残っているのは愛か情か
泣いたあかりを颯が部屋まで送っていったのは必然だった。そのまま慣れた様子であかりの部屋に上がってくるのも、唇が重なるのも。
前回すんでのところで邪魔が入ったことを根に持っているかのように、颯は執拗に唇を重ねてくる。
「はや……てさっ……んっ!」
角度を変えるために一瞬触れているところが離れたタイミングで口を開くあかりだったが、颯は黙れと言うように再び唇を塞がれる。
今度は、歯列を割って舌が入ってくる。
厚みがあって、でも繊細にあかりの舌を捉える颯のソレは、慣れ親しんだモノであってキューッと胸が締め付けられる。
颯とキスをするのが好きだった。電子タバコ独特の香りをまとわせながら、半ば強引に唇を重ねてくる彼が好きだった。
なのに。
(理貴のとは……違っ……)
頭にその言葉がよぎった瞬間、あかりの体が不自然に跳ね上がった。
やっと口を離した颯は、彼にしては珍しく不快そうに眉を寄せた。
「妬けるな」
そう言って三度塞がれた唇は、容赦がなかった。
舌を絡めたかと思うと、上の歯の裏側を舌先で突かれる。背筋にゾクッとした感覚が走ったかと思うと、膝から力が抜けた。
頭の後ろと腰に回された颯の腕のお陰で崩れ落ちることはなかったけれど、あかりは彼に体を預ける形になってしまう。
「ふっ……んっ!」
あかりの口から漏れる声に、颯はますます責め立てるように舌を絡める。
自分とのキスの感覚を忘れていたのを、理貴との口づけを先に思い出したことを叱るように、颯は強引に、でも一つ一つあかりの記憶を引きずり出すように丁寧に口内を弄る。
執拗といっていいくらい丁寧な颯の口づけに、様々な思い出が呼び起こされる。
初めて颯とキスをしたこと。元カレともキスはしたことがあったのに、颯とのキスは彼らとは全然違って、震えるほど幸せだったこと。
口の中に性感を刺激するポイントがあることも、キスの時舌を絡ませるやり方も、自身の体の気持ちいいところも、それこそあかりから見えないところにあるホクロの場所まですべて颯に教えられた。
たった二年の付き合いでしかない。仕事ですれ違うことも多かったのに濃密だったと思うのは、時間がない中、颯が必死にあかりのための時間を捻出していたからだ。たとえ十分しか会えなくても、颯はその時間をあかりのために使うのだ。
だから、あかりも会えない日が続いても文句はなかった。むしろ自分より忙しい颯が寝る間を惜しんで会いに来てくれる事実に愛されていると喜んでいたし、別れても彼以上の人物は現れないと思っていたのに。
今は颯と同じくらい、理貴の姿が頭にチラつくのだ。
あかりはそんな中途半端な自分の存在を今すぐ消し去りたくなる。
二ヶ月前までは颯が好き、と自信を持って言えたのに、今すんなり口から出てこない自分も。それなのに唇を許している自分も。颯と理貴を両天秤にかけてフラフラとしている自分も。
今の自分は大嫌いで、それなのに颯と理貴の優しさに甘えている。
不甲斐なくて、気づいたらあかりの目には一度止まったはずの涙が滲んでいた。
唇を離した颯は自身の手のひらであかりの涙を拭うと、呟いた。
「泣くな」
優しい声色が、あかりの涙腺を崩壊させた。
今は外じゃなくて家だと、一度気が緩んでしまったあかりの涙は止まる気配を見せなかった。
しゃっくりと嗚咽を上げながらむせび泣くあかりをゆっくりと胸に抱きとめた颯は、もう一度静かに呟いた。
「泣くな。困るだろうが」
そのぶっきらぼうな言い方は、いつもの颯らしくてますますあかりの涙が止まらなくなる。
颯はふぅ、と息を吐く。鬱陶しいそうなため息ではない。なぜなら吐き出した息の中には、迷惑な感情は全く含まれていなかったからだ。
子どもをあやすように、颯はぽんぽんとあかりの頭を軽く撫でる。颯は、胸の中で嗚咽を漏らすあかりを抱いている腕に力を込めた。
「違うな。……困らせているのはオレのせいだから、好きなだけ泣け、が正しいか」
そんなことを言われるとますます涙が溢れてくる。あかりは少しでも颯に泣いている姿を見られたくなくて、自ずと彼の胸に縋り付くようになってしまう。
二ヶ月前までと変わらない颯の胸。抱かれていると、幸せだった記憶ばかり思い出されて、更に泣けてきた。
颯は涙でぐちゃぐちゃなあかりを抱きしめながら独りごちる。
「腹立たしいな」
ポツリと呟かれた颯の言葉はあかりの体に直接響いてきた。ビクリと肩を震わせるあかりとは反対に颯の腕に力が込められた。
「大切なのに一度手放したオレ自身も。短期間にすんなりあかりの心に入ってきた新しい男も。だが……」
あかりの頭上で颯は少しだけ安心したように笑った。
「全くオレに見込みが無いわけじゃないようだな」
あかりは肯定も否定もしなかった。それは颯の言を暗に認めていることに他ならない。
颯は、そっとあかりの頬に触れる。先程までの彼らしくない性急さはすっかり鳴りを潜めていて、いつもの颯に戻っていた。
「あかり」
静かに呼びかける颯にあかりは顔をあげた。
「比べていい。迷っていい。けれど……」
一旦言葉を区切った颯は、あかりを見据えた。あかりは颯から目を逸らせなかった。射すくめるような視線の中には、あかりへの想いと、手放した後悔、理貴という男への嫉妬が混じっていた。
「いや、何でもない」
颯はその先の言葉を飲み込む。彼が何を言おうとしたのか、付き合っていたあかりとてわからないはずはない。敢えて口にしなかったのは、颯の優しさだ。
颯は何でも卒なくこなすのに、ある一定のことだけとことん不器用になる。
付き合っていた時には可愛く映り、そんな颯を好ましく思っていた。
颯が「オレを選べ」と言ってくれなかったことにあかりの心の奥底に何かが沈んでいく。あかり自身も明確には気づいていないくらいのかすかな心の動き。
だが、その瞬間に何故か悟ってしまったのだ。
(もしかしたら私は颯さんより、理貴に……)
その先は強制的に考えることを辞めた。
きっと、好きだと熱心に言ってくれる男が現れて浮かれているだけだ。
颯も――別れてからは違うが――ダイレクトに想いを伝えるタイプではなかったから、理貴の言葉が聞き心地よく響いているだけ。
たった二ヶ月で二年以上惚れていた気持ちが変わることなどあり得ない。
自身の気持ちを打ち消すかのように、あかりは颯に懇願したのだ。
「抱いてください」
と。
喉を鳴らした颯の顔が、一気に男の顔に変わったのを見て、あかりは何故か胸が苦しくて堪らなくなったのであった。




