【第19コード】静かな夜の余波-カゲト過去
夜の路地。
街灯の切れ間を縫うように、ひとりの男がゆっくりと歩いていた。
足音がアスファルトに乾いた音を落とし、沈黙に染まった路地裏でやけに響く。
霧原影渡。
頬に血の跡が残り、肩で息をしながら、それでも彼の目には冷たい光が宿っていた。
「……あんなガキひとりに、このザマかよ
あのガキ....似てたな....」
吐き捨てるように低くつぶやく声には、苛立ちと自己嫌悪がにじむ。
握った拳に力がこもり、指先がわずかに震える。
「俺は……弱さを捨てたはずだろ。もう……弱い自分には戻らないって、誓ったはずだ……」
街灯の明かりに照らされるその背中は、どこか痛々しく見えた。
静寂の中に、小さく過去の亡霊が揺れる。
⸻
かつての霧原影渡は、今とはまるで違っていた。
まだ声変わりもしていない小さな身体で、彼は常に弟の隣にいた。
名前は陽真。
俺とは違って明るい性格のやつだった
家は狭く、生活は楽ではなかった。
弟が生まれて間もなく、父親は家を出ていった。
「俺には無理だ」と言い残して消えた背中を、影渡は今も覚えている。
母親はそれでも、懸命だった。
朝から夜遅くまで働き詰め。
食事も掃除も満足にできないほど忙しく、それでも「おかえり」「おやすみ」と笑ってくれた。
家に帰っても母の姿はなかった。
その代わり、そこにいたのは幼い弟――
「兄ちゃん、あそぼ」
「兄ちゃん、これ読んで」
小さな声で、まっすぐに笑いかけてくる。
影渡はその笑顔が好きだった。
だから、母の代わりにできる限りのことをしてきた。
母親は、それでも家族を守ろうと必死だった。
早朝から深夜まで働き、ろくに寝る間もない生活。
それでも「ごめんね」「ありがとう」と笑う母を、影渡は尊敬していた。
そして、幼い弟。
彼の存在は、影渡にとって“守るべきもの”そのものだった。
「兄ちゃん、今日は一緒に寝ていい?」
「いいよ。母さん帰ってくるまで、ふたりで待ってよう」
夜になると、母のいない家で、影渡は小さな弟に絵本を読んでやった。
カップラーメンを分け合い、毛布を掛け合い、静かな夜を二人で過ごした。
友達なんていなかった。そんなもの作ってる時間なんてなかった。
放課後は真っすぐ弟の元へ向かう日々。
「兄ちゃんだー!」と駆け寄ってくるその笑顔が、何よりの宝物だった。
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ある日の放課後――
その日は、いつもより少し遅くなっていた。
曇り空の下、影渡は学校の門をくぐり、弟の通う小学校へと足を早めていた。
(少しでも遅れると、あいつ不安になるからな……)
そんなことを思いながら、いつもの路地裏を抜け、学校裏手にある住宅地の空き地に差し掛かった――
「は……?」
ふと耳に入ったのは、鈍い音と、くぐもった声。
「……やめろよ……っ」
その声に、影渡の表情が凍った。
駆け出す。
息を飲み、足をもつれさせながら角を曲がった先――
そこで彼が目にしたのは、
泥だらけの地面に倒れ込む小さな弟の姿と、
その周りを囲む3人ほどの少年たちだった。
「ほら、返事しろよ。気持ち悪ぃんだよ、いつもヘラヘラしてよぉ」
「兄ちゃんに言えば守ってもらえるってか? マジうぜえ……!」
その言葉と同時に、蹴りが入る。
小さな身体が、地面を転がった。
「……っ!」
一瞬で頭が真っ白になった。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、何かが――音を立てて切れた。
「やめろ……!」
その叫びと同時に、影渡の拳が振るわれた。
一人、また一人と倒れていく。
「な、なんだよこいつっ!」
「うわっ、に、逃げろ!」
殴られた痛みより、何かに触れてはいけないものを見たという恐怖に駆られ、少年たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
残されたのは、泥と血にまみれた陽真と、膝から崩れ落ちそうになる影渡だけだった。
「……おい……大丈夫か……?」
震える手で弟の肩を支える。
その小さな身体は熱を持ち、擦り傷や青あざがあちこちに浮かんでいた。
「兄ちゃん……」
陽真は、泣いていなかった。
ただ、うっすらと笑っていた。
「大丈夫だよ。ちょっと喧嘩しただけ……」
目を伏せながら、かすれる声でそう言う。
本当は痛いはずなのに。
怖かったはずなのに。
「……お前、いつからだ?」
「……ううん、最近。大丈夫、ほんとになんでもないから」
そう言って、弟は無理に笑おうとした。
汚れた制服、破れた教科書、何度も見た“おかえり”の笑顔――
そのどれもに、影渡は今、意味を見出してしまった。
「……気づけなかった……」
言葉には出さなかった。
けれど、心の中で何度も繰り返していた。
弟のつよがりを、否定したくなかった。
涙をこらえて笑うあの表情を、壊したくなかった。
だから――
この日、影渡は何も言わなかった。
ただ、弟の肩を抱いて、家まで静かに歩いた。
その夜、月は静かに雲の向こうで輝いていた。
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あの日を境に、影渡は毎日、弟を迎えに行くようになった。
「よ、今日もお迎え? マジ過保護だな~」
「うるせぇよ」
クラスメイトの冷やかしにも、聞こえないふりをした。
弟を守るためなら、何を言われようがどうでもよかった。
弟は相変わらず、笑っていた。
ただ――その笑顔の下には、毎日“新しい傷”があった。
膝のすり傷、首元の赤い痕、うっすらと腫れた頬。
「今日も転んじゃった~」
「ちょっとボールが当たってさ、大したことないよ」
そう言って笑う弟に、影渡は強く言い返すことができなかった。
弟が“普通”を装っているのなら、それを壊すのは――違う気がしたからだ。
だが、限界は突然にやってくる。
その日、影渡は帰りが遅くなった。
放課後、急な用事で先生に呼び止められ、数十分ほど足止めを食らっていたのだ。
(早く行かねぇと……)
胸の中が、どこかザワついていた。
弟の通学路を走って戻る。
でも、いつもの場所にも、その姿はなかった。
(あれ……いない……?)
少しの不安が、徐々に大きくなっていく。
(もしかして、先に帰ったのか……?)
期待を込めて、自宅の扉を開ける。
「――ただいま」
返事はない。
リビングにも、トイレにも、風呂場にも。
どこにも、弟の姿はなかった。
(……っ!)
嫌な予感が脳裏をよぎった。
胸の奥が、ギリギリと締め付けられるような痛みに襲われる。
心臓の鼓動が早まる。
(まさか……)
その“まさか”を否定したくて、影渡は玄関に踵を返し、靴を踏み潰すように履いて走り出した。
夕陽が落ちかけている。
街の灯りが少しずつともりはじめるなか、彼はひたすら走った。
どこにいる――どこにいる――!
公園、路地裏、通学路……。
何も見つからない。
そのとき、遠くから聞こえた声。
「……救急車を、早く!!」
背筋が凍る。
(――やめろ)
自分に言い聞かせるように、歯を食いしばる。
でも、足はもうその声のする方へ、無意識に動き出していた。
川沿いの河川敷。
そこには、パトカーと人だかり。
夕焼けに照らされたその中で、赤いものが視界に映る。
「やめろ……やめろ、やめろ……っ!」
群衆をかき分け、中心へと駆け寄った。
そして――そこにいたのは、
――血まみれで倒れている、弟だった。
あの小さな身体が、ぴくりとも動かない。
白いシャツは赤く染まり、顔には殴打の痕、唇は切れ、目は閉じられていた。
「おいはるま...うそだろ……」
膝から崩れ落ちる。
何も言えない。
呼吸ができない。
喉が張り裂けそうだった。
震える手で、弟の手を取る。
温かかった。けれど、微かに、どこかが冷たかった。
「おい……なんで……」
その場に、影渡の声は響かない。
ただ、救急隊員が慌ただしく動き、担架が弟の身体を運んでいく。
誰かが何かを話しかけていた。
けれど、影渡には何も聞こえなかった。
あのとき、彼の中で何かが壊れた。
静かな夜――
その余波は、確実に影渡の心を蝕んでいくのだった。
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――後から分かった話だが、陽真が暴行を受けた本当の理由は「家庭の貧しさ」によるものだった。
ボロボロのランドセル、毎日同じ服、擦り切れた靴。
それらはただの“生活の跡”ではなく、子供たちにとって格好の嘲笑の材料だった。
けれど、陽真は一度もそれを兄に訴えなかった。
「大丈夫だよ、ちょっと喧嘩しただけ」
――それが彼なりの強さであり、同時に、救いを求める“弱さ”を封じ込めた仮面だった。
あの日――カゲトがケンカで返り討ちにした、3人のいじめっ子たち。
彼らはその仕返しを、弟に向けてきた。
復讐のために陽真を呼び出し、河川敷へと誘い出したのだ。
言い争いが始まり、やがて手が出る。
陽真もまた必死だった。兄のために、もう誰の手も煩わせたくないと――
懸命に抵抗し、怒鳴り、拳を振るった。
だが次の瞬間だった。
誰かの拳が陽真を強く押し返した。
彼の体はバランスを崩し、土手の縁から――無慈悲に、転落した。
コンクリートの斜面に身体を打ちつける音がした。
血のような赤が、陽真の髪と地面を染めていった。
相手に殺意はなかった。
だがそのまま、彼は動かなくなった。
打ち所が悪かったのか、それとも、日頃の暴行による蓄積が限界だったのか――
救急車が駆けつけたときには、すでに遅かった。
小さな心臓は、鼓動を止めていた。
その知らせが届いたとき、母は黙ってその場に座り込んだ。
何も言わず、何も聞かず――
ただ、ぽたり、ぽたりと涙を落とし続けた。
そしてその夜。
母もまた、静かにこの世を去った。
一通の遺書も残されていなかった。
けれどカゲトには、理解できてしまったのだ。
“ごめんね”
“あなたたちを守れなくて”
あの日から。
霧原影渡という少年の中の「心」は、ゆっくりと――確かに、死んでいった。
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弟・陽真と母はの葬儀が終わっても、空はどこまでも静かだった。
灰色の雲が垂れこめる空の下、少年の姿が一人、河川敷に立ち尽くしていた。
視線の先には、あの日、弟が転げ落ちた斜面。
わずかに残った血痕と、花束。
風が吹いても、どこか動かない空気がそこにはあった。
「……陽真。」
ぽつりと呟くその声は、かすれていた。
呼んでももう、返事は来ない。
弟が死んで以来、カゲトは“涙”という感情さえ失っていた。
その日から――霧原影渡は、二度と心から笑わなくなった。
◇
記憶が痛みとして刻まれていく中で、彼の中に芽生えたのは“怒り”ではなかった。
それは、明確な“思想”だった。
――弟は、弱かった。
力がないくせに、心だけ強く持とうとしていた。
人に頼らず、隠して、耐えて、何も言わずに――壊れた。
「俺が……あの時……いじめっ子を殺してでも守っていれば……」
咎める者はもういない。
裁く者も、慰める者も、誰一人。
だからこそ、彼は確信したのだ。
「弱さは罪だ。
守るためには、圧倒的な力が必要だ。」
冷たく、はっきりとした声で。
自分に言い聞かせるように、世界に宣言するように。
あの日から、カゲトは感情を捨てた。
哀しみも、怒りも、恐怖も、すべてを捨て去り――
ただ、“冷静で強い自分”だけを作り上げていった。
過去に縛られながら、未来を壊す力を手に入れるために。
それが、霧原影渡という男の“原点”だった。




