第十八話
「見えてきたな」
それから三時間ほどかけて空を飛び、やがて巨大な樹が近づいてくる。 空中に浮かぶ島にその根を張り、そこから地上へかけて更に根が降りており、最早一つの巨大な砦のような風貌をしている樹、天空樹ラピュエルだ。
「へえ、間近で見ると確かにこりゃ凄いね」
「……驚きました。 こんなところが、この世界にあるなんて」
まさに、神秘的という言葉がぴったり収まるその光景は、神の名を持つ神人族にこそ相応しい国である。 そしてその頂上は見上げても霞んでおり、雲がない今でも見えないほどだ。
「んじゃんじゃ、ワタシはここらで一旦離れるよ。 というわけでパス」
「へ? ひ、きゃぁああああ!!」
ラックランスは言い、ヴァルヴァードの上へ回り込むと、その場でくるりと回転する。 重力に則り、リーンの体は下へ落ち、そのままヴァルヴァードの背中へと命中した。 これ自体、ラックランスの細やかな仕返しであったものの、ヴァルヴァードにとっては想定外のことであった。
「くっ……貴様、最早許しはしないからな……ん?」
「ありゃ?」
「ねぇ、なんか落ち始めてない?」
ヴァルヴァードが怒りを露わにしながら異変を感じ、ラックランスが宙で腕組みをしながらそんな声を出し、カノが的確なツッコミを入れる。 そしてリーンはというと。
「わたしは太ってない……わたしは太ってない……わたしは太ってない……わたしは太ってない……」
うわ言のように呟くのだった。 結果、ヴァルヴァードは二人分の重さに耐えられず、その羽を先ほどよりも早く動かそうとする、が。
「ラックランス! 一人取れ! 翼が動かせない!!」
「えぇ、どーしよっかなぁー? うひひ、ラックランス様の下僕になりますって宣言したら考えようかなぁー?」
ケタケタと笑い、ラックランスはからかうようにヴァルヴァードの口元に足を伸ばす。 その瞬間、ヴァルヴァードの体温は上昇し、カノやリーンですら感じることができるほどに変化していた。 それを受け、二人は一緒に「これは終わった」と思い、結果は見事に的中する。
「貴様が舐めろ、ラックランス。 その無様で太く醜くまるで豚の足のようなゴミをこの私が舐めるわけがないだろう。 変わりに一人受け取れば私の足を舐めさせてやると言っているのだ、私の白く、細く、美しく、さらさらな足を舐めさせてやるのだ。 早くしろ、下僕」
「うっはっは! やーだよーだ! どれどれ、そんな強情で素直じゃないヴァルちゃんにはお仕置きしちゃうゾっ!」
「な……おい、馬鹿待て! やめろラックランひゅ!」
ラックランスはヴァルヴァードの首に触れる。 そして、くすぐり始めた。 同時、耳元に息を吹きかける。
「や、やめひぇ! だ、だめだっ! らっくらんひゅ、それは……んぁ!」
艶めかしい声を出し、ヴァルヴァードは顔を真っ赤に染める。 長い付き合いということもあり、ラックランスはヴァルヴァードの弱点を心得ている。 耳と首、更に腹部に足の裏、脇から脇腹、手の平にも及ぶ弱点である。 ヴァルヴァードはその硬い口調や性格とは裏腹に、敏感な体をしていた。
「ら、らめぇ……!」
ヴァルヴァードは最後に息を吐き出し、その翼の動きが停止する。 背中に乗っているカノとリーンは既に諦め、カノはヴァルヴァードの反応を楽しんでおり、リーンは一人、死を覚悟していた。 動きが止まれば、後は自然現象に成されるがままである。 現在の高度、ラピュエルの空中島から約1000メートル、二人はせめてもの抵抗でヴァルヴァードの体を掴む。 ヴァルヴァードはヴァルヴァードで、先ほどまでの感覚から立ち直れず、荒い息で体を丸めている。
「し、しぬしぬしぬしんじゃいますぅうううううううっ!! か、かのぉ! 何か良い案を出してくださぁあああいいいいいい!!」
「俺に一つ案がある」
必死に叫ぶリーン、対するカノは冷静だ。 彼は彼なりに、この高さから落ちても助かる策があると言う。 ヴァルヴァードは未だに立ち直れていない。 地上まで残り、800メートル。
「な、なななななんですかそれはっ!! は、はやくはやくはやくぅ!! わたしこんなとこで死にたくないッ!!」
「良いか? まず、俺とリラの体勢はこのままだ。 で、俺たちの下にはヴァルヴァードが居る。 考えて見ろ、こいつの肌はとても柔らかい、もち肌ってやつだね。 んで、そのもち肌を利用して地面への衝撃を逃がすんだ。 つまりこいつが先に地面に激突して、上手い具合にぽよーんと跳ね返るでしょ? そうすればほら、そのままぽよよーんてなって俺たちは無事に生還できるってわけ」
カノはそんな案を大真面目に提唱する。 地上まで残り、五百メートル。
「どこのギャグ漫画ですかそれ!? そんな上手くぽよんぽよんと跳ね返るわけないですよ!?」
「まぁ確かにどっちかって言うとリラ向けだったよね、これ」
「わたしでもそんなぽよぽよ跳ね返りませんっ!! もっとマシなのないんですかっ!?」
ヴァルヴァードはようやく正気を取り戻す。 が、先ほどの余韻がまだ残っており、翼を動かすことは叶わない。 地上まで残り、二百メートル。
「あると言えば、ある。 俺が今ここで、リラのことをボコボコ殴るよね? そうすれば俺のレベルが上がって、この高度からのダメージにも耐えられるかも。 ほら、ハッピーエンド」
「一人だけバッドエンドが居ますからっ!! わたし絶対に死ぬじゃないですかそれっ!? 絶対に嫌です!! 何が楽しくて落ちながらボコボコにされなきゃいけないんですかっ!!」
リーンの言葉を聞き、我侭だなぁとカノは思う。 地上まで残り、百メートル。
「なら仕方ない。 それに今のは全部可能性の話で、俺はそんなの選びたくはないしね。 百パーセントの方法で行こう」
言うと、カノはヴァルヴァードの耳元に口を近づける。 地上まで残り、五十メートル。
「信――――――る――ぞ」
「ッ!!」
カノが何事かを言ったその瞬間、ヴァルヴァードの翼は一気に広がった。 そして力強く、その翼をはためかす。 たった一度の羽ばたきで、その落下はピタリと停止した。 地上まで残りゼロメートル、着地したそこは、ラピュエルの樹、神人族本国の入り口だ。
「お、おお……し、死ぬかと……わたし、死ぬかと……」
ヴァルヴァードの背中から降りたリーンは、その場で腰が砕けたかのように座り込む。 動くのには少し時間が掛かりそうである。
「貴様……殺されたいのか」
静かな声、だが確かな殺気が込められた声が聞こえてくる。 リーンがその声の方へと顔を向けると、そこにはカノに剣を向けるヴァルヴァードの姿だ。 その瞳には、怒りがハッキリと見えている。 一体カノが何を言ったのか、リーンはその言葉が「挑発」のものかと予想をする。
「なんでさ。 俺はただ事実を告げただけだよ。 それで怒るってのは、君がそう思ってるからだろ? ヴァルヴァード」
「そうか」
直後、ヴァルヴァードの右腕が消える。 否、消えたように見えた。 実際に起こったのは、ヴァルヴァードが目で追えない速度で剣を振るったということ。 そして、その対象はカノだ。
気付けば、ヴァルヴァードの剣はカノの顔の横、数ミリの部分に存在した。 風圧か、それとも実際に当たったのかは分からない。 だが、カノの頬は少しだけ切られ、そこからは少量の血が流れている。 残像すらなく、まるで瞬間移動をしたかのような剣技、リーンはそれを見て、ハッキリと認識する。 自分たちが戦おうと、勝とうとしている相手はとんでもない化け物だと。
「私は忠誠を誓っている。 他でもない、ヴァルキューレ様にだ。 貴様が言うようなことはない、絶対に」
凛々しく、静かに、冷たくもあり熱くもあり、かつ激しく、ヴァルヴァードはカノに告げる。 それは恐らく、先ほどのカノの言葉に対する返答だ。
「面白い話だね。 同じ種族なのに、上下関係だなんて」
「より優れた者が上に行くだけだ。 貴様とてそうだろう? そこの女よりも上の立場だろう」
ヴァルヴァードは言うと、リーンの方へ一瞬視線を移す。 しかし、カノはそれに対し笑みを顔に張り付けたままで答えた。
「リラのこと? あはは、何を勘違いしているのか知らないけど、リラは俺の仲間だよ。 手下とか臣下じゃあないんだな、これが。 名目上はそうかもしれないけど、俺はリラには命令なんてことはしないね」
「……仲間? ふは、ふはははッ! 貴様らの種族はやはりその程度だ。 ゴミの群れだ。 その程度の者を仲間と迎えるお前の器も知れたな、カノ」
「そう思うなら試せば良い、君が無能だと言い切る俺の仲間をね。 俺の仲間が神人族より無能なわけはないからさ」
リーンはそのとき、その期待に答えられるかどうかが不安になっていた。 自分で本当に大丈夫なのか、カノが言い切るほど、自分は優れた人間なのだろうか、と。 当然の話、リーンはつい先日までただの寂れた喫茶店を経営していただけに過ぎない、その辺りの者と変わらないヒューマンだ。 なんの取り柄もなく、なんの特徴もなく、頭が優れて良いわけでもなく、秀でているわけでもないただのヒューマンだ。 この場、神人族の本国、ラピュエルでの自分は酷く小さく、踏み潰されかねない位置に常に居ると言っても良い。
だが、この場ではカノが味方だ。 今のリーンに必要だった言葉、想いは、一人ではないと思わせること。 仲間が居ると、思わせること。 とどのつまり、今この瞬間にカノが言い放った言葉は、リーンという一人のヒューマンを奮い立たせるには、充分なものだったということだ。
「あらあら、騒がしいと思えば」
「ッ! ヴァルキューレ様、ただ今帰還致しました」
ヴァルヴァードは、ラピュエルの入り口、ヒューマンとは違ってただそこにあるだけの門の中心に立つヴァルキューレに気付くと、すぐさま片膝を着く。 このラピュエルは、まるで防衛など頭にないかのように開けている。 それは同時に、いつ何時襲撃を受けても問題がないということを表していた。
そんなラピュエルに住む最上位、神人族を取り纏める存在であるヴァルキューレは微笑むと、ヴァルヴァードへに近づき、その頭に手を添えた。
「ご苦労様です。 仕事が早く、もっとも優秀な戦乙女よ」
「勿体なきお言葉、痛み入ります」
ヴァルヴァードは表情こそ変わらないが、内心はカノに対し「見てみろ」と言わんばかりの優越感に浸っていた。 功をなせば評価をして頂ける、結果を出せば褒めて頂ける、そして。
成すべきことを成せば、信頼をして頂ける。 カノに先ほど「信頼を裏切ることになるぞ」と言われたヴァルヴァードは、心の中で強くそう思った。 そして、自分とヴァルキューレの長きに渡る信頼関係が、たかが宙から落下した程度のことで崩れることはないと、そう強く思ったのだった。