懐から神像が消えた時、消えたのに気付いた時には血の気が引いた。すべてを放り出して神像を探した。だが、見つからなかった。
「じゃあな」
血眼になって神像を探している時、不意にケザシュが背後に立ってそう告げた。
「驚くな。判っていたはずだ」
「お前は……」
「俺はあの男の所にゆく」
指差した先にはヒスメネスの姿があった。噴水の向こう、丁度中庭の反対側だ。
「奴はローゼンディア人だぞ」
「関係無いさ」
ケザシュはくるりと背を向けた。呼び止めようと思った。だが、声が出なかった。何かが自分の声を封じていると思った。
「……余計なことをする」
ケザシュは呟き、遠くを見るように町の方へと目を向けた。
「お前は運がいい。最後まで生き延びた。大概は、途中で死ぬのだがな」
ケザシュが歩き去っていくのを茫然と見つめた。
だが、本当に驚いたのはその後だった。
まったく、神像を取り戻そうという気が失せたのだ。上手くは言えぬが、自分の役目は終わった。そんな気がした。
同時に自分を衝き動かしていた炎のようなものが消えているのを感じた。
いや正確には、その炎が、魂の力とでも言うような物が変化しているのを感じたのだ。
何かを成したいという思いが、何を成すべきかという思いに変わったのを、ザハトは感じた。だがそれはかつての状態に戻ったのだとも言えた。
ザハトは自分の姿を再発見したのだ。炎の上に炎を重ねられると、どちらが真の炎なのか区別が付かなくなる。そういうことだと思った。
神秘というものはあるのだ。この世は人が形作ったものかも知れぬが、その周辺には見通すことも出来ぬ深淵が拡がっているのだと感じた。
ザハトはヒスメネスに簡単な紹介だけを済ますと、後はケザシュを自由にさせた。ケザシュの方でも挨拶に来たりはしなかった。風のような男だと思った。
あの時、何故ケザシュを呼び止めなかったのかは解らない。
何か強烈な力が自分を制した。
何の力であるかは解らない。だがその力があの時、あの判断を導いた。ケザシュはそれを知らないか。
知らなければケザシュはそのように語るだろう。おそらくヒスメネスにも。そのことはザハトの想定する方向へ事態を動かす助けになるかも知れない。
――いや、あの男のことだ。知っていても何の不思議も無い。
いずれにしても、後は己が成した行為の結果がどのような軌跡を描くのか、それを待てばいい。
そこには畏れと期待、そして好奇の思いがある。
が、それだけではない。それらの思いが入り交じる奥に秘められた核がある。硬い鋼鉄の球のようなものがある。それは危険なものだとザハトも自覚している。
だがそれがザハトなのだ。それがザハトがザハトで在るということなのだ。それは余人には疎か、本人に取ってさえもどうにも出来ぬ事に違いない。
花は花であるというその性質、本性によって花たり得るのであり、同様に水は水であるということによって水となる。輝く月も、天に浮かぶ雲も、また同じことだ。
己が、己が思うところの己であるという核たる中心。
あの時己を捕まえた力は、その核に触れたのだ。そのことだけは解っている。
その力はザハトの胸の内に吹き込み、重要な変化を起こしたのだ。今度ははっきりと解った。何かが自分を導いているのだと感じた。
――アルシャンキの御加護があったのやも知れん。
今ではそう思う。ケザシュが見た町の方向には、その中心にはアルシャンキの大神殿ディアマシュがある。
父の実家も、母の王家も長くアルシャンキを奉祀する一族である。
その一員として特別の加護が与えられたのか……。
人智を越えた領域について推測するのは、もはや妄想するのと変わりない。
自己の経験とそこから得られる体験内容を判断するという行為にも、余分な情報、無自覚の前提が混入しているに違いないのだ。
だからといって行者の如く、神秘を認めつつも、それを知る事は出来ないと断じるのも愚かと思う。
現実的な立場に立って考えれば、何が何やらまったく解らないと言うのが正しいのだろう。
いずれにしろケザシュの協力を失ったことだけは確かだ。しかし、これからも自分は進まねばならない。
目的を遂行するべく邁進せねばならない。
差し当たってはダーシュをどうするかだ。種は蒔いた。蒔いたが、どういう芽が出るかはまだ予測しがたい部分がある。
そしてみすみす逃がしたヒスメネスについてもよく考えねばならない。
あの男は切れ者だ。何を考えているのか、何を目的としているのかをしっかりと捕まえておく必要がある。
――ヒスメネスには真実を知る機会が与えられるのだろうか?
ふとそんなことを思った。自分には機会が与えられた。それもまたアルシャンキの加護であるのかも知れない。
王には祭祀長としての役割がある。ディアマシュにおいて祭儀を取り仕切る仕事があるのだ。
ここから先は未知の領域だ。
だがもしもダーシュを殺し、名実共に王となった暁には、それでも、それでもアルシャンキには最大の祭儀を奉げよう。
ザハトはそう心に誓った。




