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深淵の符呪師 ヨグソトースの息子  作者: ケロン藤野


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第3話 八木家当主 薫子


猪俣に手を引かれながら、二郎は廊下を歩いていた。


廊下は磨き上げられた木でできており、歩くたびに足の裏へ心地よい感触が伝わる。


着替えたばかりの紺色の小さな着物は、思っていたよりも動きやすかった。


「お似合いでございます、二郎様。」


猪俣が優しく微笑む。


「そ、そうですか……。」


まだ袖の長さに慣れず、二郎は何度も裾を気にしてしまう。


屋敷の廊下では、使用人たちが仕事の手を止め、一斉に頭を下げた。


「おはようございます、二郎様。」


「お目覚めになられて何よりでございます。」


「ご回復、お祝い申し上げます。」


二郎は慌てて頭を下げ返す。


「お、おはようございます。」


『緊張せんでもよい。』


ダニッジが笑う。


『皆、お前の誕生を心待ちにしておった者たちじゃ。』


「そう言われてもな……。」


二郎は小声で返した。


猪俣は何も聞こえない様子で廊下を進んでいく。


やがて屋敷の最も奥にある大きな襖の前で立ち止まった。


「薫子様。」


「二郎様をお連れいたしました。」


中から落ち着いた女性の声が返ってくる。


「入りなさい。」


猪俣が静かに襖を開いた。


広々とした和室。


床の間には見事な掛け軸と生け花が飾られ、中央には漆塗りの食卓が置かれている。


その奥に、一人の女性が静かに座っていた。


雪のように白い長髪。


澄み切った青い瞳。


年齢は二十代後半にも三十代前半にも見える、美しい女性だった。


深い紫色の豪華な着物を身にまとい、その姿には八木家当主としての威厳が漂っている。


女性は柔らかく微笑んだ。


「初めまして、二郎。」


「私は八木薫子。」


「八木家現当主よ。」


二郎は緊張しながら頭を下げた。


「は、初めまして。」


薫子は優しく頷いた。


「まずは食事にしましょう。」


「長く眠っていたのですもの、お腹が空いているでしょう?」


漆の蓋が開けられる。


季節の野菜。


焼き魚。


煮物。


椀物。


炊きたてのご飯。


色鮮やかな懐石料理が並んでいた。


「いただきます。」


二郎は恐る恐る箸を持つ。


一口食べた瞬間、思わず目を見開いた。


「うまい……。」


素材の味が口いっぱいに広がる。


思わず夢中で食べ始める二郎を見て、薫子は微笑んだ。


「その様子なら安心ね。」


しばらく食事を続けた後、薫子は静かに話し始めた。


「二郎には、お兄さんと弟がいるわ。」


二郎は箸を止めた。


「兄弟?」


「ええ。」


「長男・太郎。」


「次男・二郎。」


「三男・三郎。」


「あなたは三人兄弟の真ん中よ。」


二郎は黙って耳を傾ける。


「太郎は成長がとても早かったの。」


「幼い頃から優秀で、今では社会へ出て仕事をしているわ。」


「社会に……。」


薫子は静かに頷く。


「そして、お母様のひかる。」


その名を口にした瞬間、薫子の表情が少しだけ寂しげになった。


「ひかるは、あなたを産んでから意識が戻っていないの。」


二郎は息をのんだ。


「……え?」


「五年間、眠ったままよ。」


部屋に静寂が流れる。


「医師も符呪師も手を尽くした。」


「けれど、原因は誰にも分からない。」


薫子は視線を庭へ向けた。


「私たちは、いつか目を覚ましてくれると信じて待ち続けている。」


二郎は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。


まだ会ったこともない母。


それでも、その話を聞くと不思議と悲しさが込み上げてくる。


「……三郎は?」


薫子は少しだけ表情を引き締めた。


「三郎は……。」


言葉を選ぶように間を置く。


「あなたたち兄弟の中で、一番ヨグ=ソトースの影響を強く受けて生まれた。」


「影響?」


「肉への渇望が強すぎるの。」


「理性では抑えきれないほどに。」


「そのため現在は、八木家が管理する奥多摩の山奥にある封印の社で暮らしている。」


「封印……。」


「ええ。」


「三郎自身を守るためでもあり、周囲を守るためでもある。」


二郎は言葉を失った。


兄は社会へ出て働き。


母は眠り続け。


弟は山奥に封印されている。


自分が思っていたより、この八木家には深い事情があるようだった。


薫子は静かに湯飲みを手に取る。


「焦らなくていいわ。」


「少しずつ、この家のことを知っていけばいい。」


二郎は小さく頷いた。


新しい人生は、まだ始まったばかりだった。

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