第9話 機動聖域
見えざる巨人の手が、全身を押し潰すような圧。
「ぐぅ、うぅぅぅッ……!!」
私は寝台の柱にしがみつき、歯を食いしばる。
視界が歪む。
三半規管が悲鳴を上げている。
無理もない。
本来、不動であるはずの建築物――私の寝室が、音速に近い速度で空を飛んでいるのだから。
「術式維持! 座標固定、強制継続ッ!」
私は叫ぶ。
鼻から温かいものが垂れてきた。
鼻血だ。
魔力回路が焼き切れそうだ。
でも、止まらない。
幻影板には、雪原で血に沈むジークフリート様の姿が映っている。
待ってて。
今行く。
私の平穏を守るために。
私の大切な人を、理不尽な死から引き剥がすために!
「届けぇぇぇぇぇッ!!」
◇
戦場では、勝利を確信した敵将グスタフが、部下に止めを刺すよう命じていた。
『死ね、辺境伯!』
敵兵が槍を振り上げる。
その時だ。
ゴォォォォォォォォォッ!!!!
天から、轟音が降り注いだ。
『な、なんだ!?』
敵兵が空を見上げる。
彼らの目に映ったのは、隕石ではない。
それは、豪奢な天蓋付きベッドと、アンティークな椅子、そして優雅なティーセットが載ったテーブルが置かれた――「部屋」だった。
六畳一間の空間が、壁も天井もないまま、見えない結界に守られて落下してくる。
『へ、部屋……!?』
『城が降ってくるぞぉぉぉッ!?』
パニックになる敵兵たち。
私は、眼下の「封魔の檻(紫色の結界)」を睨みつける。
あれが魔法を無効化するなら、魔法じゃなければいい。
これは、ただの質量攻撃だ。
「どきなさいッ!!」
ズドォォォォォォォォンッ!!!!
激突。
私の「聖域」の床底が、敵の結界発生装置(古代遺物)を直撃した。
数トンの質量と、落下エネルギー。
そして「絶対拒絶」の概念強度。
いかに古代の遺物といえど、物理的な圧壊には耐えられない。
バキンッ!
小気味よい音がして、紫色の結界が砕け散った。
衝撃波が周囲の敵兵を吹き飛ばす。
雪煙が舞い上がる。
私は、着地の衝撃を「聖域」内の環境固定術式で殺し、ジークフリート様のすぐ横に「部屋」を着底させた。
「――っ、はぁ、はぁ……!」
静寂。
舞い散る雪の中、私の部屋だけが異質な空間として鎮座している。
私は震える足で立ち上がり、透明な壁の境界線へ走った。
目の前に、彼が倒れている。
結界は消えた。
でも、まだ私の「聖域」の外だ。
彼を中に入れるには、私が許可を出さなければならない。
でも、どうやって?
聖域の定義は「私だけの空間」。
他者を入れれば、概念がブレて強度が落ちるかもしれない。
ええい、ままよ!
私は術式入力盤を叩き割る勢いで操作した。
「概念定義、変更!」
『対象:ジークフリート・フォン・オルデン』。
『分類:配偶者』――削除。
『分類:同居人』――削除。
違う。
もっと、この部屋にあって自然なもの。
私の所有物であり、私の生活の一部であり、なくてはならないもの。
「分類――『私の最愛の家具』!!」
強引な理屈。
でも、術式が通った。
『承認』。
聖域の境界線が、ぐにゃりと歪む。
私は透明な壁から手を伸ばし、倒れている彼の腕を掴んだ。
重い。
鎧と筋肉の塊だ。
でも、火事場の馬鹿力というやつか、私は彼をズルズルと引きずり込んだ。
「……だ、旦那様! しっかりして!」
彼の体は氷のように冷たかった。
脇腹からの出血が酷い。
私は自分のドレスを引き裂き、傷口を圧迫する。
「……ア、リア……?」
彼が薄く目を開けた。
焦点が合っていない。
「ここは……天国、か……?」
「いいえ。私の寝室です」
私は泣き笑いのような顔で答える。
「貴方がくれた、私の城ですよ」
「……そうか。君の部屋に、入れたのか……」
彼は血の泡を吐きながら、微かに笑った。
「ずっと……入りたかったんだ……」
「馬鹿……!」
涙が溢れて止まらない。
その時。
「き、貴様ぁぁぁッ!!」
怒号。
雪煙の向こうから、敵将グスタフがよろめきながら現れた。
古代遺物を破壊された衝撃で、彼も満身創痍だ。
だが、その目には狂気が宿っている。
「我が切り札を……! よくも、魔女めッ!」
グスタフが剣を抜き、こちらへ走ってくる。
「殺す! その結界ごと、貴様を切り刻んでやる!!」
殺気。
でも、私は動じなかった。
ジークフリート様の頭を膝に乗せ、傷口を押さえたまま、私は冷ややかに敵将を見上げた。
「……うるさい」
私は呟く。
ここは私の部屋だ。
私のプライベートスペースだ。
招かれざる客が、土足で騒いでいい場所じゃない。
「入室手続き(アポイントメント)は取ったの?」
私が睨みつけると、聖域の透明な壁が「拒絶」の光を放った。
バヂィッ!!
グスタフの剣が、見えない壁に弾かれる。
「なっ……魔法無効化は解けたはず……!?」
「これは魔法じゃないわ。私の『引きこもる意志』よ」
私は鼻血を袖で拭い、宣言する。
「ここは私の世界。貴方ごときが、指一本触れられると思って?」
圧倒的な概念強度。
世界そのものを拒絶する、最強の排他性。
グスタフが次々と剣を叩きつけるが、壁は揺らぎもしない。
逆に、反射された衝撃でグスタフの剣が折れた。
「ひ、ひぃ……ッ!?」
武器を失い、後ずさる敵将。
そこへ。
「閣下! 奥方様ッ!!」
遠くから、我が軍の騎兵隊が駆けつけてくるのが見えた。
空飛ぶ寝室を目印に、散り散りになっていた味方が集結してきたのだ。
「……援軍が来ましたよ。グスタフ将軍」
私は冷酷に告げる。
「不法侵入罪で、逮捕の時間です」
「あ、ああぁぁ……!」
グスタフが腰を抜かす。
それを見届けて、私の糸が切れた。
ガクン、と視界が落ちる。
魔力の使いすぎだ。
意識が遠のく。
「……アリア!」
ジークフリート様の呼ぶ声が聞こえる。
安心して。
ここは安全だから。
もう、誰も貴方を傷つけないから。
私は彼の胸に倒れ込み、泥のような眠りへと落ちていった。




