蟲以下の卒業
翌朝。
腕がだるい。パラサイトを一匹、術式の中で動かし続けるのは、バグ・スウォームを千匹飛ばすより地味に消耗するんだ。指を握り直すたび、昨日の名残が筋肉の奥でくすぶっている。
……それでも、今日はギルドに行かないといけない。
先生には「明日、会う予定」と言った。
——期限も告げずに黙って待つのは気遣いじゃない。そう言われて、ちゃんと聞くと答えたのは私だ。だから、こっちから捕まえに行く。
ギルドの扉を押す。革鎧の匂い。掲示板の人だかり。いつものロビーだ。
朝早い時間帯のせいか、依頼の取り合いはもう一段落している。
セリアは、まだ来ていない。いつもは向こうが先にいる。今日は私の方が早いらしい。
……待つ間に、掲示板でも眺めておくか。
「——おい、聞いたか? セリアンディエル様、Sランクの打診が来たらしいぞ」
「マジかよ。やっぱりルミナリエルフはすげぇ……」
入口の柱の陰で、若い冒険者二人が小声で話していた。
……へえ。本人から聞いてないけど。
依頼票をめくる指の関節が、ぎし、と鳴った。
……昨日のが、まだ抜けてない。
次の一枚に手をかけて——背後で、扉が開いた。
振り返ると、セリアがいた。
目が合う。
「あ、セリア。迷宮の話なんだけど……いい?」
「……」
セリアは無言で視線をこちらに寄越し、奥のテーブルへ歩き出した。ついてこい、ということだろう。
人気の少ない隅の席に座る。
……切り出す前に、一つ確かめておきたいことができた。
「その前に。さっきロビーで、噂を聞いたんだけど」
「……」
「Sランクの話って——本当?」
「……打診はある」
「マジか、すごい——」
「……あとは、実績次第」
セリアは、短く切って言った。
「実績? もう十分じゃないの?」
「……まだ足りないらしい」
……本人が言いたくないなら、掘らない。
——それより、本題だ。
「あのさ。私、虚ろの迷宮に行く。もう決めた」
セリアが、こちらを見た。
「先生には話してある。協会の長期任務も、断ってきた。出発は早ければ明後日、遅くてもこの一週間のうちに」
言いながら、指を折っていた。日を決めて、伝えて、答えを聞く。順番は、先生に言われた通りだ。
「……ついてきてくれない?」
「……」
「それに……Sランクに上がりたいんでしょ? 実績って、ああいう場所のこと言うんじゃないの?」
言ってから、さっき掘らないと決めたばかりなのを思い出した。
セリアは、テーブルの木目を見ている。返ってこない時間が、思っていたより長い。
……あの日、「あなたを帰すために?」と聞かれた。私は、うん、と答えた。
返ってきたのは、「考える」だけだ。理由なら、分かってる。
分かっていて、日付を置いた。
「……私が行かないと言ったら」
息を吸いかけて、止まった。
答えは、決まっている。決まっているから、言いたくなかった。
「護衛を雇うか、別のAランクに頭を下げる。……どっちにしても、行く」
顔を上げる。
テーブルの上で、セリアの手が、一度、握られた。
「……付き合ってほしいことがある」
「……え?」
「一度、やっておきたい」
「やるって、何を」
「……手合わせ」
……いや、返事。返事はどこ行った。
手合わせ次第ってことか?
「あの……先生にも同じようなこと言われて、昨日さんざん絞られたんだけど」
「あなたの師も私と同じ気持ちなのかもしれない」
「どういう気持ち!?」
最初に模擬戦を仕掛けてきたのは、セリアだった。次は私から挑んで、返事は「いいよ、暇だし」。
そして今日は、またセリアから「付き合ってほしい」だ。
「……いいよ。やろう」
先生は「腕は、見た。文句はない」と言った。セリアは——どう評価するんだろう。前回は「蟲以下」。今回は、せめて蟲以下は卒業したい。
「場所どうするの? ……それなりに広いとこ、要るよね」
「……どこでもいい」
……「どこでもいい」って言われると、困るんだけど。
大丈夫。場所には、ちゃんと当てがある。緑に囲まれた、広い庭のある、静かな家。人目を気にせず戦える、いいところだ。
あそこしかないな。
「ついてきて」
「……どこへ」
「ちょうどいいところ」
ギルドを出て、表通りから裏路地へ入る。坂を上がり、生け垣に沿って歩く。
途中から、セリアの視線が、道の先と私の顔を何度か往復した。見覚えのある道だと気づいたらしい。それでも、何も言わずについてくる。
——で。
ソロンの家に着いた。
木戸を押すと、庭は昨日の戦闘で掘り返されたままだ。色の違う土が、あちこちに残っている。
台所の窓からは、湯気が漏れていた。今日も揚げ物だな、たぶん。
「……まさか、ここでやるの」
「広さも地形も確認済み。せめて地の利くらいは欲しいと思って」
「……あなたの師の家を、勝手に演習場扱いするの」
「昨日も使ったし」
「昨日は、あなたの師から仕掛けたのでしょう」
「先生には事後報告しておけば問題ない」
セリアが、数秒黙った。
「……人間の図太さは、エルフには真似できない」
「……エルフの執念深さも、人間には真似できないんじゃない?」
刺し返した、つもりだった。
セリアの口の端が、ほんの少し上がっている。
……さて。
無言で髪を後ろに払って結び直し、袖の留め金を確かめる。最後に、ポケットのアルミ玉へ指を触れた。
セリアは黙って見ていた。
目が合う。
すぐ逸らされた。
……何だ。準備、遅かったか。
向かい合う。
セリアは、最初から剣に手をかけて構えている。
……前回は腕組みだったのに。それだけで「同じ土俵」って認めてくれてる気がする。いや、自意識過剰か。
頭の中で、ノートを開く。「対セリアンディエル戦略・改」。
手合わせとはいえ、セリアが本気で私を殺しにくることはない。でも、勝負で手を抜いてくれる相手でもない。
バディを組んでから、セリアの戦い方は隣で散々見てきた。詠唱らしい詠唱はない。剣を抜く動きは見えない。剣と魔法の併用。——そして向こうも、私の手の内は知っている。
正面からぶつかって、実力で勝てる相手じゃないことは承知だ。
でも、昨日、初めて形になったパラサイトは知らない。魔力で組まれた構造へ潜り込ませ、内側から崩す蚊だ。
二群も、まだ見せていない。前の合同依頼では合流してしまったけど、昨日は先生の前で、別々に動かせた。
二群で対抗魔法を引き出す。そこへパラサイトを入れる。
過去二回、私の蟲は一匹も届いていない。今日こそ、一匹でも届かせる。
剣の間合いに入ったら終わる。距離を保ったまま、どこまで崩せるか。
「いつでもどうぞ」
セリアが言った。
動いた。
左に、バグ・スウォーム。右に、氷蜂。五百ずつ。
火の群れが左から、氷の群れが右から、セリアへ向かう。
——今日も、割れたまま飛んでいる。よし。
セリアが剣の腹で、左の火を払った。返す刃が右へ回る前に、氷がその腕へ迫る。
セリアが、一歩退いた。
……退いた。前は、ためらいなく前進してきたのに。
——剣は、もう間に合わない。
セリアの左手が、氷へ向いた。指先が、わずかに開く。
——来た。前回、バグ・スウォームをまとめて消した、白い光。
二群を手放して、蚊の形に組む。掌から光が広がった瞬間、パラサイトを光の根元へ放り込んだ。入れ、と念じる。
氷の群れを呑むはずだった光が、端の方だけ、ふっと途切れる。
手放した氷蜂が、勢いのまま、その切れ目を数匹すり抜けた。
セリアの袖口に、ぴしっと白い霜が咲く。
セリアの動きが、一瞬だけ止まった。
「……何か、入ってきた」
短い呟き。普段の「別に」より、音が硬かった。
……効いた。
でも、それだけだった。
セリアが剣に光を纏わせ、左手の前に残った白い光ごと薙いだ。パラサイト一匹分の手応えが、ぷつ、と消えた。——焼き切られた。
次の瞬間、距離が一気に詰まる。後ろに飛ぼうとして——セリアが、視界から消えた。
「——」
背後。まずい——。
振り返る間もない。すぐ後ろで、剣が地面に落ちる音がした。
脇から伸びた腕が、腹の前へ回り、右手首を掴む。そのまま手首ごと腹に押さえつけられた。魔法を操る手が、動かせない。
肩をひねって、抜けようとした。
「……動かないで」
もう片方の腕が、肩越しに胸の前へ回る。二本の腕に上半身を抱え込まれ、背後へ引き寄せられた。
セリアが、私を抱えたまま少し身を屈める。白金の髪が、頬に触れた。
「……捕まえた」
耳元で、低く。
……は? えっ、ちょっと、何。
背中に、セリアの体温。セリアの呼吸が、耳の後ろ——うなじにかかる。心拍が、跳ねた。
——名前のつけられない匂い。この距離で嗅ぐのは、九層と、それから——。
……何でこんな時に思い出すんだ。
息が、浅い。意識して吐こうとして、うまく吐けなかった。
それでも、セリアの腕は緩まなかった。
喉の奥が、締まった。
……動けないんですけど。
背後を取られたのだから私の負け……なんだよな?
模擬戦の終わり方ってなんだっけ。あの時、喉元に当てられたのは、冷たい金属だった。
……でも今は、セリア……剣捨てたよな?
今、当てられているのは、体温だ。
胸元に回った腕の力が、ほんの少しだけ強くなった。すぐに、ふっと緩む。
拘束が解けた。背後で、剣を拾い直す音がした。
数秒、沈黙。
「……あの」
「……何」
「これ、勝負ありってこと?」
「……動けなくなった方の、負けでしょ」
「いや、それは分かるんだけど。戦闘の一手として、『抱きしめる』ってアリなの?」
「……知らない」
「知らないんかい」
セリアは、少しだけ顔を逸らした。
二群にパラサイト。使える手は全部組み合わせた。想定できなかったのは、こういう手だ。
負けは、負けだ。
「……初めて見る魔法」
セリアが、剣を鞘に納めながら、ぽつりと言った。
「……えげつない」
「えげつないが感想ですか……」
「魔法構造に潜り込むなんて、品のない発想」
「……自覚はあるよ。先生にも、悪役みたいだって言われた」
「……」
セリアが、ふっと息を吐いた。鼻で笑った——ような気がする。
「……蟲使いらしい技」
腰に手を当てて、息を整えた。
——とはいえ、届いた。一手だけでも、確かに届いた。
「どうだった? ……ちょっとは戦えるようになったと思ったんだけどな」
「そうね……蟲以下、から——」
セリアが言いかけて、一拍空ける。
……来た。あの「まだ蟲以下」の更新版が。これが今日の答え——。
「……蟲になった」
……蟲になった、ってどういうことですか。
「人間なんですけど。蟲にしないでもらっていいですか」
「……あなたの称号は、ずっと蟲でしょ」
「『使い』! 『使い』が抜けてる! 肩書きが激変するんだけど!」
セリアは何も言わずに、剣帯の位置を直した。
でも、肩が、ほんの少しだけ揺れていた。
「……セリア」
「……何」
「迷宮、一緒に行ってくれる?」
セリアが、こちらを見た。
数秒。
「……当然。バディだから」
短かった。いつもと同じ、平らな声だった。
なのに——音が、ほんの少しだけ違って聞こえた。
指先が、少し冷たい。気づくと、ポケットの中のアルミ玉を、ずっと撫でていた。
風が、掘り返された庭の土の上を渡っていった。
「お主たち——!!」
家の扉が、勢いよく開いた。
油じみのついた前掛けのソロンが、菜箸を片手に出てくる。
「お主——昨日使ったからといって、勝手に庭で始めるな!!」
「先生、安心してください。何も壊してません。私が負けただけです」
「セリアンディエル様……」
声音が、変わった。
お説教をしようとしていた口が、一度閉じる。前掛けの紐を、無意識みたいに結び直していた。
セリアが、短く頭を下げた。
「……無断使用は詫びます」
ソロンは数秒、セリアを見ていた。それから、短く頷いた。
「……まあ、柵も塀も無事なら、構わんが。チップスの油温が下がる前に戻らねばならん。……食っていくか」
「……今日はいいです。心臓が、まだ戦闘中なので」
誘うだけ誘って、もう背中しか見えない。
——あ、そうだ。
セリアからの正式な返事が、さっき出たばかりだ。先生に伝えないと、推薦状の話が進まない。
「先生、それと——」
「ふむ」
「迷宮の話、ちゃんと片付きました。よろしくお願いします」
ソロンが、菜箸を持った手で軽くひらりと振った。
戸が、ぱたんと閉まる。
これで推薦状は確保した。
ギルドの受注も、装備の買い足しも、明日一日あれば足りる。
——なら、早い方で行こう。
「セリア。明後日の朝、出る。ギルドの前で」
「……分かった」
ソロン宅をあとにして、街への帰り道。
セリアが、隣を歩いている。石畳に、揃った足音が二つ。
「……やっぱり、セリアは強いよ」
横顔に向けて、言った。
「……知ってる」
短く、返ってきた。
数歩、無言で歩く。
「……あなたも、強くなった」
足が、一拍だけ止まった。
……今、はっきり褒められた。「蟲」じゃなくて、「あなた」って。
「……明日、時間ある?」
不意に、セリアが言った。
「あるよ」
「……話しておくことがある」
セリアの目は、石畳の先から動かない。
……作戦会議か。
「……分かった。どこで?」
「……私の宿の屋上。月が出ている時間に」
……作戦会議なら、ギルドで済む。屋上で、夜に。何を話すつもりだろう。




