冷血エルフと腹の虫
森を抜け、王都へと続く街道に出た頃には、空が白み始めていた。
夜露に濡れた草の匂いが、冷たい空気と一緒に肺を満たす。どこかで鳥がさえずり始めていた。
普段なら「綺麗な朝だな」とでも思ったかもしれない。でも今は、その平和な風景が、かえって残酷に感じられた。
私と彼女――ルミナリエルフの女性は、無言で歩き続けている。
ザッ、ザッ、という乾いた足音だけが、やけに大きく響く。
……おかしい。行きは丸一日かかったのに、まだ夜が明けたばかりだ。彼女の歩調は速いけれど、それだけでは説明がつかない。
途中で気づいた。彼女が選んだルートは、行きとはまったく違っていた。丘だらけの起伏を通らず、平坦な地形を縫うようにして最短距離で街道を目指している。
――つまり、こっちが本来の道だったのだ。
ラークたちは、わざと遠回りをしていた。何度も休憩を挟み、私の体力を気遣うふりをしながら、夜になるまで時間を稼いでいたのだ。人目のない夜の森に着くように。
また一つ、「優しさ」の正体を突きつけられた気がして、腹の底が冷たくなった。
私はまだ、現実と悪夢の境界線を彷徨っていた。
ラークとミナは、魔族だった。
人間に擬態する高位の種族。生きている間は完璧に人間に化けていて、私には何の違和感も感じられなかった。
死んだ瞬間に、その擬態が解けた。側頭部から突き出た禍々しい角と、肌に浮かび上がった独特の幾何学紋様。あれが魔族の真の姿なのだと、このルミナリエルフの女性は言っていた。
なぜ彼女には見抜けて、私には見抜けなかったのか。その差が、今は途方もなく大きく感じられた。
私を殺そうとしていた。
あの笑顔も、焚き火を囲んで語った夢も。私を油断させるための手口だったのだと、頭では理解している。
――「あいつは、いい奴なんだけどな」。
ラークの最後の呟きだけが、結論を出すのを邪魔していた。
でも、心が追いつかない。胃の奥に鉛を流し込まれたような重苦しさが、一歩歩くごとに内臓を揺らす。
信じていたものが音を立てて崩れ去る、その残響が頭から離れない。
「……」
前を歩く彼女が、チラリと肩越しに私を見た。
何か声をかけてくれるのかと思った。けれど、彼女はすぐに前を向き、何も言わない。
ただ、競歩選手かと思うほど速い歩調を、ほんの少しだけ落とした気がした。
「……っ」
鼻の奥がツンとして、視界が滲む。
安っぽい同情なら欲しくない。でも、今はその無言の配慮すら痛い。一度崩れたら、もう止まらない気がする。
今は、ダメだ。こんな場所で立ち止まったら、彼女に置いていかれる。
せめて王都に着くまでは――。沈黙に耐えきれなかった。頭の中で同じ映像がぐるぐる回り続けている。それを断ち切るように、掠れた声で問いかけた。
「……魔族がいるって、なんで分かったの」
「気配がしたって言ったでしょう。耳悪いの?」
返ってきたのは、氷点下の回答だった。
「だ、だから……その気配って何? 私には何も感じなかったし……」
「それはあなたが無能だから」
ぴしゃり、と言い切られた。
あまりに直球な罵倒に、言葉が詰まる。
「無能……って」
確かに私はまだCランクになりたてで、実戦経験も浅い。けれど、「何も感じなかった」というのは事実だ。ラークたちからは、むしろ温かみのある人間の気配しかしなかったのに。
彼女には見えていて、私には見えない何かがあるのだろうか。
「……なんで私だったのかな」
「何?」
「なんで魔族は私なんかを狙ったの」
私の問いに、彼女は歩みを止めずに答えた。
「無能と言ったのは、あくまで『今の』技術の話」
「え……?」
「砂漠で会った時より、あなたは明らかに魔力が上がってる。魔族にとって、将来脅威になりうる『芽』を早めに摘むのは定石。馬鹿なうちに摘んでおこうとしたんでしょ」
「……」
馬鹿なうちに、という言葉がグサリと刺さる。
つまり私は、「将来有望だけど今はチョロいカモ」として認定されていたわけだ。
喜んでいいのか悲しんでいいのか分からない。
――でも、事実だ。
私は騙された。疑いもせずに、笑顔で手を振って、自分から死地に足を踏み入れた。ラークの冒険譚も、ミナの人懐っこい笑顔も、全部信じて、全部本物だと思い込んで。
馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ。
「まあ、今は枯れかけの雑草にしか見えないけど」
「……言い方ひどくない?」
「事実でしょ。雑草」
こちとら傷心中なんだが?
命を助けてもらった恩人とはいえ、こいつまじで性格が悪すぎる。いや、悪いというか、デリカシーという概念を生まれた時にどこかに落としてきたんじゃないだろうか。
もういいや、こんな冷血エルフ……。
私は唇を尖らせ、彼女の背中を睨みながら歩いた。
しかし、悲しいことに私の歩幅と彼女の歩幅には絶望的なスペック差があった。
彼女が優雅に一歩進む間に、私は必死に一点五歩足を動かさなければならない。
しかも、彼女は夜通し森を駆け回り、魔族を二体仕留めた直後だというのに、息一つ乱れていない。汗の一滴もかいていない。
身体能力の差以前に、生物としての格が違う気さえしてくる。
「ちょ、ちょっと待って……速い……」
「遅すぎ」
「足の長さが違うんだからしょうがないでしょ!」
「足が短いのを私のせいにしないで」
「うぐっ……!」
事実陳列罪だ。彼女は立ち止まりこそしないが、また少しだけ速度を緩めた。
文句を言いながらも合わせてくれるあたり、根っからの悪人ではないのだろう。ただ単に、口が災いしすぎているだけで。
ふと、風に乗って甘い花のような香りが鼻をかすめた。……この人からだ。砂漠で水をもらった時も、同じ匂いがした気がする。
返り血を浴びて夜通し森を歩いた後なのに、どうしてこんな匂いがするんだろう。
その時だった。
――グゥゥゥゥゥ……ケロロロ……。
静寂な街道に、情けない音が盛大に響き渡った。
私の腹の虫だ。昨晩の恐怖体験でエネルギーを使い果たした私の身体は、空気も読まずにカロリーを所望していた。
「…………」
ルミナリエルフの足が止まった。
彼女はゆっくりと振り返り、ゴミを見るような目で私を見下ろした。
「……お腹に蛙でも飼ってるの?」
「い、今のっ、違うから! 緊張が解けて、その、生理現象というか……!」
「不快」
「ひどっ!」
昔専門学校時代に、生徒がくしゃみをしたら「うるさい」と教壇を叩いた先生がいた。まじで頭おかしいと思った。生理現象はどうにもならないだろうが。
「また水魔法の水でも飲んだの?」
ルミナリエルフが馬鹿にしたような笑みを漏らす。いちいちバカみたいに整った顔もまた腹立つ。
「は? あの時はあんたが飲ませたんじゃん」
「私のせいにしないで。あなたの胃腸が貧弱なだけでしょ」
「いやいや、あんただって同じ目に遭ったじゃん! 森の中で、一人で、優雅なローブをたくし上げて――」
「黙れ」
彼女の耳の先が、みるみるうちに赤く染まっていく。
あ、これ地雷だ。分かってる。分かってるけど。
――魔族を二人、素手で瞬殺した相手だ。怒らせたら本当にどうなるか分からない。
なのに、この人の前だと、つい口が滑る。なんでだろう。
――ちょっとだけ、楽しい。だからかもしれない。
さっきまで胸を締め付けていた重苦しさが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。死にかけた直後だというのに、私の精神は意外と図太いらしい。それとも、これは現実逃避の一種なのだろうか。
まあ、どっちでもいい。
彼女は深いため息をつくと、懐から何かを取り出し、無造作に放り投げてきた。
慌てて受け止める。それは、真っ黒で表面にぬめりのような光沢を放つ、拳大の塊だった。
硬い。匂いもない。食べ物……なのか? それとも森で拾った魔物の臓器か何か?
「……え、これ何? エルフっていつもこんなの食べてるの?」
「栄養食。これ一つで数日は保つ」
「数日……? いや、でもこれ見た目がグロ――」
「文句ある? 嫌なら餓死すれば」
「ないです、文句」
即答した。人間の常識では考えられないが、私なんて三食しっかり食べないと死ぬタイプなのだ。見た目がどうだろうが、背に腹は代えられない。
彼女はまたくるりと背を向け、スタスタと歩き出した。
私は歩きながら、その得体のしれない黒い塊を恐る恐る齧った。
……!?
見た目に反して、濃厚な甘みと酸味が口の中に広がる。疲労した脳に糖分が染み渡っていくようだ。
悔しいけれど、涙が出るほど美味しかった。……いや、違う。美味しいから泣いているんじゃない。
口は悪くて、冷たくて、私のことなんてどうでもよさそうなのに。それでも、こうして何かをくれる人がいる。張り詰めていた糸が、少しだけ緩んだのかもしれない。
私は俯いたまま、黙々と黒い塊を齧り続けた。彼女は振り返らない。それが、今はありがたかった。
太陽が完全に昇りきった頃、ようやく王都の巨大な城壁が見えてきた。
朝の光を浴びて白く輝く石壁。その威容に、初めて見た時は圧倒されたものだ。
今は、ただ「やっと着いた」という安堵しかなかった。
彼女はローブのフードを深く被った。シャンパンゴールドの髪と長い耳が布の下に隠れる。
……が、隠しきれていない。フードの隙間から零れる髪の色と、人間離れした体躯のシルエットが、むしろ怪しさを増している気がする。
門を守る衛兵たちは、フードの人影を一目見るなり、背筋を伸ばして敬礼した。
隠す気はあるらしいが、衛兵たちには完全にバレている。常連なのだろう。
衛兵たちは一斉に道を空けた。
私は金魚のフンのように彼女の後ろにくっついて、門をくぐる。衛兵たちは私の方を一瞥したが、興味なさそうにすぐに視線を外した。
まるで、英雄の陰に隠れた羽虫を見るような目だった。
王都の活気。
行き交う人々、屋台の匂い、笑い声。昨日の夜まで当たり前だった「平和」が、そこにはあった。
ラークたちのことが嘘だったかのような日常。
私たちは人混みを抜け、冒険者ギルドの前までたどり着いた。
朝の早い時間だというのに、ギルドはすでに多くの冒険者で溢れかえっている。
その喧騒の前で、彼女はピタリと足を止めた。
「じゃ」
あまりにあっさりとした、事務的な宣告だった。
彼女は私の方を見向きもせず、懐の革袋を軽く叩いた。
ジャラリ、と音がする。中に入っているのは、魔族の角と、森で仕留めた獲物の戦利品だろう。
対して、私はどうだ。
仲間だと思っていた人たちは魔族だった。討伐対象のガルムなんて最初からいなかった。心をすり減らし、命からがら逃げ帰ってきただけ。
手元には何もない。一銭の得もなく、ただ喪失感だけが残っている。服は泥と血で汚れ、髪はボサボサ。目の下には隈ができているだろう。
強者と弱者。その差が、こんなにも残酷に可視化されるものなのか。
「……」
彼女はもう、私に用はないと言わんばかりに、迷いのない足取りでギルドの扉へと向かっていく。
お礼はもう言った。これ以上引き止める言葉も、理由もない。あの髪が、ギルドの薄暗い入り口へと吸い込まれていく。
その背中は、どこまでも孤高で、残酷なほど美しかった。
一人、往来に取り残される。周囲の活気が、急に遠く感じられた。
仲間だと思っていた二人はもういない。頼れる人は、誰もいなくなった。
優しい姉の顔が浮かびかけたが、今の私が姉に会えば、きっと心配させてしまう。
――だめだ、今はもっと、こう。
罵倒されながらも、話を聞いてくれる人がいい。
脳裏に浮かんだのは、常に仏頂面で、口を開けば小言ばかりの、あの人の顔。
「……先生」
私は、グスッと鼻をすすった。
会いたい。ソロンのところに行って、洗いざらい全部ぶちまけたい。
「お主が間抜けだからだ」って怒られるだろう。「だから言っただろう、人を易々と信じるなと」って、拳骨が飛んでくるかもしれない。
でも、きっと最後には、渋い顔でお茶を淹れてくれる。
「……で、お主はどうしたいんだ」って、ぶっきらぼうに聞いてくれる。
今は、あの厳しくて不器用な優しさに触れたかった。子供みたいに泣きついて、情けない自分を全部さらけ出したかった。
私は重たい足を引きずり、ギルドには入らず、踵を返した。目指すのは、師匠の家。情けない顔をしている自覚はある。
でも、今の私には、それしか思いつかなかった。




