佐伯紅羽①
月を最後に見たのはいつだっただろう。
妹の墓参りをした日の帰り、白瀬に頼まれて立ち寄った峠。そこで見た大きくて丸い満月が最後だった気がする。
厚い雲に覆われた空を眺めながらそんなことを考えていたら、照明のスイッチをつけたかのように僕のとなりが急に明るくなった。眩しさに目を細めて横を向くと、白く淡い光で覆われた白瀬がひっそりと佇んでいた。
「これ、いつものやつ」
「ありがと」
白瀬に創ってもらった刀を受け取る。
刀の背で肩を叩きながら、僕はふと気になったことがあって、白瀬のことをじっと見た。
「何か変?」
「……いや、なんでもない」
僕は慌てて視線を逸らす。
「ここ一週間ぐらい常に誰かの視線を強く感じるんだけど、もしかして須賀だったりする?」
「そんなわけあるか」
ちょっと顔を見ただけなのに、ストーカー扱いされるなんて堪ったものではない。
「じゃあ、誰……?」
「さあね。僕に聞かれても分からないよ。それに視線を感じるっていうけど、案外白瀬の勘違いなんじゃない?」
嘘だった。
本当は白瀬に視線を送っているのが誰なのか、僕は知っている。何故なら僕がその人に白瀬の様子を見張るように伝えているのだから。
「それはない」
白瀬は断言した。
「どうして?」
「私は人の視線なら敏感に感じ取れる。普段から須賀以外に視線を向けられることがないから」
「なるほど。……とりあえず白瀬の話を信じるとして、だ。参考までに聞いておきたいんだけど、どういう風な視線を向けられているか分かる?」
「なんというか、ネチネチした感じではなくて突き刺すような感じ。私にいい感情を持っていないことは、確か」
やっぱりか、と僕は胸の内でつぶやく。
白瀬に気づかれないようにしろよ、とは言ってあったけど、やはりあいつには無理だったか。
「何か私のストーカーの心当たりでもあるの?」
「いや、何もないよ」
あいつはストーカーではない、……と思う。
残念ながら断言はできないけど。
「……ストーカーなんとかならない?」
「なんとかって言うと、具体的にはどうしてほしいと思ってるの?」
「消してほしい」
と、物騒なことを真面目な顔で言い出す白瀬。
僕は呆れ顔で首を横に振った。
「それは無理。まだ警察のお世話にはなりたくない」
僕がそう言うと、白瀬はわざとらしく大きなため息をついた。
「ストーカー被害にあって困っている女の子を助けてあげられないなんて、それでも男?」
「消す以外にもう少しマシな助け方あるだろうよ。それに助ける必要なんてある? むしろ白瀬をストーキングしている奴のほうが心配だよ。白瀬に見つかったら、間違いなく半殺しにされるだろうし」
「……普段、須賀がどんな風に私のことを見ているのかよく分かった。でも、話は後で」
白瀬はそう言って身を翻した。手にはすでに構築し終えた白い槍の柄が握られている。
眼鏡をかけると、白瀬が走って向かう先に鬼が二対いるのが見えた。
「じゃあ、僕は白瀬の背中でも守ろうか……な……」
白瀬とは逆の方に体を向けるや否や、僕は今すぐ回れ右をしたい気分に駆られた。僕の視線の先には、見えているだけでも軽く二十は超える数の鬼たちがいた。
なるほど。これが見えていたから白瀬は、顔を向けていた方向と逆に向って走り出したのか。見事に厄介ごとを押し付けられてしまった。
今日の昼休みの一件で、白瀬にも女の子としてか弱い一面があると知ったばかりだけど、こんな仕打ちをされてしまったら今日改めた認識をさらに改め直す必要がありそうだ。
しかし、嘆いてもどうしようもない。
僕は苦笑を浮かべながら、刀を腰に構える。
「は?」
鬼たちの群れの中に一歩足を踏み出そうとしたそのとき、僕の目の前で異変が起きた。唐突に鬼たちが互いを殺し始めたのだ。
ある一体の鬼がとなりにいた鬼の腕を引き千切れば、別の鬼が隙をついてその二体の首をへし折る。その鬼が動きを止めた二体の鬼を頭から喰らおうと大きな口を開けたところで、また別の鬼が横槍を入れる。
「何が起きてるんだ?」
僕は呆けた声で呟いた。
刀を構えることも忘れて、ただただ目の前の光景に目を奪われる。ふと、気づいたときには、あれほどいた鬼たちの数が同類同士の殺し合いによって一桁にまで減っていた。
「須賀」
駆け寄ってきた白瀬が僕の腕を掴んだ。
「一体、何が起きてるの?」
「分からない。……でも、すごく興味深い現象だ」
「悠長に観察なんてしている場合じゃない。今すぐ鬼たちを止めないと。これ以上放っておいたら……」
「まずいことが起こるだろうね」
他人事のように僕は言った。
白瀬が僕の腕を掴む力が強くなる。
「それが分かっているなら、どうして?」
「どうして鬼たちを止めないのかって? そんなの決まってる。そうしたほうがおもしろいことが起こりそうだからだよ」
目の前で起こっている未知の現象に、僕の胸は躍っていた。今の僕の目は、まるで初めて玩具を与えられた子どものように輝いているだろう。
「あなたはやっぱり……」
「何?」
「……何でもない」
「言いかけてやめるなよ。気になるなあ。けど、まあいいか。じゃあ、そろそろ止めようか、鬼たちを」
白瀬がきょとんとした目を僕に向ける。
「止めていいの?」
「もちろん。さすがに僕の手におえない事態に陥る前になんとかつもりだったよ。というか、いちいち僕の許可を取らずに、鬼を殺せばいいのに。白瀬が独断で鬼たちの共食いを止めたとしても、文句なんか言ったりしないよ。白瀬の行動を止める権利なんてもの、僕にはないんだから」
白瀬は深いため息を漏らした。
「忘れていた。須賀はそういう人だった」
「どういう人?」
「小心者ってこと」
「用心深いって言ってよ」
白瀬は僕の言葉を無視して、鬼たちに向かって鎖を伸す。それと同時に、僕は拘束を受けて無防備になった鬼たちを斬るために走り出した。
いつも通りの連携だったのはここまでだった。
共食いから生き残った鬼たちは鎖を強引に振りほどいた。
「え?」
白瀬が戸惑ったような声を上げる。僕も驚きは隠せなかった。
今までどんなに暴れても、白瀬の鎖から抜け出せた鬼は今まで一体もいなかったというのに。
僕は足を止める。このまま白瀬の鎖による補助もなく、あの鬼たちの中へ飛び込んでいくのは無謀だと思った。
鬼たちの急激に向上した腕力を見せられて、僕はようやく鬼たちがさっきまでどうして互いに殺し合っていたのか分かった。
「これは、蠱毒だ」
「蠱毒?」
昔読み漁っていた呪術書によると、蠱毒とは呪いの手段の一つだ。
様々な種類の毒虫を壺の中に入れ、最後の一匹になるまで殺し合いをさせることで生き残った一匹の虫を強化させ、その虫を使役することによって殺したい相手を殺す。それが蠱毒と呼ばれる呪いである。
「ということは、鬼たちは同類を殺すことによって力を増そうとしているってことか。しかも、自然的にではなく人為的に」
「その通り」
僕から蠱毒の説明を受けた白瀬はすべてを理解したらしい。
それにしても鬼たちが自発的に同類たちと殺し合いをしていると思っていたから興味深かったのに、殺し合いは蠱毒によるもので鬼たちはただ単に誰かに操られていただけだったとは面白味のかけらもない事実だ。
「これ以上強くなられる前にさっさと終わらせよう、と。……白瀬、鎖で拘束するのは難しいと思うから、牽制だけお願いできる?」
返事がない。
「白瀬?」
もう一度声をかけると、返事の代わりに白いボウガンの矢が鬼たちに向かって飛んでいった。
「イエスかノーぐらい言えよなあ」
悪態をつきながら、僕はボウガンの矢に気を取られている鬼たちの懐に入り込むと、刀を横薙ぎに振るった。でも、刃は鬼の身体に届かなかった。
甲高い金属音が聞こえて、手のひらに小さな痺れが伝わる。僕は信じられない気持ちで、刀を受け止めている拳大ぐらいの大きさの石を見つめる。一体の鬼がこの石で僕の斬撃を防いだのだ。
この刀は鬼に対して抜群に有効だ。しかし、鬼以外の者に対しては普通の刀と変わらない切れ味しかない。
鬼がこの刀の攻略法に気が付いたとは考えにくい。そこまでの知性を鬼は持ち合わせていないはず。だとしたら、鬼を操っているやつの入れ知恵だろう。
「こんにゃろう」
たった一体の鬼に足止めを食らっている場合ではない。しかし、蠱毒の影響だけではなく、裏で操っているものの戦略も合わさったせいで、鬼は僕の手に余るほど強くなっていた。
僕は一旦鬼から距離を取った。脇を締めて、地面と水平にした刀の切っ先を鬼に向ける。突きでガードの石ごと貫こうと考えたのだ。
「くっ」
素人知識による突きの構えをした途端、鬼は手に持っていた石を僕の顔に投げつけてきた。それをなんとか半身引くことで躱したときには、鬼が腕を地面に叩きつけていた。
衝撃で舞い上がった土煙が風に煽られて、僕に迫ってくる。僕は刀を持っていない方の腕で顔を覆った。
鬼は目がないので、周囲が砂煙に覆われていても僕のように視界を奪われたりはしない。
僕は姿勢を低くし、隙なく周囲に気を配っていたけど、絶好の機会だというのに鬼は襲ってこなかった。砂煙が晴れて視界がクリアになったとき、僕は目隠しの本当の意味を知った。
僕の目の前にいた数体の鬼たち。それらはいつのまにか一体だけになっていた。 どうやら僕の視界を封じている間に、蠱毒を終わらせたらしい。
「これはまずいよな」
唯一生き残った鬼は見た目に関しては変わったところはない。けど、鬼の全身から発せられる存在感が今までの有象無象の鬼たちとは桁が違った。
鬼に僕は初めて焦りと恐れを感じた。
鬼が地面に足をめり込ませながら駆けだした。咄嗟に刀を構えた僕を無視して、その後ろにいる白瀬に向かって一直線に。
「白瀬!」
僕は名前を呼びながら振り返る。
ボウガンの矢が鬼の胸に飛来する。しかし、鬼は放たれたボウガンの矢を素手で掴んで握りつぶした。
今までの鬼とは基本性能が違いすぎる。
今までのものよりも一段と太い鎖が鬼の体に巻きついて、鬼の動きを止める。その間に僕は全速力で白瀬の元に駆け寄った。
「おい、白瀬」
「……な、に?」
返ってきた反応はとても弱弱しいものだった。
息は荒く、目はどこを見ているのかわからないほどに虚ろだった。身に纏っている白い粒子が放つ光もほとんど消えかけている。
先ほど僕が白瀬に声をかけたとき返事がなかったのは、そのときにはもう返事をする余裕すらなかったからだったのかもしれない。
今日、最初に白瀬の身体の周囲を漂う白い粒子を見たとき、僕はその光がいつもよりも淡い気がした。
わざわざ彼女に言う必要はない。
僕はそう判断した。
そう判断してしまった。
鬼は太い鎖を発泡スチロールのようにいとも容易く腕力だけで引きちぎった。
当たり前のことだけど、鬼は僕たちの事情なんて関係なしに、僕たちを薙ぎ払おうと腕を振るう。
僕はその腕を刀で斬り落とそうとした。
一瞬刀身に触れただけで鬼の体をバターのように切断する刀。その刀を信頼していたからこそ、僕は避けるという選択肢が浮かばなかった。そして、その過信が命取りになった。
「がっ」
腕に激しい痛みが走ったかと思ったら、鬼との距離が一気に離れる。吹き飛ばされているのだと理解が追いついたのは、地面を転がり、じゃりじゃりとした砂の味を噛みしめた後だった。
身体中がひりひりと痛い。唇を切ったのか、口の中に錆びた鉄の味が広がる。視界が涙で淡くぼやける。なんとか起き上がろうとするのだけど、うまく力が入らなかった。
白瀬が僕の名前を呼ぶ声が遠く聞こえる。
油断していた。
過信していた。
慢心していた。
僕は自分の愚かさに吐き気がした。
もう、だめだ。
これ以上は、もう。
僕は白瀬と、それから自分の命が危ないと判断し、ポケットから携帯を取り出す。そして、ある相手に電話をかけた。
ワンコールで通話が繋がった瞬間、何か熱いものが僕の横を通り過ぎたかと思うと、白瀬に振り下ろそうとしていた鬼の右腕が紅蓮の炎に包まれた。鬼は苦しげな声を上げながら、燃え続ける右腕を肩の付け根から強引に切り離した。
「いい判断ね」
楽しげだけど、どこか空虚に感じる少女の声。
「でも、無駄だから」
そう、少女が言うと、今度は鬼の全身が紅蓮の炎に包まれた。鬼が残った腕で炎を振り払おうとしても、まるで皮膚のように、衣のように張り付いて離れない。
しばらくして、炎の勢いが沈静化したとき、鬼の身体は塵すら残すことなく消えてなくなっていた。
「あたしの千莉先輩に傷をつけた恨みは、お前の苦しみと死ぐらいでは償えるものではないんだけど、まあ、お前みたいなゴミにはそのぐらいしか差し出すことができないだろうからこれで勘弁してあげる」
僕は君のじゃないよ、と声に出して突っ込む気力もなかった。
僕と白瀬が苦戦していた鬼を瞬く間に片づけてしまった少女、佐伯紅羽は軽やかな足音を立てて僕のそばまでやってくる。
肩口で切り揃えられた少女の髪は鬼を燃やしている炎と同じで赤く、紅い。さっきあんな苛烈なことを呟いていた人と同一人物とは思えないほどに、僕を見る目は優しかった。耳をヘッドフォンで覆い、ベージュのカーゴパンツの上にはグレーのトレンチコート。右手には一丁の黒い拳銃が握られている。
紅羽は倒れている僕の上半身を起こすと、いきなり抱きついてきた。妹とは違って、豊満で柔らかな二つの塊が僕の胸に押し付けられる。
身体中に走る鈍い痛みのせいで、恥ずかしくて抵抗したくてもできない。
……これは本当。嘘じゃない。須賀千莉は嘘つかない。
「どうしてもっと早く助けを求めてくれなかったんですか? 僕が許可するまで介入してはだめ、と言われていたので、千莉先輩が危ない目に合っていても我慢しましたけど、本当に心配しました」
「ごめんね。何とかなると思って」
「何とかなってませんよ」
「……そうだね」
「死んだらどうするんですか?」
「……ごめん。それからありがとう」
「どういたしまして。……それで、どうするんですか?」
「ん? 何のこと?」
紅羽がさっと視線を後ろに向ける。そこには陽炎のように立っている白瀬の姿があった。
わざわざ紅羽に言われなくても、これがまずい状況だということは分かっている。ただ現実から目を背けたかっただけ。
「……白瀬、体調は大丈夫?」
「……大丈夫じゃない。でも、今は大丈夫。それどころじゃないから」
「いやいや、それどころだよ。早く病院に行かないと」
「……ねえ、千莉」
白瀬が静かに僕の名前を呼んだ。
背筋を汗が垂れていく。
「……はい」
「これは一体どういうこと?」
いまだに僕を抱きしめ続けている紅羽と、甘んじて抱きしめられている僕に厳しい視線を送る白瀬。
白瀬の問いに、僕はこう答えるしかなかった。
「話は後で」




