師匠はやっぱり偉大
王都の路地裏にある、古びた石造りの家。
私はすがるような思いで扉を叩いた。
……反応がない。
もう一度、拳が痛くなるほど強く叩く。それでも、中からは何の物音も聞こえなかった。
「……嘘でしょ」
扉は無情にも閉ざされていた。
なんでいないんだよ、こういう時に限って!
普段は引きこもりのくせに、今日に限って外出なんて。私の日頃の行いが悪いから? それとも異世界の神様は私が嫌いなの?
私はずるずると扉に背中を預け、その場にしゃがみ込んだ。目の前には、師匠が手入れもせずに放置している庭が広がっている。雑草の中に混じって、名前も知らない青い花がひっそりと咲いていた。
その花を見ていると、ふいに涙腺が緩んだ。
「うぅ……」
一度溢れた涙は止まらなかった。
昨晩の恐怖、裏切られた悲しみ、そして今、たった一人の頼れる相手に会えなかった心細さ。
この世界に来てから、明らかに情緒不安定になっている気がする。すぐに泣くし、すぐにパニックになる。
日本にいた頃は、もう少し図太いつもりでいたのに。
「……アオイ?」
頭上から、聞き慣れた低い声が降ってきた。
ビクリと肩を震わせ、顔を上げる。そこには、買い物袋を提げた仏頂面の男性――師匠のソロンが立っていた。
袋の中から、怪しげな植物の葉っぱと、干からびた虫のようなものが覗いている。
「……先生……その袋の中身なんですか」
「見るな」
「干からびた虫みたいなのが見えてるんですけど」
「見えていないはずだ」
「見えてます。あとその葉っぱ、毒々しい紫色なんですけど」
「……お主の修行で使う」
「えっ」
「防御魔法の練習に、そろそろ石以外の刺激が必要だと思ってな」
「刺激って何!? 虫で何するんですか!?」
「…………冗談だ。揚げると美味いんだ」
「おやつかよ!!」
なんだこの茶番……。
でも、そのくだらないやり取りのおかげで、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ気がした。
「……先生、私……」
「どうした? そんなところで行き倒れて」
いつもの減らず口。
でも、その声音には隠しきれない心配の色が滲んでいた。
その顔を見た瞬間、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「死ぬかと思いました……! 魔族に、殺されかけたんです……!」
「……なんだって?」
ソロンの目が鋭く細められた。
私は鼻水をすすりながら、昨日起きたことをすべてぶちまけた。
親切にしてくれた二人組のこと。一緒に野営をしたこと。二人の正体が魔族だったこと。そして、あのエルフに助けられたこと。ソロンは私の話を、眉間に深い皺を寄せたまま黙って聞いていた。
ひと通り話し終えると、彼は深くため息をついた。
「……お主、なぜ見ず知らずの者といきなりパーティを組んだのだ」
「だ、だって……誘われたんです……」
ソロンは無言で続きを促した。その沈黙が、余計に言い訳じみた言葉を引き出してくる。
「初めて魔物を倒した時、殺してしまったのが辛くて泣いてたら……あの二人が優しく声をかけてくれて、一緒にやろうって言ってくれたから……」
「……」
ソロンは「魔物の討伐ごときでなぜ泣くんだ」と言いたげな、呆れを含んだ視線を向けてきた。
文化の違いだと言いたいけれど、この世界では私の感性が甘っちょろいのは事実だ。
「すごく良くしてくれたし……本当に信じてしまったんです。日本……私の故郷には『ホスト』とか『キャバ嬢』っていう、優しさをお金に変える職業があるんですけど、人がそうやって騙されて貢いでいく気持ちが痛いほど分かりました……」
「お主の言うホストなどがどういう意味かは知らんが……」
ソロンは私の頭にポンと手を置いた。無骨で大きな手が、乱暴に私の髪を撫でる。
「助かったのだな。……それが一番だ」
「うぅ……偶然あのルミナリエルフが通りかかったみたいで助けてくれました……助けたというか、むこう曰く報酬目当てで私は勝手に助かっただけみたいですけど」
「運が良かったな。セリアンディエル様に感謝せねばならん」
「……あぁ、そんな名前でしたっけ。それにしても……様付けなんですか? 先生みたいなすごい魔法使いでも?」
「当たり前だ。ほんの2年前にギルドに姿を現し、信じられん速さでAランクに上り詰めた方だぞ。わたしよりもずっと年上で、実力は王都でも五本の指に入る。様を付けんでどうする」
マジか。あの性格破綻者の冷徹エルフ、そんなに偉い人だったのか。しかもババアじゃん。
いや、命の恩人だし感謝はしている。しているけれど、あの差別主義的な態度を思い出すと、素直に「様」付けで呼ぶ気にはなれない。
「でも、そもそもおかしくないですか? ギルドの管理体制ですよ! 魔族が人のふりをして自由に出入りできるなんて」
私は怒りを露わにした。
「登録時にチェックとかしないんですか? ザルすぎません?」
「ギルドは、あくまで依頼主と冒険者の仲介業者だ」
ソロンは淡々と答えた。
「仲介料で成り立っておる組織だ。極端な話、依頼さえこなせれば、中身が魔族だろうが罪人だろうが構わん、というスタンスの奴らも多い。それに、今回のような高度な擬態を見破る魔道具は高価で、すべての支部に配備されているわけではない」
「がばがばセキュリティじゃないですか! クソッ!」
私のいた世界のSEなら、発狂して損害賠償を請求するレベルの杜撰さだ。情報漏洩どころか、命が漏洩している。
ふと、疑問が浮かんだ。ソロンほどの魔法使いなら、何か知っているかもしれない。
「……見分け方とか、ないんですか? 魔族の」
「そうだな……。今回のように人間に完璧に擬態されていると、外見だけで見抜くのは困難だろう」
「あの、体温が低かったんです! 手がすごく冷たくて。それって魔族の特徴とかじゃ……」
「ん? いや」
ソロンは即答した。
「それはほぼ関係ないだろう。単なる冷え性か、外気が冷たかっただけではないか?」
「はあ!?!? なんだったんだよ!」
私は叫んだ。
手が冷たかったことに、何か意味があるのではと密かに思っていたのに。ただの偶然かよ!
あのエルフは『魔族の気配がした』と言っていた。でも私には何も感じられなかった。
一流の魔法使いになれば、擬態の奥にある本質が見えるようになるのか? それとも彼女だけが持つ特別な目があるのか……。
「……先生なら、どうやって見分けるんですか?」
「ふむ。確実な方法なら一つある」
ソロンは無表情で、恐ろしいことを口にした。
「極限状態での尋問だ。騎士団でも使っておる」
「尋問……?」
「対象を暗い牢に拘束し、感覚を奪い、恐怖を与え続ける。その状態で不意に未知の言語を投げる。擬態中の魔族であれば、魔力の波長が乱れるのだ」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間。
私の脳裏に、鍵のかかった記憶の扉がガタガタと音を立てた。
冷たい石牢。テープで塞がれた口。意味不明な言語を次々と試してくる怖いおじさん。
極限の恐怖と屈辱の中で、やけくそになって「ボケ」「カス」と日本語で暴言を吐いた、あの日。
――……。
……あれ、それじゃん。騎士団式尋問メソッドじゃん。私がこの国に来て一番最初に味わった地獄のフルコースじゃん! 魔族を疑われてたのかよ!
「……アオイ? どうした、顔色が悪いぞ」
ソロンの声で、私はハッと現実に引き戻された。
全身に冷や汗をかいている。震える手で自分の腕を抱きしめ、私は首を激しく横に振った。
「む、無理です……。絶対無理。あんなやり方、人にしたくないし、されたくもない……」
「ん? 何をそんなに怯えている?」
ソロンは不思議そうに首を傾げている。
私が捕まったことは知っているが、まさか、目の前の弟子がその尋問の被害者だとは思っていないのだろう。
あの時私を取り調べた男が誰だったのかは知らないけれど、二度と会いたくないし、思い出したくもない。
「……とにかく! 拷問みたいな見分け方は却下です! もっと平和的なやつが良い……」
「ふむ、まあ、一般人が使うには少々過激か」
少々どころじゃないわ。あの拷問の後に信頼関係を構築するなんて無理ゲーにもほどがある。
「となると……やはり確実なのは、信頼のおける組織、例えば魔法協会に属しているか、あるいは……」
ソロンは私を見下ろし、真剣な表情で言った。
「お主は騙されやすい顔をしているからな。今後、バディを組みたい相手ができた時は、まずわたしの元に連れてくるがよい。目利きをしてやろう」
「……」
なにそれ。
結婚を前提にお付き合いしている人を、頑固親父に紹介しに来る娘の図じゃないですか。
『お義父さん、娘さんを僕にください!』『どこの馬の骨とも知らん奴にアオイはやれん!』みたいな?
……いや待て、バディって別にそういう関係じゃないよね? なんで私、結婚に例えてるの?
想像してしまい、恐怖で強張っていた頬が少しだけ緩んだ。過保護だし、不器用すぎる。でも、その提案が、今の傷ついた心には一番の薬だった。
「……うん。分かりました。今度は絶対変な人に引っかかる前に、先生に見せるようにします」
「うむ。そうしろ」
ソロンは満足げに頷くと、鍵を取り出して扉を開けた。
「入れ。茶でも淹れてやる。……泣き腫らした顔では、みっともなくて外も歩けまい」
その不器用な優しさに、私はもう一度だけ鼻をすすり、大きく頷いた。
「はい!」
ソロンの家は、相変わらず質素だった。
必要最低限の家具と、壁一面を埋め尽くす魔導書の山。埃っぽいけれど、どこか落ち着く匂いがする。私は勧められるままにソファに腰を下ろした。
テーブルの上に、赤い薄切りの何かが皿に盛られていた。
「……それなんですか?」
「紅心草チップスだ」
「薬草をフライにするなんて初めて聞いたんですけど……」
ソロンは「揚げると案外いける」とだけ言って、ぼりぼりと齧りながら茶を淹れ始めた。虫も揚げようとしてたよな。どんだけ揚げるの好きなんだよ。揚げものおじさんじゃん。
温かいお茶が運ばれてきた。湯呑みを置いたソロンの口元が微かに動いたが、出てきたのはいつもの一言だけだった。
「……冷めんうちに飲め」
口に含むと、ほんのりと甘い香草の風味が広がる。
……あれ、おかしいな。さっきまであんなに頭がぐるぐるしていたのに、急に瞼が重くなってきた。
「……ねむ……」
「当たり前だ。寝ずに歩き、一晩中恐怖と戦っていたのだろう。身体が限界なのだ」
ソロンの声が、どこか遠くから聞こえる。
「今日はここで休め。帰り道で倒れられても困る」
「……ごめん、なさ……」
私は返事をしようとしたけれど、言葉が途中で溶けて消えた。
最後に見えたのは、仏頂面のまま毛布をかけてくれる師匠の姿。
その無骨な手つきが、どこか優しくて。私は泥のように深い眠りに落ちていった。




