第9話 普通の恋
母さんの残した言葉が、頭から離れなかった。
『二人で、この世界を疑ってください』
帰宅してからも、僕は何度もその言葉を思い出していた。
母さんは、何を疑ってほしかったのだろう。
政府なのか。
今の社会なのか。
それとも――。
「兄貴」
リビングのソファに座っていたつばさが声をかけてきた。
「何?」
「母さんって、昔からあんな感じだった?」
「どんな感じ?」
「何かを隠してるような感じ」
僕は少し考えた。
「……確かに、あったかもしれない」
「やっぱり?」
「研究の話をすると、いつも途中でやめてた」
つばさが黙る。
「俺、母さんと一緒に暮らしてた時間、ほとんどないからさ」
「……うん」
「だから、兄貴が知ってる母さんのことを教えてほしい」
僕は母さんの記憶を思い返した。
研究室。
白い服。
夜遅くまで仕事をしている姿。
そして、僕たちを見る時だけ見せていた笑顔。
「優しい人だったよ」
「知ってる」
「でも……」
「でも?」
「僕たちのことを心配しすぎる人でもあった」
つばさは何も言わなかった。
その日の夜。
僕の端末にメッセージが届いた。
美咲からだった。
【明日、時間ある?】
短い文章だった。
それだけなのに、胸が少しだけ軽くなった。
【あるよ】
送信する。
すぐに返信が来た。
【じゃあ、大学の近くでお昼食べない?】
【うん】
たったそれだけのやり取り。
でも、僕には特別だった。
翌日。
大学の近くの小さな喫茶店で、美咲と向かい合って座った。
「最近、少し変わったね」
美咲が言った。
「僕が?」
「うん」
「どういう意味?」
「前より、ちゃんと自分のことを話すようになった」
僕は苦笑した。
「つばさが帰ってきたからかな」
「弟さん?」
「うん」
「仲良いんだね」
「十九年ぶりだから、まだ変な感じだけど」
美咲が笑う。
「それでも、嬉しい?」
「……うん」
僕は答えた。
「ずっと、いないと思ってたから」
美咲はしばらく僕を見ていた。
「ねえ、つかさ君」
「何?」
「私、ひとつ聞きたいことがある」
「うん」
「今の社会のこと、どう思ってる?」
僕は黙った。
男性が少ない。
男性には多くの期待が集まる。
二十歳になれば、社会のために協力することが当然だと言われる。
年間一億円近い報酬。
生活の保障。
手厚い保護。
誰もが羨ましがる待遇。
だけど――。
「……少し怖い」
初めて、口にした。
「怖い?」
「僕が僕だからじゃなくて、男だから価値があるって言われてるみたいで」
美咲は黙って聞いていた。
「もちろん、社会に必要なことなのは分かってる」
「うん」
「でも……僕自身の気持ちまで決められるのは、嫌なんだ」
美咲は少しだけ笑った。
「じゃあ、私は決めないよ」
「え?」
「つかさ君が何をしたいのか、自分で決めればいいと思う」
胸が熱くなった。
「私はね」
美咲が続ける。
「普通に好きになりたい」
「普通に?」
「一緒にご飯を食べたり、帰り道に話したり、映画を見たり」
美咲は少し照れながら笑った。
「そういうの」
僕は何も言えなかった。
ただ、嬉しかった。
僕を「男性」としてではなく、
一人の人間として見てくれている。
そのことが、嬉しかった。
その頃。
別の場所では、つばさも一人の女性と向かい合っていた。
「それで、本当に十九世紀にいたの?」
高橋ひかりが目を輝かせる。
「本当だって」
「学校に男の子しかいなかった?」
「そう」
「信じられない」
「俺だって最初はそう思った」
ひかりが笑う。
「じゃあ、女性と話すの苦手?」
「むしろ逆」
「どういうこと?」
「ずっと会いたいと思ってたから」
ひかりの顔が少し赤くなる。
「……そういうこと、普通に言うんだ」
「変だった?」
「ちょっとだけ」
二人は笑った。
つばさは、ひかりと話している時間が好きだった。
過去では得られなかったもの。
未来では当たり前になりすぎているもの。
その間にある「普通の恋」。
それが何なのか、少しずつ分かり始めていた。
夕方。
僕とつばさは駅前で合流した。
「兄貴」
「何?」
「好きな人できた?」
突然だった。
「……え?」
「顔に出てる」
「出てない」
「出てるって」
「つばさだって、ひかりさんのこと好きなんだろ」
「まあな」
僕たちは顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
その瞬間だけは、僕たちは普通の十九歳だった。
特殊な遺伝子を持つ男性でもない。
社会から期待される存在でもない。
ただ、好きな人のことを考えている大学生だった。
――その夜。
僕は母さんの残した小さなデータ端末をもう一度開いた。
新しいファイルが一つだけ表示されていた。
【閲覧条件:兄弟二人の同時認証】
「つばさ」
「何?」
「これ……」
二人で端末に手を置く。
認証が始まった。
画面に母さんの名前が表示される。
神谷真紀
そして、その下に一行。
『もし、この記録を見る日が来たのなら――政府の記録だけを信じないでください』
僕とつばさは顔を見合わせた。
画面が暗くなる。
次に表示されたのは、千年前の男性出生数の記録だった。
そこには、僕たちが学校で教えられてきた歴史とは違う数字が並んでいた。
「……これ、何?」
つばさが呟く。
僕にも分からなかった。
ただ一つだけ。
母さんが、何かを隠していたことだけは分かった。
そしてその秘密は――
僕たち兄弟自身に関係している。
そんな気がした。




