墓守の三百年
ブラヒム・ディアスは、三百年前、王都ではそれなりに名の通ったB級冒険者だった。
英雄と呼べるような存在ではないし、伝説に残るような怪物退治をしたわけでもない。王都の広場で子どもに指をさされるような華やかさもない。だが、地に足のついた冒険者としては、かなり優秀だった。
無茶はしないが、クエスト達成率は高いので稼ぎは堅実、かつ依頼人との揉め事も少なかった。その結果、パーティの運営も安定して、さらに良質な依頼人が付くという好循環だった。
若い頃は低級魔物の討伐と護衛任務ばかりだったが、三十を過ぎる頃には討伐と探索の両方で名前が売れ、四十手前には「次はA級も見えてくる」と周囲に言われるようになっていた。
自分はもう若くはない
だが、ようやく人生が形になってきた
この先はもっといい方へ進む
ブラヒムはそう確信していたし、何より、その頃の彼には若い妻がいた。
笑うと頬にえくぼの出る、明るい女だった。気立てがよく、少し贅沢好きで、でもそれすら可愛く思えるくらい、当時のブラヒムは満たされていた。来月には子どもも生まれる予定だった。
男か女かは、最後まで聞かないことにしていた。無事に生まれてくれれば、どちらでもよかったからだ。
「順風満帆」
あの頃の自分を言葉にするなら、まさにそれだったと、ブラヒムは今でも思う。
だから、あの日も疑わなかった。パーティメンバーから、王都郊外の訓練場へ来いと言われた時、彼はいつもの演習だと思った。模擬戦か、次のクエストに向けた連携確認か、あるいは新しく受けるクエストに備えたミーティングか、そのいずれかだろうと。
何より相棒からの呼び出しだったことも安心材料だった。その男とブラヒムとは20代の頃からの長い付き合いだった。剣を交えた回数も、酒を酌み交わした回数も、背中を預け合った回数も、一人だけ抜けて多い。もしパーティの中で、最後まで自分を信じてくれる人間がいるとすれば、そいつだと思っていた。
だから、訓練場へついて仲間にすぐ後ろから腕をねじ上げられた時、何が起きたのかわからなかった。
「……何だ、これ」
笑いながら言ったつもりだった。誰かの悪ふざけだと思ったからだ。
だが次の瞬間、膝裏を蹴られて地面へ落とされた。
砂利の感触を顔に感じる間もなく、背中へ誰かの体重が乗り、手首に縄が食い込む。
「待て、何を――」
言い終わる前に、仲間に顔を蹴られ、視界が白く弾けた。ブラヒムはそこで初めて、これは冗談ではないと理解した。だが理解したところで、状況の意味はわからない。
「お前の妻から告発があった」
誰かが言った。
「毎日ひどい虐待をしていたそうだ」
「最低の野郎だな」
「仲間を騙してたのか」
口々に声が飛んでくる。
ブラヒムは痛みより先に、意味のわからなさに呆然とした。
「は?」
間抜けな声しか出なかった。
「何を、、、言ってる。そんなこと、、、してない」
「黙れ!」
今度は腹を蹴られ、息が詰まる。
「奥さんが泣きながら訴えてきたんだぞ!」
「お前を信じてたのに!」
「これはパーティへの裏切りだ!」
その言葉の羅列は、今でも少し思い出せる。怒りと軽蔑と、何より歪んだ正義感が一身にぶつけられた。自分たちは正しいことをしているという確信さえ混ざった声だった。
そして、いちばん凄惨だったのは、驚いたことに相棒の男だった。
最初に顔を蹴ったのも、最後まで手を止めなかったのも、たぶん、あいつだった。
「説明させてくれ」
そう何度も言った気がする。違う、待て、何かの間違いだ、とも言ったが誰も聞かない。聞かないどころか、否定するたびに殴られた。
「まだ嘘をつくのか!」
「奥さんがどれだけ怯えていたと思ってる!」
「最低だな、お前は!」
正義の顔をした暴力の嵐だった。だから余計に救いがなかった。憎しみで殴ってくるならまだわかるが、彼らは自分たちが正しいと信じきっていた。自分たちは裏切り者を裁いているのだ、正義なのだと本気で思っていた。
ブラヒムが悲しかったのは、相棒の拳がいちばん重かったことだ。剣よりも重く、骨へ響く殴り方を知っている男だった。それだけ長く、自分と戦ってきた男だから。
翌朝、ブラヒムは死んだ。死んだ、と自分で理解できる瞬間があったわけではない。
ただ、痛みが遠ざかり、音が消え、暗くなった。それで終わりだった。
遺体は野晒しにされた。せめて埋めるくらいはしてくれてもいいだろうと、今なら思う。
だが当時の彼らにとって、自分は仲間ではなく、妻を虐待し続けた下劣な男だったのだろう。
怒りより先に、寒さだけが残った。
そして、その寒さの底で、ブラヒムは目を開けた。
呼吸はない
心臓も動いていない
血の巡る感覚もない
それでも見える
それでも動ける
最初にわかったのは、自分の中に、ひどく大きな無念があることだった。腹の底ではなく、骨の髄でもなく、もっと魂の芯のようなところに、どうしようもない何かがこびりついている。それが彼を屍肉兵として立ち上がらせた。
ブラヒムは、しばらく身を隠して考えた。
自分が何になったのかもよくわからない
だが一つだけ、やるべきことがあった
真相を知ることだ
パーティの本拠地へ戻れば、何かがわかるかもしれない
そして本拠地に潜入した彼は、あっさりと真相に辿り着いてしまった。あっさりしすぎていて、今でも信じられないほどだ。
妻と相棒が不倫していたのだ。扉の隙間から見える二人は幸せそうだった。
そして、笑いながら、ブラヒムが死んだあの夜の話をしていた。
ブラヒムと妻の髪は茶色だったが、相棒の髪は金髪だった。生まれてくる子どもが金髪だった場合、疑いはどうしても相棒に向く。だから、先に潰した。そういうことだった。
妻が泣きながら告発してパーティメンバーを騙したのも、相棒が先頭に立って殴ったのも、全部、自分を消すためだった。
そこまで聞いて、ブラヒムは自分でも驚くほど大きな声で絶叫した。悲鳴に近かったと思う。絶叫の中で音が聞こえた。怒りで何かが切れるというより、世界が壊れる音だった。
そのあと、何人殺したのかはよく覚えていない。
妻を腹の中の赤子ごと殺した、相棒を殺した、本拠地にいたパーティメンバーを全員殺した
駆けつけた憲兵も殺した
悲鳴も、血も、骨の感触も、全部ぐちゃぐちゃに混ざった
その時の自分は、まだ強かった。屍肉兵に成り立てだった頃のブラヒムは、生前より強化された力を持っていた。恐らく武力A相当であろうという感覚が、たしかにあった。だから殺せた、止まらず次々と。
気がつけば、あの一帯には誰も寄りつかなくなっていた。そこでようやく、怒りが尽きた。
憎しみも、絶叫も、全部が焼き切れたあとに残ったのは、ひどい空白だった。
ブラヒムはその時になって、自分のステータスが大きく落ちていることに気づいた。
足取りが遅く、重い。屍肉兵に成り立ての頃どころか、生前の頃より踏み込むことができなくなった。重いと感じなくなって久しい剣が軽く感じない。
恐らく、精神力を使い果たしたのだろうという理屈が、どこからともなく浮かんだ。
不思議なことに、憎しみはもうなかった。妻にも、相棒にも、パーティにも。
あるのは、後悔だけだった。
たくさんの生者を殺し、復讐のつもりで、ただ惨劇を広げた。その結果、何も戻らなかったし、何も救われなかった。
だからブラヒムは、自分が殺した者たちの死体を集めた。
妻、相棒、パーティメンバー、憲兵、巻き込まれた者たち。それらの遺体を一つずつ集め、埋め、墓を立てた。
最初は贖罪だったが、そのうち、それだけが存在理由になった。
やがて人はあの場所を避けるようになり、廃墓地と呼ばれるようになった。ブラヒムはそこに居つき、荒らす者が来れば追い払い、自分以外の死霊が湧けば抑え、この場所の平穏だけを守る存在になった。
三百年、長かったのか短かったのか、今ではよくわからない。ただ、変化のない夜が積み重なった。
そして今夜、おかしな集団がやってきた。
アンデッドは、相手の潜在的な力を圧力として感じることができる。ブラヒムはそれを、強度と呼んでいた。
この集団は、強度が異様だった。
中年の騎士、あれは面白い。単純な暴力の塊ではなく、もっと別の、前線で何年も立ち続けた者だけが持つ重さがある。
若い三人はもっとわかりやすかった。
ひとりは黒髪の細い青年。あれは静かだが、芯が硬い。理屈を積み上げ、最後には仕留め切る種類の怪物候補だ。
ひとりは大きな盾を持つ若者。まだ青いが、壊れずに前へ立つことに関してだけなら、とんでもない伸びしろを抱えている。
そして赤毛の若者。あれはひどい。獣みたいな暴力と、どこか壊れた子どもっぽさが混ざっている。だが伸びる時にはとても嫌な方向へ伸びる怪物候補。三百年前にも同じような奴がいた。
だが、三百年前のSランク冒険者だって、ここまで妙な連中が集まることは数えるほどだった。
もっとも、ここまではたまたま強い奴が奇跡的に集ったということで理解できる。
結局のところ、力が強いとか、固いとか、速いとかの類、つまり人間の理解の範疇だ。
問題は、あの若い女だった。黒髪、低い声と冷めた感情の美貌を聖女の装いで覆った女。見た目だけならただのシスターだ。
なのに、その強度だけがまるで違う。「強い」ではないし、「危険」でもない。敢えて表現するなら、「何か別のもの」、この世界の理そのものを少しだけ書き換えるような、不気味な圧がある。
ブラヒムは、アンデッドになってから他者を怖いと思ったことがなかったが、この女だけは怖いと感じた。だから、咄嗟にその女を殺そうと思った。世界の理に触るようなものは生かしておいてはいけない、そんな本能に近い感覚だった。
だが、結果は失敗した。赤毛の怪物候補が割り込み、ブラヒムの剣を弾いた。あれほど幽霊を怖がっていたくせに、動く時は動くのかと少しだけ意外に思った。
これまでか
ブラヒムはそう覚悟した。
だが、そこで女が話しかけてきた。
声音は低く、言葉も短い。敬語を使っているので、迫力もない。傍から見れば、静かな語り口にしか見えないだろう。
だがブラヒムにはわかった。
その言葉の裏では、熱量がぐらぐらと沸いている。あるいは沸いているのは狂気か。
この女は、自分を欲しがっている。死者であり、魔物であり、人類に仇なす存在である自分を。
そんなことは、死者になってから一度もなかった。
いや、生者であった頃も、最後の有様を思えば、本当に評価されていたのかどうか怪しい。
それなのに、この女は違う。自分を利用したいのだろう、支配下に置きたいのだろう、それはわかる。
だが、その欲しがり方が妙だった。普通の人間なら、ここまでの熱を向けられれば怯えるだろう。ところがブラヒムには、それがなぜか愛すべき性質に見えた。
たぶん、自分はもうまともな人間の感性を失っているのだ。死者で、魔物なのだから、当然かもしれない。
だからブラヒムは、その申し出を受けた。
「……いいだろう」
そう返した瞬間、女が一瞬だけ笑ったように見えた。
だが、あれは幻だったかもしれない。月明かりの加減か、こちらの願望が見せた錯覚か。
そこで、ふと思う。
自分は、人類ならざる者になったからこの女を好ましく感じたのだ、と最初は考えた。
だとしたら――。
この化け物候補どもの集団はどうなのだ。あの赤毛はともかく、あの静かな黒髪の青年も、臆病そうな盾持ちの若者も、そして一見常識人っぽい中年騎士も、恐らくもうとっくに人間の常識など飛び越えた連中なのだろう。そう考えると、妙におかしかった。
これから、きっと面白くなる。
三百年、墓地の平穏だけを守ってきた死者は、その時初めて未来を思った。
そしてブラヒム・ディアスは、死者になってから初めて、心からの笑みを浮かべた。




