水島①
目を開けたとき、いつのまにか授業が終わって昼休みになっていた。
びっちりと数式で埋め尽くされた黒板と真っ白なノートを見比べていると、広坂が僕の机にコンビニ弁当を置いた。
「授業終わったのに、まだ勉強やってんの?」
「そう見えるか?」
「違うのか?」
「違うよ」
僕は何も書かれていないノートを広坂の顔に突き付けた。
「うわあ、真っ白だな。俺のよりひどい」
広坂はわざわざ自分の席に戻ってノートを机の中から取り出すと、さっきの授業で書いたページを僕の机に広げた。字が汚すぎて何が書いてあるのか分からない。たぶん眠気に襲われながら黒板の文字を映したのだろう。
「僕のノートも、広坂のノートも大差ないだろ」
「何も書いてないよりは、読めなくても何か書いてある方がマシに決まってる」
「ただの紙の無駄遣いだと思うよ、それ」
「紙の役割は汚されることなんだから、これでいいんだ」
「紙の役割をお前が決めるなよ」
「低レベルな争いだな……」
僕と広坂の会話に口を挟んだのは、水島だった。
背が高く、さらさらとした髪とモデル並みの美形なのに、遠慮のない物言いとアイスピックの先端のように尖った目つきのせいで、あまり人を寄せつけない雰囲気を発している。
余談だけど、広坂はそんな水島のことを密かに、もったいないイケメンと呼んでいる。いつかこのことを水島に伝えるか伝えないかで、広坂のことを揺さぶって反応を楽しんでやろう、と僕は密かに考えている。
さらに余談になってしまうけど、朝のうちに広坂にそれとなく確認したところ、夜の学校で僕と会ったことは綺麗さっぱりと忘れていた。
水島は近くの席から椅子を持ってきて、僕と広坂の中間のところに座った。この三角形の頂点みたいな位置が昼休みのときにおいて、僕たちの定位置となっていた。
「どっちもちゃんとノートぐらいとれ。またテスト前に俺のノートを見せてほしいって泣きついてきても知らないからな」
購買で買ってきたのだろう焼きそばパンを頬張りながら、水島が言った。
「そこをなんとか」
「お願いしますよ」
僕たちは二人そろって手を合わせ、頭を軽く下げた。
「情けないな、お前ら」
馬鹿はくたばれとでも言いたげな眼差しを僕たちに向けているのに、水島の唇の端は愉快そうに持ち上がっている。水島は本心から冷たいことを言っているわけではない。ただ天邪鬼なだけだ。現代風な言葉に言い換えるなら、ツンデレ。
男のツンデレなんて誰に需要があるんだよ、と思いつつ、鞄から弁当を取り出す。広坂が僕の弁当を見て、ふうん、と感心したような声を上げる。
「今日も弁当作ってきたんだ? いつも思うけど、よく朝から弁当なんて作る元気あるよな。俺は絶対無理」
「広坂が言うほど、大した手間じゃないよ。ご飯と安売りしていた冷凍食品と昨日の夕飯のおかずを弁当箱の中に隙間のないようにつめて、余裕があれば卵焼きを作るだけ。十分もかからずに終わる」
「その十分すら、俺には惜しいんだって」
「まあ、広坂ならそうなんだろうな」
「その言い方、なんか暗に俺と自分は別格だって言ってないか?」
「わざわざ言わせるなよ」
「まったくだ。身の程をわきまえろ」
水島はすかさず広坂叩きに便乗する。
「……お前ら、俺を舐めすぎてない?」
「しかし、パッと見てわかる通り合理的な弁当だな」
広坂をいつも通り華麗に無視した水島がぽつりと呟いた。
合理的か。言われて嫌な言葉ではないけど、たぶん褒められているわけではないのだろう。
「これ、もらうから」
「ん?」
僕の了承を得ることなく僕の弁当へのばされた水色の箸に、今日の朝作った卵焼きが一つ奪われる。
僕は卵焼きを奪った犯人、白瀬に恨みのこもった視線を送ったけど、白瀬は素知らぬ顔をしていた。どうやらわずかな罪の意識さえ感じていないらしい。頭のおかしいやつと思われるので、声を出して抗議することができないのが悔しかった。
それはそうと、一体白瀬の中でどういう心境の変化があったのだろうか。今まで学校では僕の周りに誰かがいるときに話しかけてくることは一度もなかったのに。
少し考えてみても、その理由は分からなかった。
広坂が僕の肩を叩く。
「なあ、卵焼きもらっていいか?」
「…………」
お前もかよ。
いやでも、ちょうどいいかもしれない。これで僕が口を開いても不自然じゃなくなる。
僕は白瀬にアイコンタクトを送った。
「どうして、卵焼きを?」
「千莉の弁当の中で、一番おいしそうに見えるからに決まってるだろ」
「なんとなく」
僕の意図が正しく白瀬に伝わったのはいいけど、なんとなくってなんだ、なんとなくって。理不尽にもほどがある。
でも、卵焼きの一つくらいであれこれ言うのも人としての器が小さいようで嫌だ。
「そうかい。好きにしてくれよ」
「え、いいのか? いつもはおかずくれって言ったら断るくせに。まあ、くれるっていうんだから遠慮なくもらうけど」
「もう好きにしてる」
そして、それぞれ勝手に僕の卵焼きを口に運んだ。広坂は一口で、白瀬はゆっくりと三口で。
「甘いな、これ」
「……甘い」
僕は甘党だから、甘い味付けは仕方がない。
「人の食糧を奪っといて文句とはいい身分だな」
「文句なんか言ってねえって。ただ感想言っただけだろ。というか、この卵焼きの味、おばあちゃんのおにぎりを思い出すなあ」
「文句なんて言ってない」
白瀬との会話のつもりだったけど、広坂の発言にちょっと気になることが含まれていた。
「なんで、おばあちゃんのおにぎりを思い出すんだよ。卵焼きとおにぎりとの関係性ほとんどないと思うけど」
「いやあ、昔おばあちゃんの握ってくれたおにぎりの具が甘い卵焼きだったわけで」
「おにぎりの具に卵焼き? ありえないだろ、そんなの。なあ、水島?」
僕の同意を求める声で、パンの袋を小さく折り畳んでいた水島の手が止まった。
「ありえなくはない。コンビニでも普通に売ってる」
「本当か?」
「本当だ。嘘だと思うなら、写真見るか?」
そう言って、ポケットから携帯を取り出す水島。
「なんで、そんなものを携帯で写真撮ってんだよ」
「初めて見たから、つい」
「ついって……」
クールで真面目で常識人のように見えて、水島の頭のネジはやはり少し外れている。いつもそう思っているけど、口に出したことはなかった。言い争いで、水島に勝てる要素が一つもないから。
僕が友人たちと他愛もないやりとりをしていると、
「私を無視しないで」
と、白瀬に頬を軽くつねられる。
「…………」
ああ、もう。
どうすればいいというのだろうか。白瀬の言葉に普通に反応を返してしまったら、周りの人から僕はおかしな人として見られてしまうのに。
でも、無視はできない。いや、できないのではなくてしたくないのだ。
僕は浅くため息をつくと、席を立った。
「ちょっと飲み物を買ってくる」
「ああ、なら俺も行くよ」
「やめとけ」
僕についてくるために席を立ちあがろうとした広坂を、どうゆうわけなのか僕ではなく水島が止めた。
「何で?」
「お前は、お前なんかの指紋が付いた自販機を誰かに使わせる気なのか? その誰かが可哀想だと思わないのか? 最低だな」
「お前が最低だよ」
「大きな声で騒ぐな。大声を出すならせめて、人間の耳には聞こえない周波数にして出せ。それがマナーだ」
「どんなマナーだ」
「お前による、お前のための、お前だけが守るべきマナーだ。後から触る人のことを考えて物には触れない。大声は超音波で出す。家族の精神衛生のために風呂には最後に入る。通報されないために女子には二メートル以上近づかない。俺の視界に入らないように極力努力する等々あり、すべて挙げていたら日が暮れてしまうほどある。……ちゃんと全部守れてるか?」
「……泣いていい、俺?」
「男が泣くな。気色悪い」
「誰のせいだと思ってんだ!」
「大声を開くな。二酸化炭素が増える。そして周りの人に迷惑だ」
有無を言わせぬ水島の一言。
水島の容赦ない言葉の刃に切り裂かれた広坂は、ぐったりとした様子で椅子にもたれかかる。
「……えぇー、さっきまで意味不明かつ理不尽なこと言っていた奴が、急に正論を振りかざすんじゃねぇよ……。なんも言えねぇじゃねぇか」
いや、全くそんなことはないと思うけど。
やれやれと言った感じで肩をすくめている水島が、僕の方に視線を向けて微かに笑った。
その目が早く行け、と言っているような気がして、僕は早足で教室を出た。




