サリーナ、試して 後編
暗示、とは何なのだろう。
見えないけれど、感じてしまう。
ただただ自分の体が自分ではないような、奇妙な感覚に包まれる。
「こんなに、簡単に……」
「別に、簡単ってわけじゃないよ」
呆然と嘆くサリーナに、ルシオがカップを片付けながら顔をあげた。
「さっきも言ったけど、条件がそろっていたからうまくいっただけだからね」
「例え条件がそろっていたからいたからとはいえ、こんな」
自分でかけてほしいとお願いしたのもわかっているのだが、モヤモヤしてしまう。
かからないようにと気をつけていたわけでもないけれど、ここまであっさりとかかってしまう自分が怖い。
しかも、入ってもいない桃の味や匂いも感じるとは、自分の味覚も嗅覚も大丈夫なのか不安になってくる。
暗示とは、こんなに奥深くに入ってくるものなのか。
「ごめん、サリーナ。俺、やり過ぎた」
頭の中が大混乱のサリーナは、いきなりの謝罪に言葉を返せない。
「俺の中のレベルで考えたから、やり過ぎたよね」
「え、いえ」
「サリーナの言う上の下が、どれぐらいかを確認するべきだった。ごめん」
「あ、謝らないでください!」
慌てて両手を振る。
ルシオの眉が下がっていると気づき、思わず身を乗り出してしまう。
「ルシオ様に思うところはありません。自分が、あまりにあっさりと暗示にかかったことに、驚いただけです」
「……感覚がおかしくなるって、怖いよね」
「こ、怖くはないですよ。そうではなくて、こう、奇妙な気持ちになっただけでして」
これは、よくない。
サリーナは、肩を落としているように見えるルシオを見ながら、必死に考える。
口では否定してはみたものの、実際には怖いと感じてしまった。
サリーナのことをよく見ているルシオが、それに気づかないはずがない。
どうにか、誤魔化さなければ。
「あの、私が、私がお願いしたことですから」
「俺のせいだよ」
「せっかくだからと調子に乗って、上の下と言ったのは私です。ルシオ様は、私の要望に応えようとしてくださっただけですよね」
「怖がらせた事実は、変わらないよ」
「怖くないです! そう、そうです、何も!」
これは大変だ、とサリーナは声をあげた。
何としてでも、なかったことにしなくては。
肯定してしまったら、大変なことになる。
「貴重な経験でした、そうですとも。驚いただけです、初めてのことでしたから」
口にしながら、サリーナは思う。
思えば魔法を使って無双状態の自分に、怖いものなどなかった。
知らないものもなく、興味がなければ捨て置けるサリーナは、今更未知なものを経験できるとは思ってもいなかった。
ただただ眠たくなるようなものではなく、本当に感覚が変わってしまうなんて信じられない。
「ルシオ様に謝って頂くようなことは、ありません。何一つ」
サリーナは、真っすぐにルシオを見つめた。
怖いと感じたなどとは、絶対に認めるつもりはない。
謝罪も受け入れないし、そもそも聞くつもりもない。
この話は、ここで終わりにする。
切ってしまう。
「ありがとうございました、ルシオ様」
「……やめてよ」
「言葉が足りなければ、再度お伝え致しますが」
どうか、サリーナの言葉を受け取って欲しい。
ルシオがきゅっと眉を寄せた。
黙ったということは、これ以上は言わないということだろうか。
大きなため息をついたルシオが、顔をあげた。
「サリーナのそういうところ、ホントにヤだ」
「ルシオ様ほどではありません」
「俺なんか、足元にも及ばないと思うけど」
「では、そのまま私の手のひらの上で、踊っておいてください」
つん、とした返事を返すと、ルシオが笑い出した。
以前にそう言ったのは、ルシオだ。
「かなわないなぁ」
空気が変わったのが肌で感じられて、ホッとする。
ルシオが視線を下げている姿は、本当に見たくない。
ルシオがその一言で、終わりにしてくれたのだとわかる。
このまま話を変えてしまおうと、サリーナは「それにしても」と手を組んだ。
「暗示とは、本当に凄いですね」
「暗示というか、催眠というか。洗脳とかマインドコントロールとかいろいろあるし、俺はその辺りの言葉は違いなくまとめてるけど、どれも悪事に使えるし、人を壊しかねない」
ぞわり、と背筋が震えた。
「だからこそ、結局は使う側によって変わるよ」
それはそうだろうと思う。
強い力は、人を動かして変える。
それは、魔法が当たり前のこの国だって同じことだ。
王家の影の命を吸って、平然としている王家。
貴族を操り、平和に見せかけているこの国にだって、いつまでどこまでもつのだろう。
そして、魔法が使えなくとも、それは変わらない。
魔法を使うことなく、人の感覚も変えてしまう。
それがどういうことなのか、何に使えるのか。
サリーナは、すっと視線をずらす。
薬物入りのお茶を作るのは、一体誰のために、何のためにしているのか。
体が冷えていく気がする。
サリーナは、きゅっと指先を握りしめた。
「……ルシオ様」
顔をあげると、こちらを見ていたルシオと目が合った。
見られていたのかと思うものの、落ち着かなくてはと息を整えた。
「例えば、なのですが。暗示や催眠によって、人の性格を変えるなんてこと、できるのでしょうか」
ルシオがふっと笑った。
サリーナにしては、随分と曖昧な質問の仕方だ。
「例えばって、具体的には?」
「え、と。本命の方は別にいらっしゃる方に、婚約者の方だけを大切にするように変える、とか」
「……それ、誰のことを言ってるの?」
ぐ、とルシオの声が低くなる。
「まさかとは思うけど。元婚約者の話じゃないよね」
圧のかかる声に、瞬いたサリーナは「あ」と声をあげた。
今のは確かに、誤解を与える言い方だ。
どう考えても、サリーナの配慮が足りなさすぎる。
「ち、がいますよ! 無関係です!」
「じゃあ、誰の話?」
ルシオのムッとした様子が、そのまま声に出ている。
視線を彷徨わせたサリーナは、下を向いたまま、とある侯爵家の子息の名前を出した。
「え、何。そっちなの?」
ルシオが言う「そっち」がどこを向いているのかもわからないまま、サリーナは頷いた。
とある侯爵家の子息。
サリーナと同じく学院に通っている彼は、三回目の人生での夫だった男だ。
学院を卒業後に今の婚約者と結婚して、次期公爵になる予定である。
「そういえば。サリーナは次期侯爵サマのことにも、詳しかったね」
「多少、知っていることがあっただけです」
サリーナの手のひらに、じわりと汗が浮かぶ。
人生をやり直しまくっていることを知っているルシオだ、あの侯爵家の御令息との接点についても、ある程度は予想しているだろう。
ザイードとのことですら気にしている様子のルシオ相手に、余計なことは言わないようにしなくては。
「彼は、今でも魔法石のご利用は、されていますよね?」
「うん、すっかり常連客」
侯爵家の息子である男にサリーナが見せたのは、魔法石付きのペンだった。
魔法石を当てることで、文字が浮かび上がる。
「ペンを使うことで監視の目を縫って、お気に入りの御令嬢と手紙のやり取りをして遊び回ってるよ」
ルシオは言うが、本人たちは遊んでいるわけではないだろう。
そう、決して結ばれることのない、愛とやらである。
お気に入りの御令嬢とは、男爵家の彼女のことなのは間違いない。
相変わらずのようで、ある意味安心してしまう。
だが、男の婚約者である侯爵令嬢は、火遊びをしっかりと認識した上で、婚約を続けている。
ついでにいえば、男の両親も「学生のうちの節度ある遊び」としている。
一線を越えた関係でないことが、そのギリギリを保っているのだ。
だが、サリーナは知っている。
結婚したからと言って、遊びが終わるわけではないことを。
サリーナと結婚した後の男は、あれこれと理由をつけて男爵令嬢に会いに行っていた。
魔法で初夜を迎えたことにしてしまったサリーナの前で、何も知らない男は、やることはやったとばかりに、男爵令嬢と褥を共にして過ごしていた。
サリーナが何も言わずに許容していることをいいことに、愛人の数も増えたほどである。
いやはや、思い出してみると、とんでもない男だった。
真面目だと思っていたが、今思えば誠実さの欠片もない。
サリーナは嫌悪感に包まれながら、口を開く。
「あの方が、婚約者の方だけを思うようにすることは、できないものでしょうか」
「つまり、お気に入りの御令嬢と、縁を切るようにするってこと?」
「それだけではなく。今後も、他の女性の方に目移りをするようなことがないように、できませんか?」
ルシオは新しいカップにお茶を注いで、サリーナの目の前におく。
一息ついて、頬杖をついた。
「……無理じゃない?」
「ルシオ様でも、ですか?」
「俺とかいう問題じゃなくてさ。だって、アレって一種の性癖みたいなものじゃないの? 結婚したら余計にのめり込むと思うけど」
思わず詰まってしまった。
ルシオの言うことは、当たっている。
「侯爵家の跡継ぎとして期待に応えるためには、男爵令嬢の存在が必要だとか言ってたけど。結婚して当主の座を継いだら、責任も重圧も増えていくばかりだよ。際限なんかないのに、どうする気なんだろうねぇ」
同じく商会の後継ぎとして日々奮闘しているルシオが言うと、その言葉の意味がとても重たい。
次期公爵としての重責よりも、当主の責任の方がはるかに大きくなる。
「矯正しようって方が無理じゃない? 当主になれば、王家に操られるようになるから、そのときに何かできるかもしれないけど」
最もすぎて、サリーナは項垂れた。
特に問題が起きないから放置されてはいるが、やはりどうしようもないらしい。
サリーナは、男の婚約者である、侯爵家の御令嬢を思い出した。
魔法科の彼女とはそれなりの交流もあり人柄も知っている。
あの男の行動に目を光らせており、決して笑って見ているだけではないはずだ。
「……どうして、婚約を解消しないのでしょう」
小さな言葉が漏れた。
下げた視線の先で、指先を握る。
この国で、婚約を解消できるようと理を変えたのはサリーナだ。
たいした理由もなく婚約を解消できるようにと、思いっきり魔法を使った。
おかげで、サリーナはザイードと婚約を解消できたし、今ルシオと向き合うことができている。
彼女は「あんな男とは結婚できません」の一言で婚約を解消できるのに、それをしない。
思えば、理を変えてから婚約を解消したのはサリーナだけで、後には全然続いていない。
本気でわからない様子のサリーナを見て、ルシオが小さく笑った。
「俺からすれば、サリーナはよく婚約を解消できたと思うけど」
「え?」
「王家が介入してこなかったのは、奇跡だと思うよ」
「……どういう、意味ですか?」
「言葉通りの意味だよ」
ルシオがゆっくりと目を細めた。
楽しそうな口調に、どことなく分かった上で聞いてきているのだと感じる。
「簡単にできるからといって、踏み出せるかは別の話なんじゃない?」
「……別、ですか?」
「そう。婚約を解消するのはいいけど、両家そろって認めるかもわからない。有責ならば尚更だ。無事に解消した後だって、男の方はまだいいけど、女性の方はね……同等の婚約者を見つけるのは、難しいんじゃないの?」
サリーナは小さく息を飲んだ。
ザイードと婚約を解消した後のことなんか、全く考えていなかったサリーナである。
何にでもなれるし、何でもできるし、どこへだっていけると思っていた記憶しかない。
人生をやり直しまくっているサリーナにとって、学院を辞めることも、独身でいることも、家を追い出されることも、たいした障害にはならないのだ。
だが、一般的には違う。
貴族女性、それも高位貴族の令嬢ともなれば、やはり結婚するのが一般的である。
「サリーナはさぁ。婚約を解消したことを、全然気にしてなかったよね」
「え」
「裏庭で思いっきり寝ころんで。むしろ、楽しそうに見えたから」
「や、ちょ、ま、待ってください。いつのお話を!」
「初めて会ったときだよ。影になってたとはいえ、凄い格好だったよね」
「やめてください、忘れてください!」
ひぃ、とサリーナは両手で頬を覆う。
初めてルシオに出会ったときのことなど、本当に欠片ほどしか覚えていないのだ。
ただ、自分の格好が凄まじかったことだけは確かである。
「あれは、興味深かったなぁ」
「忘れてくださいと、申し上げています!」
「そんなこと言われても。衝撃的過ぎるから、無理だよ」
「ルシオ様!」
声をたてて笑い出したルシオは、幼い子供のようだ。
恥ずかしさから真っ赤になってしまったサリーナは、何とか切り替えようと小さなカップを手に取る。
とりあえず、お茶を飲み込んだ。
「サリーナ、気になるの?」
「え」
先ほどまで笑っていたルシオが、笑みを消して、じっとこちらを見ている。
真っすぐな紫色の瞳は澄んでいる。
「次期侯爵の不貞男と、その婚約者の侯爵令嬢。特に仲がいいわけでもないよね?」
「……そう、ですが」
言葉が切れてしまうのは、後ろめたいことがあるからだ。
ルシオの言う不貞男はサリーナの三回目の人生での夫であり、婚約者である侯爵家の御令嬢の立場は自分だった。
一応侯爵夫人として大切にされていたのも知っていたし、恋愛感情を向けられても嫌だったので、数名愛人がいたことも許容していたが、今世では認められないだろう。
何故か、うまく説明できない。
ただ、今の公約者である侯爵令嬢に、複雑な感情が沸くのだ。
「私、は。婚約を解消したおかげで、今とても幸せです」
フェアスーン王女殿下を思いながら、サリーナと婚約をしていたザイード。
身勝手に癒しを求めて、愛情を男爵令嬢に向けながら、結婚は別だと婚約を継続している侯爵令息。
ザイードの方は、薬やらの力もあったので別だと思うけれど、男の方は何とも身勝手すぎる。
「皆が幸せになるのは、難しいですよね」
とりあえずザイードは、第二という扱いではあるがフェアスーン王女の夫となるのでいいだろう。
だが、侯爵令息とその御令嬢は、どうなっていくのだろうか。
「サリーナは、二人が婚約解消すればいいと思ってるの?」
「私の勝手なのは、わかっているのですが。将来が広がりそうだと、思っただけです」
「……そっか」
結局のところ、問題は、結婚したからといって落ち着くような男ではないと知っていることだ。
責任が重たくなればなるほど、言い訳をして、気持ちを外へ向けて、愛人を数名囲ってしまうような男である。
「だったら、婚約者の方に聞いてみたら?」
「え、え?」
「お茶会、あるでしょ? そこで、彼女が本当にどう思っているのか、気持ちを確かめてみたらいいんじゃない?」
お茶会。
社交界が始まる前に、貴族令嬢同士の関係性を深めるためのものだ。
この時期ならではのもので、主催は高位貴族であり、学院の授業後に催される。
子爵令嬢のサリーナは、専ら招待される側である。
だが、男の婚約者である侯爵令嬢とは、招待されるような特別な間柄ではない。
「招待状を頂けるとは、思えませんよ」
「……もしもらったら?」
ルシオの声に、びくりと震える。
視線を向けると、ルシオが瞬いた。
「もらったら、確かめてみるの?」
「それは……」
どちらも、サリーナには全く関係ない二人だ。
わざわざ部外者であるサリーナが、口を出すようなことではない。
ルシオは小さなカップに入ってお茶を一気に飲み干して、息を吐いた。
「サリーナが本当に気にしてるのは、男の方でしょ」
さらりと言われた言葉に、サリーナは目を見開いた。
髪をかきあげたルシオが、口の端をあげる。
「将来的なことなんか知らないけど。俺としては、気になるなら追いかけて、決着つけてきてほしいところかな」
「え、と」
決着、とは。
ぽかんとしていると、ルシオが薄く笑う。
「いろいろと、ご存じのことが多いようで」
「え」
「関係性、聞いた方がいい? 答え合わせしてみる?」
「い、いえ。あの。大丈夫です、結構です」
嫌な予感に、慌てて両手を振る。
見透かされている気がして、サリーナは机の端に視線を落とした。




