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パルミニア王国が「紙幣」という名の、信用を担保にした新たな経済の大動脈を手に入れてから二週間。
王都の市場は、かつてないほどの流動性と利便性に沸き立っていた。重い金貨袋を持ち歩く必要がなくなった商人たちはこぞって【王室紙幣】を歓迎し、国庫には回収された純金がうず高く積まれていく。
だが、国家の財布を預かる財務方のトップ――私、アイリス・フォン・ブライトナーの辞書に「安泰」という二文字は存在しなかった。
「……また、始まったわね」
私は、執務室の窓から見えるどんよりとした曇り空を見上げながら、手元の国際金融レポートをデスクに叩きつけた。
「ええ」
傍らに控えるライナスが、銀縁の眼鏡のブリッジを冷ややかに押し上げ、一糸乱れぬ動作で最新の『国債市場取引記録』を私の前にスライドさせた。
「ここ数日、国際金融市場における我が国の長期王債(国債)の利回りが急騰――つまり、国債価格が暴落しています。それと完全に同期するように、南部国境沿いにおいて、隣国ガルニア帝国が『定期軍事演習』と称し、三万の重装騎士団を展開させ始めました」
「分かりやすすぎる地政学リスクの演出ね」
私はソファーに背を預け、冷え切ったハーブティーを口に含んだ。
「ガルニア帝国が国境で槍をガチャガチャ言わせるだけで、市場の臆病な投資家たちは『パルミニア王国が戦争で滅びるかもしれない』と恐怖し、我が国の国債を売り払う。国債の価格が下がれば、国家の信用格付けは下がり、新たな資金調達のコスト(金利)は跳ね上がる。――典型的な『ソブリン・リスク(国家債務危機)』の誘発作戦だわ」
「しかも、今回の売り浴びせ(ショート)を先導している主要な敵の背後には、やはりガルニア帝国の国営銀行と……そして、大赤字を補填せんとする『ミュラー投資組合』のダミー口座が多数確認されています」
「シャルロッテ……。あの泥棒猫、今回はパルミニアの国家信用そのものを売り崩し(空売り)にきたわけね。私たちがせっかく構築した管理通貨制度の隙を突いて、通貨の裏付けである『国債』の価値を暴落させ、パルミニア経済をデフォルト(債務不履行)に追い込む腹積もりよ」
前世の財務省時代、地政学的な緊張が高まるたびに国債金利や為替が乱高下し、徹夜で市場の監視と国会答弁の想定問答を作らされた悪夢が蘇る。あの時も、実体のない恐怖を煽ってマージンを稼ごうとするハゲタカファンドどもを、どれほど冷酷に書類一枚で規制の網に追い込んできたことか。
「大変だーーー!!! アイリス! ライナス! 大変なことになった!!!」
執務室の重厚な扉がバーンと勢いよく開かれ、このパルミニア王国の第一王子ルディが、まるで破滅の予言でも受けたかのような形相で飛び込んできた。
金髪を振り乱し、豪華なマントを派手に引きずりながら、私のデスクにしがみつく。
「ガルニア帝国が攻めてくる! 三万の軍勢だ。 このままだと戦火に追われ、極貧の亡命王子になってしまう! 今すぐ軍事費を十倍にして、国境すべてのの要塞化と共に、騎士団を配置しよう!」
私はピクリとも動じず、手元の書類を整理しながら冷淡に言い放った。
「殿下。その『騎士団』維持にかかる、総額にして金貨換算で約八百万。月で。そんな莫大な費用――いわゆる【防衛予算】の財源は、一体どこから捻出されるとお考えですか?」
「えっ? ざ、財源……? それはその……王国の金庫から、適当にガサッと……、あの紙幣を刷ればいい」
「我が国の一般会計予算における予備費は、前回の通貨改革と市場防衛戦により、すでに極限まで効率化されています。余剰資金など一銅貨もありません。防衛費を十倍にするということは、すなわち『国民への大規模な大増税(防衛増税)』を行うか、あるいは国家の借金を倍増させるかの二択です」
「うっ……ぞ、増税したら、また民から馬車に石を投げられる……」
「それだけではありません」ライナスが、容赦のない追撃を加えた。「現在、我が国の国債はシャルロッテ令嬢らの策略によってまだまだ混迷中。安泰まで時間を要します。だから、この状況でさらに国債を大量発行すれば、金利は歯止めが効かないほど高騰し、王室は利払いの重圧だけで文字通り『破産』いたします。殿下の安易な作が完成する前に、国が滅びますね」
ルディ王子は「僕の騎士団が……」と、ソファーのクッションに顔を埋めてブツブツと呟き始めた。もはや定期的な様式美である。
「お嬢様、そろそろ時間です」ライナスが懐中時計を確認する。「最高経済会議の緊急招集がかかっています。ミュラー男爵令嬢およびガルニア帝国の使節団が、すでに円卓で手ぐすねを引いてお待ちです」
「いいわ。リスクをレバレッジに使った、古臭いデット・トラップ(債務の罠)。その教科書通りの罠を仕掛けてきた泥棒猫に、国家財政の『本当の防衛戦』を見せてあげる」
私はドレスの襟元を正し、不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。
──
王宮の最高経済会議室。
重厚なマホガニーの円卓の対面には、すでに「勝ち誇ったヒロイン」の笑みを完璧に作り込んだシャルロッテ・フォン・ミュラーと、その傍らで冷徹に眼鏡を光らせる私設秘書ハンス・ケラーが座っていた。
彼らの隣には、ガルニア帝国から派遣されたという、傲慢な態度を隠そうともしない全権大使が並んでいる。
「あら、アイリス様。お揃いでご機嫌よう」
シャルロッテは、可憐なレースの手袋を嵌めた手を口元に当て、わざとらしくため息を吐いた。
「国境沿いの不穏な動き、本当に恐ろしいですわね。我がパルミニアの防衛能力がこれほど脆弱だったなんて、私、夜も眠れませんの。……まぁ、アイリス様は財務の責任者として、さぞかし有効な『財源』をお持ちなのでしょうけれど?」
ハンスが冷酷な口調で書類を広げ、本題を切り出す。
「現在のパルミニア王債の市場価格は、下落率二四%を記録。もはや国際的な信用は皆無です。我がミュラー投資組合、およびガルニア帝国使節団からの『善意の提案』は一つ。パルミニア王国がガルニア帝国国営銀行から、総額五千万マルクに及ぶ『緊急防衛借款(融資)』を受け入れることです」
「緊急借款?」私は片方の眉を上げた。
「ええ」ハンスは不敵に微笑む。「ただし、担保として、パルミニア王国内の主要な『鉱山開発権』および『南部関税特区の徴税権』を五十年間、ガルニア帝国へと譲渡していただきます。これを受け入れれば、ガルニア軍は即座に演習を停止し、王債の価格も安定するでしょう。パルミニアの安全と信用を買い戻す、極めて合理的なポートフォリオです」
これぞ、前世の地球でも発展途上国を大国が経済的に支配する際によく使われた「デット・トラップ(債務の罠)外交」そのものである。軍事的な脅威で相手を脅し、市場をパニックに陥れ、返済不可能な巨額の借金を背負わせて国家の主権を合法的にパクリと平らげる。
シャルロッテは、私が絶望して唇を噛み締めるのを今か今かと待ち望んでいる。彼女の目は「これであなたのキャリア官僚ごっこもおしまいよ」と雄弁に物語っていた。
だが、私の口から出たのは、緊迫した会議室に酷く不釣り合いな、鈴を転がすような笑い声だった。
「ふふ……ふふふふ!」
「……何がおかしいのですか、アイリス様?」シャルロッテが不快そうに眉をひそめる。
「おかしい? ええ、おかしくてお腹が痛いわ、シャルロッテ、そしてハンス・ケラー。あなたたち、現代的な経済の知識を中途半端にかじったせいで、一番重大な『マクロ財政の絶対原則』を見落としているのよ」
私は手にした扇を円卓にトン、と置き、ハンスの目を真っ直ぐに見据えた。
「ハンス・ケラー。あなた、我が国の国債が暴落して『デフォルト(債務不履行)』が起きると脅してきたわね。では質問よ。我がパルミニア王国が発行している【王債】は、一体『何通貨建て』で発行されているかしら?」
「何通貨……? 当然、我が国の法定通貨である【パルミニア・リブラ(新紙幣)】ですが……それが何だと?」
「それが全ての答えよ、愚か者(独学の素人)」
私は冷酷に言い放ち、ライナスに書類の提示を促した。
「自国通貨を発行する権利(通貨発行権)を持つ中央銀行――我が国のパルミニア王立準備銀行を従えた政府はね、理論上、および歴史上、【自国通貨建ての国債でデフォルト(債務不履行)を起こすことは絶対にあり得ない】のよ」
「な……!? 何をバカなことを!」ハンスが色をなして立ち上がった。「国債が暴落し、誰も買わなくなれば、満期が来た国債の償還資金が尽きるはずだ!」
「尽きるわけがないでしょう。資金が足りないなら、我が国の中央銀行が、新紙幣を印刷してその国債を『全額買い取れば(直接引き受け)』いいだけの話よ。ドル建ての借金を抱えた国とは違うの。パルミニアの借金は、すべてパルミニアの紙切れで返せる仕組みになっているのよ。私たちは、いくら国債が売れ残ろうが、一銭たりともデフォルトなんてしないわ!」
「そんな……! そんなことをすれば、通貨供給量が過剰になり、ハイパーインフレが起きる!」
「だからこそ、私たちはそれを『コントロール』するのよ」
私は不敵に微笑み、新たな政策決定書を円卓の真ん中に突きつけた。
「本日付で、パルミニア王立準備銀行は、市場の長期国債金利の上限を『一・五%』に固定すると宣言します。これを超える金利の国債が市場に出回った場合、中央銀行が【無限に、かつ無制限に】その国債を市場価格で買い支える(買いオペレーション)。――現代経済学における禁じ手の一種、指定価格による無制限国債買い入れ(イールドカーブ・コントロール:YCC)の発動よ!」
「む、無制限に買い支える……!?」
ハンスの顔から、一瞬にして余裕が消え失せた。
「そうよ。あなたたちがどれほど必死にガルニアの資金を使って我が国の国債を売り崩そうとも、私たちはそれ以上のスピードで、新紙幣を印刷して国債を全て買い戻す。市場に流通するパルミニア王債は、事実上、我が国の中央銀行が全て回収して、あなたたちの『空売り(ショート)』のポジションを完全に窒息させてあげるわ」
「そんな……そんな無限の資金力に対抗できるわけが……!」
シャルロッテは、目の前のゲームのルールが完全に破壊されたことを悟り、ガタガタと震え始めた。彼女が持ち込んだ「地政学リスクによる市場操作」は、中央銀行が「無限に円を印刷して買い支える」という国家のチート行為の前には、ただの紙屑に等しかったのだ。
「しかし! アイリス令嬢!」ガルニア帝国の使節が、激昂して机を叩いた。「国債を買い支えたところで、国境に展開する我が帝国の三万の重装騎士団が消えるわけではないぞ! 経済で誤魔化そうとも、リアルな軍事圧力を前に、貴国が屈することに変わりはない!」
「あら、その『三万の重装騎士団』のことかしら?」
今度は、私の後ろに控えていたライナスが一歩前に出た。彼は手にした別の調査報告書を、ガルニア使節の目の前にパラパラと落とした。
「ガルニア帝国大使閣下。我が公爵家の財務隠密ネットワークを舐めないでいただきたい。……現在、国境沿いに展開している貴国の重装騎士団ですが、その実態は、相次ぐ外征による極度の財政赤字を隠蔽するため、正規の兵糧すら支給されず、ガルニア帝国の高利国債の利払いのために無理やり駆り出された『ハリボテの幽霊軍隊』ですね?」
「な……なぜそれを!?」使節の目が血走る。
「さらに」ライナスは眼鏡を不気味に光らせ、淡々と告げた。「彼ら三万の軍勢を国境に維持するための戦費は、一日あたり金貨五万枚。現在のガルニア帝国の破綻寸前の国庫では、あと四日間しかあの演習を維持できない計算になります。つまり、本当に『明日のパンの予算』に困って焦っているのは、我がパルミニアではなく、貴国ガルニア帝国の方です」
「ああ……」
使節の口から、情けない絶望の声が漏れた。
「大使閣下。そして、シャルロッテ」私は冷酷な女王のような笑みを浮かべ、彼らを見下ろした。「あと四日もすれば、ガルニアの騎士たちは飢えに耐えかねて勝手に撤退するわ。そうなれば、国際市場はどう判断するかしら? 『パルミニア王国の完全なる地政学的勝利』と判断し、我が国の王債は一転して、過去最高値まで爆発的に暴騰するわ」
私は、ハンスの目の前の書類を指先で弾いた。
「我が国の国債を『暴落する』と信じて大量の空売りポジションを組んでいた、あなたたちの『ミュラー投資組合』。……数日後の爆発的な踏み上げ(価格高騰)によって発生する、天文学的な規模の『強制ロスカット(破産)』の準備は、お済みかしら?」
「ひ、ひぃっ……!」
ハンスはついに理性の限界を迎え、椅子ごと後ろにひっくり返った。シャルロッテは、その愛らしい顔を恐怖で歪め、実の秘書を助けることも忘れて、ガタガタと机の下で縮こまっていた。
国家の財政(マクロ経済)と、地政学の実態を完璧に把握したキャリア官僚の前に、小手先のインサイダー取引しかできないベンチャー気取りの泥棒猫など、最初から勝負にすらなっていなかったのだ。
──
四日後。
ライナスの予測通り、ガルニア帝国の重装騎士団は兵糧切れと本国の財政限界により、一戦も交えることなくソソクサと国境から撤退。
これにより、パルミニア王国のソブリン・リスクは完全に払拭され、国際金融市場におけるパルミニア王債の価格は、歴史上類を見ないレベルで大暴騰した。
シャルロッテの「ミュラー投資組合」は、高騰した国債の買い戻し(損切り)を強制的に執行され、組合の資産の大半を失うという、前代未聞の壊滅的ダメージ(二度目の大爆死)を被ることになった。
「ふぅ……。今回も完璧な予算防衛だったわね、ライナス」
王宮の執務室に戻った私は、極上のソファで、サクサクの特製クロワッサンと贅沢なカフェオレを楽しんでいた。国債の暴騰とYCCの手数料益により、我が財務方の来期の黒字幅は、もはや周辺諸国を圧倒するレベルに達していた。
「お見事の一言に尽きます、アイリスお嬢様。……さて、今回の『防衛戦勝利』を記念して、先ほど閣議決定された、我が国の新たな『国防プロモーション(広報予算)』の成果物が届いております」
ライナスが、まだインクの香りが残る巨大なポスターを室内に広げた。
「……何、これ」
ポスターの中央には、前回の紙幣改革で精神的に去勢されたはずのルディ王子が、なぜか最新の(しかし異様に装飾過多で重そうな)黄金の甲冑を身にまとい、白馬に乗ってキラキラとした笑顔で右手を掲げている姿が描かれていた。
その上部には、太い文字でこう印刷されている。
【来たれ、若人! パルミニア王国財務方公認・王宮衛兵(事務職・定時退庁あり)大募集! 〜僕と一緒に、国家の歳入(予算)を守ろう!〜 モデル:ルディ第一王子】
「殿下があまりにも『騎士団』と叫んでうるさかったため、防衛予算の『広報費(マスコット枠)』として、新規の志願兵募集ポスターのモデルに起用いたしました。これなら、実際に兵器を買うより百分の一の予算で済みます」
「素晴らしいわ、ライナス。これなら国民の愛国心も刺激されるし、何より軍事費の実質的な抑制になるわね」
私が感心していると、部屋の隅のパーテーションの裏から、ジャラジャラと重々しい金属音を立てながら、ルディ王子が涙目で這い出てきた。ポスターと全く同じ、重さ三十キロはありそうな黄金の甲冑を着せられたままである。
「アイリス……ライナス……僕、かっこいいモデルになれたのは嬉しいんだけど……。この甲冑、純金メッキだから凄く重くて、さっきから一歩も歩けないんだ……。それに、甲冑の維持費(磨き賃)が、僕の来期のおやつ予算から全額天引き(相殺)されてるって、本当かい……?」
「当然です、殿下。受益者負担の原則に基づき、ご自身のプロモーション費用はご自身の資産から弁済していただきます。街中には、すでにこの『黄金のルディ』ポスターが数十万枚貼られていますから、その印刷代のツケは、これから数年間にわたって殿下のマカロン予算から自動的に差し引かれますわ」
「数年間マカロンなし!? うわああああん! 僕、第一王子なのに! ただの、ただの動く看板(広告塔)じゃないかぁぁぁ!!!」
黄金の甲冑をガチャガチャと言わせながら、床に突っ伏して号泣するルディ王子。
その姿を見下ろしながら、私は優雅にカフェオレを飲み干した。
「さて、ライナス。シャルロッテたちは今回の中央銀行によるYCCと、ソブリン危機の大失敗で、いよいよ本格的な破産(法的整理)の危機に瀕しているはずよ。あの泥棒猫のことだから、次はなりふり構わず、王国内の商業ギルドを巻き込んだ『全面的なストライキ(経済サボタージュ)』か、あるいは我が公爵家の『信用格付け』そのものを引き下げにくる監査テロを仕掛けてくるかもしれないわ」
「ええ、どのような手段で来ようとも、我が財務方の冷徹な監査が、彼女たちの裏台帳をすべて暴いて差し上げましょう」
銀縁眼鏡の優秀な事務次官が、眼鏡の奥で悪魔のような冷たい光を放つ。
パルミニア王国の国庫と経済の平穏を守るため、前世から継承した執念に燃える令嬢の戦いは、まだまだ終わらない。




