兄の暴言と弟の苦言
あかりが母親との話を終えて台所を出ると、とっくに帰ったと思っていた雅人が声をかけてきた。
「こっちに来い」
横柄な言い方をしながら指で広縁を指す雅人に大人しく従ったあかりは、腰掛けながら隣で電子タバコを取り出す兄を見つめる。
憎たらしいことに吸っている銘柄は彼と同じだ。燻らせている匂いを嗅ぐと、一瞬で颯のことを思い出される。
兄はゆっくりと一本吸い終わると、二本目を口に咥えた。一口吸い、吐き出した息と共にあかりに質問をする。
「山科の生い立ちは知っているか?」
「生い立ち?」
あかりは聞き返す。雅人は呆れたような目であかりを見返した。
「バーカ」
「なっ……!?」
「何も聞いていないのに、よく恋人面できていたな」
突然の兄の暴言にあかりはムカッと腹を立てる。兄はあかりのことなど気にもかけず、スパスパと残りを吸い切ると立ち上がった。
「じゃあ、俺行くわ」
サッサと立ち去っていく兄の背中を呆然と見ながら、あかりは一人呟いた。
「なによ……それ」
とはいえ、あかりの心に雅人の言葉は深く突き刺さったのだった。
※
「あかり、聞いてる?」
「……聞いてる」
あかりは上の空で答えながらじゅうじゅうと肉を焼く。
祖父と父母に挨拶して家路に急ごうとしたあかりは、帰り際に幸人に捕まったのだ。そして焼肉屋まで引っ張り込まれた。「久しぶりに会ったんだぞ」という幸人は、あかりに奢らす気満々だ。文句をいうと「俺の方が階級が低い」と威張る始末だ。
まだ巡査の幸人と比べると、巡査部長のあかりの方が階級は高い。渋々ながら奢ることに同意した途端、幸人はちゃっかり一番高い食べ放題のコースをオーダーしたのだ。
飲み込むように食べている幸人を見ると、一番下のコースでも良かったのではと思わなくもないが、いい食べっぷりを披露している弟にツッコむ気力は残っていなかった。
それに出来上がった肉は片っ端から幸人の腹に入っているのだ。今度こそは奪われてなるものか、と真剣に肉とにらめっこしているあかりに幸人は問いかける。
「理貴とキスしたんだって?」
「なっ……」
突然ぶっ込まれた事実に驚いたあかりが顔を上げた瞬間に、幸人は肉を掻っ攫う。あぁ、と切ない声を上げながら肩を落としたあかりは、再び肉を網に乗せながら幸人を睨みつけた。
「何でも筒抜けじゃん」
「そりゃあそうでしょ」
幸人は当たり前だというように返事をする。
「あかりは理貴がどんだけ想っていたのか知らないから。……こんながさつな女、何度も辞めとけ、って俺の忠告も聞かないし」
深いため息をつく幸人に腹が立つが、追求すると話の腰が折れる。あかりは言葉を飲み込んで幸人に訊ねる。
「理貴が警察庁に合格してたってホント?」
「ホントホント」
もぐもぐと口を動かしながら幸人は答える。
「受かったのになんで蹴ったのよ?」
あかりは当然の疑問を幸人にぶつけた。だが幸人は「さぁ?」ととぼける。
「知ってるでしょ、アンタ。しらばっくれないの!」
あかりの強い口調などに動じる幸人ではない。さも当たり前のようにあかりの焼いた肉を横取りすると、幸人はシンプルに答えた。
「自分で聞け」
「それができないから……」
聞いているんでしょ、と続けようとした言葉は、幸人の鋭い目に黙殺された。
「姉ちゃんは知らないんだよ」
十何年ぶりかに、弟に姉呼ばわりされたあかりは気持ち悪さに固まる。あかりが硬直している隙に幸人はコース外のメニューをちゃっかり頼む。
「ちょっ……何してんのよ!?」
あかりの叱責をよそに、幸人は運ばれてきた上カルビを網に乗せると丁寧に焼き始めながらポツリと呟いた。
「あいつがどれだけ姉ちゃんに捕らわれていたのか知らないだろ」
「……」
知るわけないと一刀両断にするには、幸人の声はやるせなさに満ちすぎていた。あかりは口を噤むと幸人が皿に乗せた肉を食べる。高いはずの肉なのに、味はしなかった。
「モテるんだよ、理貴って」
あかりは頷く。あのルックスに高学歴に加えて若手実業家、社長という肩書もある。モテない方がおかしい。だからこそ、疑問なのだ。なぜ自分に執着しているのか。
その答えを幸人がくれる。
「なのに気持ち悪いくらい姉ちゃんのことを一途に想ってさ。あいつだって忘れようと他の女と付き合っていたこともある。けど選ぶのはあかりに似た女ばかりだし、結局は長続きしないし」
幸人は深くため息をつく。
「理貴は反省してたよ、あかりに無理やりキスしてしまったって。けど俺に言わせれば理貴をそこまで追い詰めたのはあかりだ」
幸人の言い分はめちゃくちゃだ。わかっていたが、あかりは自身を責めた。
理貴に言い寄られて、悪い気はしなかったからだ。むしろ優越感を感じていたし、颯に振られた心の穴を埋めるために理貴を利用していた自分がいたからだ。
あかりの箸が止まったのを見て、幸人も自身の手を止めた。あかりに鋭い視線を送りながら、幸人は苦言を呈した。
「気持ちがないなら早いとこ振ってやれ。それもこっぴどくな。じゃないと理貴はずっと前に進めない」
友を慮る幸人のセリフに、あかりは何も言えなかったのだった。
※
いつもより早い時間に家についたのに、疲労感は強い。あかりは引きずるようにリビングに来るとノロノロと服を脱いだ。
身内だけだから、と礼服ではなく着慣れているスーツを着ていったあかりだったが、いつもより服が重く感じるのは心が疲れているせいだろう。
雅人の小馬鹿にしたような暴言と、幸人の苦言。
颯にも理貴にも中途半端な態度を取っているあかりにとっては、どちらの言い分も心に重く響いていた。
自身にそんなつもりがなくても、やっていることは二人を弄んでいるのと同義だ。恋愛経験が少ないなどと言い訳はもう通用しない。
真剣に想いを向けてくる彼らに向き合って、きちんと結論を出さないといけない。
颯に別れ話をした時以上に悩ましいことだ。けれど、結論を出すのはあかりにしかできない。
「はぁ……」
それでも今までの拙い恋愛経験しかないあかりにとっては、一人で抱えるのにはキャパオーバーする事案であった。
誰かに縋りつきたい。第三者に悩みをぶちまけたい。
「あ……」
あかりの脳裏に一人の人物が思い浮かぶ。彼に相談するのがベストかどうかは疑問なところがあるが、藁にもすがりたい気持ちであかりはその人物に相談することにしたのだった。




