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帰りたすぎるアラサーSEの異世界ハッキング  作者: 風丸
冒険者ギルドレビュー

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26/32

血塗られた再会

 ――ドサッ。

 重く、湿った音が闇を裂いた。



「ん……う……?」



 浅い眠りの底から、引きずり出される。まぶたが鉛のように重い。意識はまだ、微睡まどろみの境界線を漂っている。

 ――何かが、ぷつりと途切れた感覚があった。頭の奥にかかっていた薄い膜が、不意に剥がれ落ちたような。

 何の、音だろう。



「いま……何時……?」



 薄目を開けると、視界の端で焚き火が爆ぜ、消え入りそうな朱色の光を放っていた。辺りは深い闇に包まれている。

 見張りをしているはずのラークの声も、ミナが薪をくべる音もしない。焚き火の傍には、誰もいなかった。

 肺に冷たい夜気が入り込み、わずかに思考が明瞭になる。喉が焼けるように渇いていた。

 フラフラと身を起こし、リュックの方へ手を伸ばす。

 その時だった。

 ふと、空気の異変に気づいた。

 鉄だ。鉄錆のような、生々しい匂いが鼻腔を突く。

 そして――焚き火の残り火に照らされた地面を、黒い液体がじわじわと広がっていくのが見えた。



「な、なんだこれ……まさか、血……? いや、いやいや……」



 目を凝らす。それは黒い、どろりとした粘性を持つ液体だった。地面の土に吸い込まれることなく、べっとりと不気味な光沢を放っている。

 嫌な予感が、心臓を冷たい手で直接掴んだかのように駆け抜けた。

 その液体の先に――二つの影が倒れている。

 そして、その傍らに。白い人影が一つ、立っていた。

 月光を背にしているせいで、顔は見えない。ただ、黒く汚れた細い手だけが、月明かりの中にぼんやりと浮かんでいた。



「……っ!?」



 誰だ、あれ。

 焚き火の残り火だけでは、人影の正体が判別できない。白い衣を纏った、華奢な体躯。手とローブには、ドロリとした返り血が点々と付着していた。まだ乾いていない。つい今しがた、ここに来たのだろう。

 人影は微動だにしない。まるで、掃除の最中に少し汚れてしまっただけだと言わんばかりの、無関心な佇まい。

 頭がまだ追いつかない。寝起きの思考が、目の前の光景を拒絶している。

 倒れているのは――ラークとミナだった。

 二人は重なり合うようにして、不自然な角度で地面に転がっている。その下から赤黒い液体が広がり続けていた。まだ温かいのか、夜気の中でかすかに湯気が立っている。



「ちょっと、二人とも……大丈夫……?」



 冗談めかして声をかける。自分に言い聞かせていた。これはただの寝落ちだ。あの黒い液体は、きっと夜食のスープか何かなんだと。

 だが、月が雲間から完全に抜けた瞬間、安っぽい希望は無慈悲に粉砕された。

 赤だ。黒く見えていたのは、闇のせい。実際は、おびただしいほどの、鮮烈な、生々しい赤。

 ラークの胸には、拳が通り抜けるほどの大きな風穴が開いていた。心臓ごと何かにえぐり取られたような、惨憺さんたんたる有様。

 ミナは――首が、人間には不可能な方向へねじ曲がっていた。



「――――……っ」



 叫ぼうとした。けれど喉の奥が引きり、ヒュッという空気の漏れる音しか出なかった。

 本当の恐怖を前にすると、人間は声すら出せなくなるのだと、初めて知った。



「あ……あ……」



 膝から力が抜け、カクカクと無様に震える。心臓の鼓動が耳の奥で爆音となって響き、呼吸の仕方が分からない。



「ラーク……? ミナ……?」



 掠れた声で呼びかける。返事はない。

 見たくない。逃げ出したい。でも、確認しなければならない。麻痺したような足を引きずり、一歩、また一歩と近づいた。

 もう動き出すことも、笑いかけてくれることも、二度とないのだと。冷たい現実が突きつけられる。

 さっきまで笑っていた。一緒にスープを飲んだ。明日のことを話していた。

 それが――どうして。ガルム……? いや、まさか……。



 恐怖で視界が歪む。涙が溢れて止まらない。

 その時、白い影が音もなくこちらを向いた。月光がその顔を正面から照らし出す。

 白金の髪が夜風に揺れ、透き通るような白い肌が闇の中で発光しているかのように浮かび上がった。死神のような神々しさを湛えた――あの、白い姿。



「ルミナリエルフ……?」



 砂漠で水をくれた、あの女性だ。ギルドで私を「低俗」と切り捨てた、あの冷たいエルフ。

 その感情の欠落した赤い瞳が、私を見下ろしている。


挿絵(By みてみん)



「あなたが……殺したの……!?」



 問いかける声は震え、怒りよりも恐怖が勝っていた。



「処分した」



 鈴を転がすような、しかし氷のように冷たい声。



「は? 処分? なんで……!?」



 私は地面を叩き、泣き叫んだ。やっとできた、初めてのパーティ仲間だった。一緒に冒険してくれる仲間だと思っていたのに。それを、このエルフは。



「あんた、最低だよ! 人殺し! 化け物!!」



 なんで。なんで。なんで。

 私の罵声を受け、彼女がわずかに眉を寄せた。

 それは怒りではなく、底知れない愚か者を見るような、心底呆れ果てたさげすみの表情だった。



「……よく見なさい」



 短く、一言。それだけだった。

 彼女の視線が、倒れた二人の頭部を示している。

 見たくない。でも、その声に抗えない威圧感があった。私は這うようにして、亡骸に近づく。

 ――そして、息を呑んだ。

 ラークの側頭部から、ねじれた黒い角が二本突き出していた。首筋から胸元にかけて、人間にはあり得ない幾何学的な、青黒い模様が浮かび上がっている。



「なに……これ……角……?」



 角。黒くねじれた、禍々しい角。

 でも――その下にあるのは、ラークの顔だった。

 ほんの数時間前まで、焚き火の向こうで笑っていた顔。「俺たちパーティなんだからよ」と親指を立てた、あの顔。血に塗れて、光を失って、それでもまだ――知っている顔のままだった。

 人間じゃないものが生えているのに、顔だけは人間のままで。その矛盾が、頭の中でうまく処理できない。



「嘘だ……だって、この人は、私の……仲間、で……」



 声が震える。

 何かの間違いだ。角に見えるだけで、きっとこれは傷の一部か何かで――



「魔族」



 背後から、一切の感情を排した声が降ってきた。



「ま、ぞく……」



「擬態。人間に化ける魔族もいる。……死ねば、解ける」



 擬態。

 つまり、生きている間はこの角も紋様も隠されていた。私が見ていた「ラーク」は、最初から――

 視線がミナの方へ吸い寄せられた。同じだった。あの小さな頭にも、黒い角が二本。背中には禍々しい紋様が広がっている。

 でも――顔は、ミナのままだった。「お姉さん」と笑いかけてくれた、あの顔のままだった。角が生えていて青黒い模様が浮かび上がっているだけ。それだけなのに、決定的に何もかもが違う。

 そして――ふと、気づいてしまった。

 あの風穴。あのねじ曲がった首。

 それを、この華奢な手でやったのだ。二人まとめて、一瞬で。

 背筋を、氷の指が這い上がった。



「でも……だって……この子、私にスープ作ってくれて……ラークは、ポーション分けてくれて……」



 必死にしがみつく。仲間だったんだ。たった二日間だったけど、一緒に笑って、一緒に歩いて――



 彼女は答えなかった。

 ただ、その赤い瞳が冷たく動いて、ラークの右手を示した。

 抜き身の大剣が、握られたままだった。その切っ先は――私の寝袋の方を、向いている。



「あなたを殺すつもりだったようだけど」



 淡々と。事実だけを、突き刺すように。

 その一言で、頭の中の何かが弾けた。



 ――殺す。



 私を?

 ラークが? この剣で?



 薄れゆく意識の中で聞いた、あの会話が鮮明に蘇った。

 ――『本当に、やるのか?』

 ――『仕方ないでしょ。私たちは、そうやって生きてきたんだから』

 ――『……あいつは、いい奴なんだけどな』

 あれは――私を殺す相談だったのか。

 「あいつはいい奴」。そう言いながら、この剣を握ったのか。



 金貨五枚。破格の報酬配分。「お前さんに六割だ」。初対面の相手にそこまでする人間がいるか。いるわけがない。

 予備のポーション。温かいスープ。「お姉さんのことが好きなんです」「ずっと一緒にいたい」。

 全部――餌だ。油断させて、人目のつかない場所に連れ出すための、口実。膝が砕けるように折れた。



「……ここ周辺で行方不明者が続出してるって……ラークが、言ってた」



 自分の声が、どこか遠い場所から聞こえる。



「ガルムの仕業だって……でも……そんなのは……最初から……」


「……鈍くはないようね。ガルムなんてこの森には出ない」



 彼女の声が、最後の蓋を開けた。

 ガルムなんていなかった。最初から。じゃあ――行方不明者は、誰が消した?

 人を森の奥へ連れ込んで、殺す。証拠も、目撃者も残さない。だから「行方不明」になる。

 この二人が――ずっとそうやって、人を。私だけじゃない。何人も、何人も。同じ笑顔で、同じ優しさで、同じように森に連れ込んで――



「……全部、嘘だったんだ」



 声が、自分のものとは思えないほど空っぽだった。

 頭の中が真っ白になっていた。さっきまで次々と蘇っていた記憶が、今はもう何も浮かんでこない。全部分かってしまったら、思い出す意味すらなくなった。

 なのに、私はそれを疑いもしなかった。

 ――なんであんなに簡単に信用したんだろう。

 初日から「好き」だの「ずっと一緒にいたい」だの。普通なら警戒するのに、妙に心地よくて、まったく疑わなかった。報酬配分がおかしいと一瞬思ったくせに、結局は丸め込まれていた。

 あれは……おかしい。



「なんで信じちゃったんだろう……」


「……精神干渉」



 彼女が短く呟いた。



「小さい方。判断力を鈍らせる術式の残滓がある」



 たった二言で、全ての辻褄が合った。

 ミナだったのだ。あの無邪気な笑顔の裏で、ずっと私の頭を弄っていた。

 騙されていた。自分を殺そうとしていた化け物を、家族のように慕っていた。しかも、魔法で思考を歪められながら。

 自分の救いようのない愚かさに、吐き気がした。

 地面に手をついたまま、動けなかった。何秒経ったのか、何分経ったのか、分からない。

 ただ、夜気だけが頬を撫でていた。不意に、金属が擦れる硬質な音がした。

 彼女は無造作に腰の短剣を抜くと、二人の亡骸に歩み寄り、躊躇なくラークの角を根元から切り落とした。ゴリ、という鈍い音が響く。続けてミナの角も。計四本の黒い角が、血に濡れた地面に転がった。



「……何してるの」


「角は売れる」



 それだけ言って、彼女は四本の角を無造作に革袋に放り込んだ。



「……勘違いしないで。あなたを助けたんじゃない。魔物の駆除をしていたら、ついでに生き残りがいただけ」



 突き放すような物言い。けれど、その冷たい言葉の裏に別の意図があるのかどうか、今の私には判断がつかない。

 ただ、事実として。

 私はこのエルフに、二度も命を救われた。



「……ありがとう」



 絞り出すような声だった。

 ルミナリエルフの彼女は、意外なものを見たかのように、わずかにその赤い目を見開いた。



「……生きてる。あんたのおかげで、二回目だね」



 絶望と、裏切りのショックで心はボロボロだ。でも、彼女が来なければ私はあの大剣で殺されていた。それだけは、認めなければならない。

 彼女の赤い瞳が、一瞬だけ私の顔に留まった。何かを測るような、あるいは確かめるような間。



「……ふん」



 ぶっきらぼうに視線を逸らし、鼻を鳴らした。

 血に汚れた手をローブの端で乱暴に拭いながら、聞き取れないほどの小声で呟く。



「……勝手に助かっただけ」



 その声は、冷徹な仮面がわずかにほころんだような、不器用な響きがあった。



「……あの二人が魔族だって、どうして分かったの……」


「……魔族の気配がした。それだけ」



 淡々と答えるその横顔には、疲労の色はまったく見えなかった。

 こんな深夜に単身で森に入り、魔族を二体始末し、返り血を浴びてなお表情一つ変えない。

 人間とは、根本的に違う生き物なのだと、改めて思い知らされる。



「じゃあね」


「え、待って! どこへ行くの?」


「王都に戻る。こんな魔族の死臭が漂う場所に、一秒だって居たくない」



 彼女はくるりと背を向け、迷いのない足取りで歩き出す。

 数歩進んだところで、振り返ることなく冷たく言い捨てた。



「……魔族の死体の隣で朝を迎えたいなら、勝手にすれば。着いてくるなら……足手まといは置いていくけど」



 突き放すような誘い。でも、それが彼女なりの「保護」なのだと、今の私には分かった。

 私は溢れる涙を乱暴に拭い、立ち上がった。

 荷物をかき集め、震える手でリュックを背負う。

 背後に残されたのは、かつて仲間だと信じた者たちの亡骸と、燃え尽きかけた焚き火の残り火。



 ――「あいつは、いい奴なんだけどな」



 ラークの声が、また頭の中で響いた。

 あれは、演技だったのだろうか。本心だったのだろうか。

 道中で聞いた、くだらない冒険の失敗談。腹を抱えて笑ったのに。

 あの馬鹿みたいな冒険譚も、全部作り話だったのだろうか。

 それとも、本当にあった思い出を、私に語ってくれていたのだろうか。



 分からない。もう、確かめる術はない。

 私の心に刻まれたのは、消えることのない裏切りの傷と。

 「見抜けなかった自分」への、深い絶望。

 そして、夜闇に消えていく、不器用で傲慢なエルフの背中だけだった。

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