白瀬朱鷺④
リノリウムの廊下の床を踏み鳴らして、人気のない階段の踊り場までやってくる。僕が足を止めると、ずっと聞こえていたもう一つの足音も止んだ。
「ここまでくれば大丈夫だろ」
僕はコンクリートの壁に背中を預けて、白瀬の方を見た。
「こんな人気のないところに女の子を連れ込んで、一体何をする気?」
感情のこもっていない声で言って、白瀬は自分の身体を抱きしめる仕草をする。
「僕が何も言っていないのについてきた人がそんなこと言うなよ」
「このセリフ、一度言ってみたかった」
他に言いたいセリフがなかったのかと思ったけど、そこをツッコむことは止めておいた。残された昼休みの時間はあまり多くはなく、無駄話をしていられる余裕はない。
「それで、今日はどうしたの?」
「別にどうもしない」
「嘘つけ」
「ついてない」
「それも嘘だ」
「うん、嘘」
元々隠す気がなかったらしく、白瀬はあっさりと認めた。
「そんなに私の態度分かりやすかった?」
「うん。何かあったの、バレバレ」
「そっか……」
白瀬は視線を上履きのつま先に落とした。薄汚れた床では彼女の顔を映し取ってはくれない。
「何があったか聞いてもいいか?」
「……少し長い話になるけど、いい?」
「いいよ。次の授業が始まるまでなら付き合う」
「ひねくれた答え方」
「どうも。……それで?」
僕が促すと、白瀬は話を始めた。
「今日、夢を見た」
「夢?」
これは予想外の発言だった。
「そう、夢。その夢の中で、私は教室にいた。いつも通り私は誰からも相手にされない。話しかけられもしないし、私から話しかけても誰も反応しない。体がぶつかっても何も思われない」
「それは……」
「分かってる。いつものことだってことは。私も慣れているからそんなことは気にしない。でも、その夢の中ではクラスメイトだけでなく、須賀もみんなと同じように、私のことに気づいていなかった。私が話しかけても、触っても、それからくすぐって叩いて蹴って殴って足の小指を思いっきり踏んづけてみても、一切反応してくれなかった」
ボコボコにされたのが夢の中の僕でよかった、と心から思った。
「私は怖かった。私のことに気づいてくれる人がこの世界に一人もいなくなってしまったことが堪らなく怖かった。目が覚めたとき、夢だって分かって心の底からほっとした。でも、不安もあった。もしあの夢が本当のことになったらどうしようって。だから、私は須賀と話したかった。須賀が私の存在を認識しているってことを確かめたかった。でも、何度確かめてもその不安は消えてくれなかった」
「…………」
先ほどとは全く違う意味で、白瀬はまた自分の身体を抱きしめた。その夢のことを思い出しているのか、指先が微かに震えている。
僕は勘違いをしていた。
白瀬は、自分の存在が欠落していることに慣れてしまっていると思っていた。でも、そんなはずがなかった。
誰からも自分の存在を認識されないことが恐ろしくないはずがない。辛くないはずがない。苦しくないはずがない。
僕は白瀬のことを何も知らなくて、今まで一度だって自分から知ろうともしてこなかったのかもしれない。
「ねえ、私は、白瀬朱鷺はどこにいるの?」
俯いたままの白瀬の問いかけに、僕は答える。
「僕の目の前にいるよ」
顔を上げた白瀬が微かに笑う。その笑みがひどく儚げで、僕の胸がずきりと痛む。
「……今は、そうかもしれない。でも、ずっとこのままっていう保証はどこにもない。須賀も、いつか私のことに気付けなくなるかもしれない」
そうかもしれない。
白瀬の胸の内を知る前までの僕なら正直にそう言ったかもしれない。でも、今は違った。
僕は小刻みに震えている白瀬の小さな手を両手で握ると、できるだけ柔らかい声音で言った。
「見つけるよ。白瀬がどこにいても僕が見つける」
自分でも恥ずかしいことを言っていると思う。それに僕が白瀬に優しくしてあげるのはただの偽善だ。
それでも今の白瀬に必要なのは現実や事実ではなく、心の芯を暖めるような優しい言葉なのだ。
「本当に?」
「本当だよ」
「約束?」
「うん、約束」
それは嘘だ。白瀬にとって都合のいい嘘。
僕は初めて家族や自分のためにではなく、誰かのために嘘をついた。いつのまにか僕にとって白瀬は嘘をついてでも優しくしてあげたいと思える相手になっていた。
僕の白い嘘のおかげなのか、白瀬の手の震えが止まった。
白瀬は僕の手をやんわり振り払うと、僕から一歩距離をとる。
「ねえ、千莉」
「何?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
感謝されることは何もしていないのでけど、好意は素直に受け取っておく。
「でも、もし約束守れなかったら、本気で針千本飲ませるから」
白瀬は可愛らしく小首を傾げながら、そんな恐ろしいことを口走った。
「……冗談だよね?」
「さあ」
「…………」
「だめ?」
「いや、だってさ。約束を破ったときに針千本飲ませるって言うけど、そういうのは誇張表現だから、実際にやるものでは……」
「だめ?」
「……白瀬さんのおっしゃられる通りでいいです」
白瀬さん、怖い。
握っていた手を開くと、汗でびっしょりと濡れていた。
僕は早くも自分のため以外に嘘をついたことを後悔し始めていた。




