第9話 あぁもう
存在しないはずの仮想空間に飛びこみ、夜通し獏と戦った挙句、身元不明の男とこれまた身元不明の機械人形を拾った場合どうなるか。
答えは始末書の山、山、山だ。
「あーもー無理! 終わんない!」
保護機関三階の片隅、一三七室の応接スペースで、ひなはとうとうペンを放り出した。五つ並んだデスクは閑散としているのに、よりにもよって副室長様の席だけは埋まっている。案の定、瑞希がパソコン越しに冷ややかな視線を投げつけてきた。
「自業自得ね」
「……へえ?」ひなは瑞希をにらみつけた。「さすがあたしたちの副室長。誰かの命を助けることを自業自得とか。趣味が悪すぎて、あたしにはぜんぜん理解できな、むぐ」
後ろから伸びてきた手がひなの口をふさいだ。あぁもう。
ひながじろりと見上げた先、ゼンが呆れ顔でカラーレンズのサングラスをはずす。デニムにショート丈の黒のジャケット。その腕には何やら甘い香りの漂う紙袋。完全に休日のデートといった様子だけれど、まだ平日の金曜日だし、今まさに出勤したてのはずだ。
「喧嘩してる暇があるなら手を動かしなよ、ひなちゃん」
「お言葉ですけど、なんであたしが始末書をつくらなきゃいけないわけ?」
「インジュちゃんからの依頼を受けたのは君だから」
「あぁごめん、分かりやすく言いなおすわね? インジュたちの救出はあたしたちの任務だったのに、どうしてあたしだけが始末書を書かなきゃいけないのかって聞いてるの」
ゼンがにこりと笑った。ファッション雑誌の初夏号をかざれるくらい爽やかな笑みだ。
「みんながめんどくさいと思ってるから」
もう、もう、もう!
「ほんとに最っ悪!」ひなはゼンの右手を雑巾よろしく投げ捨てた。「正直に言えばいいってもんじゃないでしょ! てか、いい大人がめんどくさいってなに!?」
「あはは、ひなちゃんは真面目だな~」
「あたしが真面目なんじゃない! あんたが不真面目なんでしょ! というか出社時間が今ってなに!? もう三時なんですけど!?」
「駅前に生ドーナツ屋さんが出来ててさぁ。ついでにアイスコーヒーも買ったんだけど美味しくて……」
「ドーナツの感想なんて聞いてない!!」
向かいのソファからため息が聞こえた。インジュだ。ランドセルの代わりに、肩からストラップで小型のラジオを提げている。
天海宗歩の任務から三日が経ち、彼女は正式に国際データ保護機関に保護された。それではスタラク社は? 仮想空間への不正接続、データ改ざん、それどころか経理不正がどうとかで警察による捜査中だ。
ちなみに警察への通報はちょうど三日前だったらしい。偶然にも一三七室が通報したらしい。なんでも副室長自ら証拠をそろえ、しかるべき部署に通報したらしい。
……まぁ一応、支援してくれたってことなんだろう。
でもあたしだけが始末書を書くのはおかしいと思うんですけど。
「ひなさま、書き終わりましたよ」
インジュに書類の束を押しつけられ、ひなは我に返った。名前や型番の基本情報から、保護機関のよくわからないルールに関する誓約書へのサインまで。漏れなく記入されていることを確認して、ひなは頷く。
「うん、オッケー。あとは、これを十階の事務部に持っていけばIDカードが発行されるから」
「それは構いませんが、いつもこうなんですか?」
「ごめんね。データ保護機関とかいうくせに、アナログな紙の申請書ばっかりで……」
「違います。一三七室はいつも怠惰で騒がしいのですか?」インジュはぐるりと空っぽのデスクを見まわし腕を組む。「もしかして、ここって日陰部署?」
「あ、はは……」
「ひなさま、笑えばいいというものでもないですよ」
インジュがまるで子供らしくない顔をして苦言を述べる。ちょうどそのとき、彼女が肩から提げたラジオの電源が点いた。キーンという耳に痛いノイズ音、インジュの嫌そうな顔、それから天海宗歩の快活な笑い声が響く。
『へいへいへい、元気にしてるかい、現実世界の嬢ちゃんたち! お前ェらの心のヒーロー、不敗の帝王・天海宗歩サマのありがたいお言葉の時間だぜい!』
「……宗歩さま、うるさいです……」
『なんでえなんでえ、元気がねェぞインジュ! 子どもは早寝早起きラジオ体操、それから外で遊ぶのが仕事ってなァ、ガハハ! ところで、俺がいつここから出られるかって話、』
インジュがラジオのスイッチをぶつんと切った。ひなと目があうなり、彼女は早口に言う。
「宗歩さまの話は聞かなくてけっこうです。文字通り身のない話ですし、インジュのことはいつも子ども扱いしますし」
「ええと……でも何か言いたそうだったけど」
「この仮想空間から出たいっていう話ですよ。まったくそれで御自分の体に戻って頂ければけっこうですが、宗歩さまは他の仮想空間に遊びにいきたいってだけなんですから」ぶつぶつと文句を言って、インジュはラジオをぎゅっと抱えた。「とにかく、宗歩さまはこのラジオに閉じこめて、インジュが責任をもって保護しておきますので、ご安心ください」
うーん、それは保護じゃなくて監禁では?
ひなの心の声は届かず、インジュはさっさと一三七室を出ていこうとする。事務部に行くつもりなんだろうけど、書類を持ってるのはあたしだ。ひなはため息をついた。まったく。
「こういうところが子どもなんだよね」
デスクで傍観を決めこんでいたゼンが、アイスコーヒー片手に感想を述べる。ひなは顔をしかめた。
「それ、インジュには言わないほうがいいわよ。あとあんたも大概だし、三時出勤のことも、始末書のことも、まだ話は終わってないからね」
「ええ、怖いなぁ。俺ってば、ひなセンパイのお説教を受けちゃうわけ?」
「先輩はあんたでしょーが。とにかくここで待ってて。これだけ出してくるから」
足早にゼンの横を通り抜けようとしたところで、書類の上に小さなメモを置かれた。もちろんゼンからだ。生ドーナツのレシートの裏に走り書き。『ドーナツ、家の冷蔵庫に君の分も置いといたから』
あぁもう。
顔がゆるんだのは甘いドーナツのおかげであって、ちょっとしたメモ書きのせいじゃないし、最近すこしだけ素直になった繊月ゼンの態度のせいでもない。断じて、決して。
でもまぁ帰ったら、ドーナツを半分に分けてふたりで食べるのも悪くはないのかも。
レシートをそっと胸ポケットへしまい、ひなは軽い足取りで歩き出した。
*****
スタラク社、潰れてしまいそうだけどいいの。そんなふうに声をかけられて、私は渋々まぶたを上げた。
上下左右どこも真っ暗な世界だ。底が知れない、どこまでも落ちていきそうな黒。相手の姿は見えない。どうせまた一方的にここへ接続しているのだろう。あくびをし、鬱陶しい長髪をぐしゃりと掻いて適当な方向へ返事をする。
「うるさい」
「ま、愛想がないわね。あなた、見た目だけなら可愛い女の子なのに」
「眠いんだ。放っておいてくれ」
「そうもいかないわよ。仮にもあなたの会社でしょ? 潰しちゃっていいの。今なら助けてあげられるけど」
「必要なくなった」
「遊び相手ができなかったから?」
「そうだ」
「もう少し我慢するという手もあると思うけどね。機械人形は学習して成長するんだから」
「我慢した。でも駄目だった」
「あなたの大事な弟子みたいにはならなかった?」
暗闇をにらみつけた。まったく、この男のこういうところが嫌いだ。私の過去を知りすぎるほどに知っている。案の定、男の笑い声がした。丁寧で品のある、けれど確実に自分以外の全員を馬鹿にしている声音だ。
「嫌なら、その仮想空間から出ていってもいいのよ? リュウセツ」
「馬鹿言え。出ていくのはお前のほうだ、御剣月」
仕方ないわねぇ、と言わんばかりのため息が降ってくる。わざとらしい。お前は私の家族でもなんでもないというのに。面倒だ。面倒、面倒、面倒。出ていってやろうか、こんなところ。
けれどそんなふうに思ったところで、私が出ていかないということを、御剣月は確信している。一番腹が立つのはそこだ。
「じゃあね。次はお祭りのときに声をかけにくるわ」
「いらない。帰れ」
返事はなかった。接続を切ったのだろう。真っ暗な世界に静寂が訪れて、私は再び目を閉じる。
海辺の町と悪餓鬼のまっすぐな眼差し。その記憶に紐づいた郷愁が追いつく前に、リュウセツは夢のない眠りに落ちた。




