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次の日の朝、志十菜は朝食を作るときに、料理がうまくなる魔法をかけてもらおうかと思ったが、材料がなかったのでやめておいた。父親は朝食が無いことに文句を言っていたが、幸運なことに殴られず、はたかれただけですんだ。少し寝坊して、じっくり怒っている時間が無かったのだ。


 学校では、全く友達のいない志十菜だが、いじめられてるわけではない。存在感がないのだ。いつもは教室で一言も話すこと無く一日が終わるが、今日は小声で妖精と話していた。近くにいた生徒に話が聞こえてしまって、なにか言った? と聞かれることが有ったため、妖精に密着して話すように頼んだ。うっかり食べてしまいそうなほど近い。


 先生が教室に入って来ると、日直が号令をかけ、起立、礼、着席をさせた。担任の先生は、少し太り気味の女性だった。仕事になれていて、ほとんどの行動に慣れと癖があり、ツバをつけてプリントを配る癖が不評で、それ以外は好評な先生だった。先生がテストの束を教壇に置いたことで、今日の一時間目はテストだと、志十菜もふくめて生徒たちが気づいた。志十菜は早速、妖精に頭を良くしてくれるように小声で頼んだ。しかし、妖精が言うには、頭がいいにも種類があり、ノーベル賞を取れるくらいか、テロリズムで国家転覆を図れるくらいか、タイムマシンを作れるくらいかと聞いて来た。


「じゃあ、次のテストで100点取れるくらいがいい」

「うん、それぐらいなら全然OKよ! 正直、ノーベル賞を取るとか、テロ出来るとか、タイムマシン作れるくらいって言われてたら、無理って言ってた」


 志十菜は、じゃあ何故聞くのだろうと思っていたが、100点が取れる事に安心して、妖精の無駄な質問はスルーした。妖精は志十菜に対して、右手をかざし「えい!」と言った。それだけで魔法は完了したようだ。


 相変わらず地味な魔法だと思いながらも、志十菜はワクワクしていた。テスト用紙を一枚取り、余った用紙を後ろの生徒に渡しながら、今日はテストがものすごく簡単に思えるんじゃないだろうか、とか、思考に翼が生えたように問題を快適に解いていけるんじゃないかとか考えたが、そこは地味な魔法だ。いつもと同じ感覚だった。


 テストは算数だ。志十菜は常に90点台を取っていたが、満点を取った事は無かった。99点でも父親は文句を言い、機嫌の悪い時には殴ってくる。100点を取らなければ殴られる。そんな恐怖が、志十菜にプレッシャーを与え、吐き気まで催すのだ。しかし、本当に吐いてしまうと、保健室に運ばれて、父親を呼ばれる。そして迎えに来た父に怒られ、蹴りを入れられた経験から、吐くという事だけはあってはならないと自分に言い聞かせて、食道あたりに力を入れる。そのせいでテスト中はいつも息苦しかった。魔法をかけて貰った今でもその感覚は抜けていない。


 テスト問題を解き終えると、志十菜は天井を見上げ、全力疾走していたかの様に、息を荒げ、汗を流していた。先生がそれに気付き、大丈夫かと聞いて来たが、いつもの事だし、大丈夫と答えないと保健室に連れて行かれ、父親を呼ばれるかもしれないという恐怖があった為、平気ですと答えた。


 休み時間になると、誰にも話しかけられない様にと、志十菜は机に突っ伏して腕を枕にし、寝たふりをした。その顔と机の間に妖精がわりこんできた。


「テストどうだった?面白かった?」

「え? いつもと同じ感じにしか思わなかったよ……」


 志十菜は、机に突っ伏して妖精と話すのは、他の生徒に気付かれにくく、名案だと今思った。


「あのね、あなたの頭をどのくらい良くすれば、100点取れるかわかんなかったから、結構強い魔法かけちゃった! 代償きつかったらごめんね」


 妖精は語尾にハートがつきそうな口調で、片目を閉じ、笑顔で舌を出した。いわゆるテヘペロと言われる行動である。志十菜は、じわじわと不安感が湧いて来た。


「その代償って、いつ払うの?」

「魔法が終わったらよ。今の魔法はテストの間だけだから、もう代償とらせてもらうからね?」

「代償ってどんなの?」

「今回は頭を良くしたから、頭が悪くなる代償よ」


 志十菜は鼓動が高鳴っているのを感じた。もちろん良い意味ではない。休み時間終了のチャイムが鳴り、先生が入って来ると、その不安は増大した。先生がまたテスト用紙を持って来たのだ。次の授業もテストなのだ。テストが配られ、その用紙を見ると、志十菜の鼓動は脳天にまで届き、体を震わせた。


 全く字が読めなかった。


 名前記入欄の枠だけはかろうじて見えるので、名前だけは手癖で書けたが、本当に書けてるかも分からない。さらに悪いことに、これは国語のテストの様で、物語を読んでから問題に答えるというものだった。志十菜の視界は、全てにぼかしがかかった様に見え、字を理解することなど不可能だった。心臓が胸を突き破ろうと鼓動を高め、それを抑えようとして、胸に手を当てると、自分の手が震えてる事が分かった。鉛筆を持つ手も震え、呼吸は溢れ出る不安を体外に出そうと必死になっている様で、吸う量が圧倒的に少なくなっていった。ついに吐き気が襲って来て、志十菜は口を両手で塞いだ。


 吐いてはいけない。


 志十菜は、嘔吐しない為に、体を丸め、目も口も鼻も力一杯閉じ、自分の出口になりそうなものは全て塞ぐ勢いで体中に力を込めた。お陰で吐くことはなかったが、そのままの体勢で気を失い、バランスを崩し、椅子から転げ落ちた。この異常に気付かない教師はいないだろう。先生が志十菜の名を呼び、駆け寄ってくる。妖精はそれを見て「代償はこのくらいにしといてあげるわ」と言い、志十菜に向かって左手をかざした。


 保健室のベッドは弾力があり、暖かく、とても寝心地がいい。カーテンに囲まれているので、プライバシーも守られる。それを楽しみながら、妖精は志十菜を暖めている掛け布団の上で寝ていた。志十菜がゆっくりと目を開け、天井を見つめる。ここが保健室だと気付いた志十菜は、勢いよく起き上がり、妖精を吹っ飛ばした。妖精はカーテンに受け止められ、床すれすれまで落ちていったが、途中で飛行を開始し、文句を言いながら志十菜の顔近くまで飛んで行った。


「妖精さん、テストは? 私どうなったの?」

「テストは大丈夫よ、また受けられるってさ。あなたはどうか知らないけど。ああ、そうだ。気を失ったのは代償じゃ無いからね? あなたが勝手にストレスを感じ過ぎただけだから」


 妖精は、誰も攻めていないのに、私悪くないという態度を貫いた。そんな妖精の言葉を聞いていると、カーテンの向こうから先生の声が聞こえた。


「桜木さん、起きたの? 入っていい?」

「あ、はい」


 答えると、カーテンを開け、先生と保険医(養護教諭)が入って来た。保険医は聴診器などで志十菜の体をチェックした後、異常なしと判断したが、今日はもう帰った方が良いと言った。


「じゃあ、お父さんに迎えに来てもらおうね?」


 先生がそう言うと、志十菜は絶望した。


「呼ばないで!」


 先生も妖精も、志十菜の声に驚き、目を見開いて呆然とした。志十菜が話すときは小さな声で自信なさげに喋るのが定番で、目を合わせる事も苦手だった。その志十菜が、先生の目を真っ直ぐに見つめ、懇願している。


「先生、お願い。お父さんを呼ばないで……」


 先生は、志十菜が普通の精神状態ではない事を直感した。普通の子供なら、早く、しかも車で帰れるという特別感に(気付かれないよう)喜ぶものだ。しかし、志十菜の目は悲愴と恐怖に染まっており、小柄な体は震えている。先生が「どうして?」と聞くが、志十菜は視線を落とし、答えない。先生は志十菜の隣に座り、肩を抱いた。体の震えが感じられる。


「お父さんを呼んじゃだめな理由があるの?」


 先生の中では、すでに答えは決まっていた。しかし、質問に答える志十菜の表情を観察し、確実な結論を得る為、この質問をしたのだ。


「あの……お父さんは仕事で……忙しくて……」


 先生はベテランである。志十菜が話し始める前から、嘘をつこうとしてる、と見破っていた。視線は落ち着きがないし、手は空気をこねているし、呼吸は荒い。それを見た妖精は呆れて、志十菜を挟んで、先生の反対側に陣取った。


「あんた、嘘だってバレてるよ! 父親に怒られるのが怖いなら、魔法を使いなさい。父親に優しくなる魔法かけちゃいなさい!」


 志十菜は、想像は出来ないが、本当の事がバレると大変な事になる事は分かっていた。嘘も下手だと自覚している。これ以上嘘をつくことは、真実へのヒントを吐きまくってるのと同じだ。それを直感で理解して、志十菜は妖精の助言を受ける事にした。志十菜が魔法を頼むと、妖精は右手でオーケーサインを出し、その手を天にかざした。


「先生……やっぱり大丈夫です。お……お父さんを呼んでください」


 志十菜は、少し後悔していた。魔法を使った事にではなく、父に怒られたくないが為に、先生に嘘をつこうとした事にだ。罪悪感ではなく、下手くそな嘘で先生を騙せると思っていた自分を責めていたのだ。


「そう? いいのね? じゃあ先生、お父さんに電話するからね」


 今さら志十菜が、父親を呼ぶ事に賛成しても、先生の頭の中から児童相談所の文字が消える事はなかった。先生がカーテンを開け、出口に向かった。志十菜は先生が保健室から出て行くのを、カーテンから顔を出して確認し、保険医の方を見た。保険医は机で頬杖をつき、何か書類を書いていた。志十菜はベッドに座り、ため息をついた。


「ねぇ、お父さんを優しくする魔法の代償ってどういうのなの?」

「うーん、大体逆の魔法をかけるからぁ、いつもより怒りやすくなるかもね」


 それを聞いた志十菜はうなだれて、小さくため息をついた。父親から殴られたり、蹴られたりの暴力や、自分の無能に対する暴言を想像しているのだ。


「大丈夫よ。あなたいつもぶっ飛ばされてるんだから、少しぐらい強くぶたれてもどうって事ないわよ。それに今回は軽くしか魔法かけてないから、代償も軽くしてあるから!」


 志十菜の心境を察して、妖精がフォローした。もちろんフォローになっていない。志十菜はベッドに横になり、妖精も隣に向かい合って寝転んだ。しかし、志十菜は悪い想像ばかりが頭のなかを駆け巡り、眠る事が出来なかった。頭を覆うように布団を被っても、悪い未来が脳に入ってくるのが止められず、涙がにじみ出ていた。


「悪いことばかり考え無い方がいいよ。せっかく魔法で優しくして貰えるんだから、その時間をどう楽しむか考えなさいよ。人生なんて、楽しめる時に楽しまないと損なのよ?」


 妖精がやっとアドバイスらしい事を言った時には、先生が保健室を出て行ってから、二時間近く経っていた。その時、保健室の扉が開く音がして、カーテンの向こうから先生の声が聞こえた。


「桜木……あ、志十菜さん。お父さんが迎えに来てくれたよー」


 先生はいつも、志十菜の事を桜木さんと呼んでいるが、今回は桜木が父親にも当てはまる為、志十菜さんと言い直した。それを聞いた志十菜は、ゆっくり起き上がり、ベットの下にあったスリッパを、まるで履いたら火傷するのではないかと思うほど、おそるおそる履いた。その間に、保険医と父親の会話が聞こえて来た。何を話しているかはわからない。


「志十菜さん。大丈夫?」


 あまりに時間をかけたせいか、先生が心配してしまったようだ。志十菜は「今行きます」と声をかけて、カーテンをゆっくりと開けた。先生と目が合った。


「大丈夫?まだくらくらする?」

「いえ、大丈夫です」


 正直なところ、まだ頭が重い感覚はあったが、歩くのには支障が無いと考え、志十菜は答えた。保健室の奥では、まだ保健医と父親が会話をしている。父親は保健医の話に礼儀正しく、うなづきながら聞いている。


 志十菜は、保健医の話を聞いている父親を見て、違和感を覚えた。明らかに背格好は作業着の父親なのだが、動きがいつもより大袈裟で、機敏な気がするのだ。うなづきの幅が大きく、速い。声もいつもよりハキハキしている。いつもは何をしても鈍重で、最小限の動きしかせず、話す時は唸るような声しか出さないのにだ(志十菜に暴力を振るう時は別)。機嫌がいいのだろうか。


 保健医との話が終わり、振り向いた父親の顔は笑顔だった。それを見た志十菜は少しだけ、胸の締め付けが緩んだ気がした。いくら父親でも、先生の前だと礼儀正しく、怒ったりはしないのが普通だが、特別笑顔でいるわけでは無い。今回の笑顔は、魔法による効果としか思えなかった。


「じゃあ志十菜、帰るか?」

「うん」


 父親の笑顔に違和感を感じつつも、魔法の効果だと納得し、志十菜は父親が差し出した手を取った。そして、気付いた。人と手を繋いで歩く事が久し振りか、初めてだという事に。父親の手は、力強く志十菜の手を包み込んでいる。もし本気で握られたら、志十菜の手は粉砕されるだろう。そんな事を考えてしまう志十菜は、自分の異常性を疑い始めた。普通の子は、親と手をつなぐ時に、自分の手が握り潰される心配なんてしないだろう。自分は頭がおかしいのかも知れない。そういう具合にだ。


 学校の裏門に父の車が停まっていた。中古で買ったシルバーのセダンだ。型は古い。この車に乗るのも、志十菜の記憶の中では初めてだ。


「シートベルト締めろよ」

「はい」


 父に言われ、シートベルトを引っ張った時、志十菜は何か違和感を感じた。今まで嗅いだことのないような匂いである。臭いとかいい香りではなく、区別のつきにくいツンと鼻にくる匂いだった。しかし、車に乗るのが初めてだったので、車の匂いだろうと思い、シートベルトを締めた。


 車を運転している父は、見たことがないほど上機嫌で、ラジオから流れる音楽に合わせて鼻歌を歌ったりした。妖精は、運転席のヘッドレストに捕まり、それをヘラヘラと笑いながら見ていた(下手だと思っているようだ)。


「お前テスト中に倒れたんだって? 保健室の先生が言ってたけど、緊張し過ぎが原因かも知れないってさ。テストだからって気ぃ張りすぎんなよ?」

「あ……はい」


 自分が原因だという事を、考えもせず語りながら、父はタバコをくわえた。


「何を偉そうに、てめーが原因だっつの!」


 妖精が悪態をつく。聞こえるはずもなく、父はタバコに火をつけた。父が二、三回煙を吹くと、咳をし始めた。空咳で、なかなか止まらない。


「大丈夫?」


 志十菜は、心配で声をかけたが、父は手の平で大丈夫と返事をした。「タバコをやめた方が良いんじゃない?」と言いたかったが、怒られる可能性がある為、やめておいた。


 咳がおさまると、父は何かに気付き、道を変更した。


「そういえば、飯の材料が無いって言ってたよな。買いに行くぞ」

「はい」


 反射的に返事をしたが、よく考えると父と買い物に行くのは初めてだ(志十菜の記憶の中では)。志十菜は何に期待しているのかも分からず、少し胸が踊った。


 車は家の近くのスーパーに停まった。このスーパーの駐車場からは、自分のアパートの部屋の扉が見え、二階以下は住宅に遮られ見えない。直線距離なら100m前後だろう。逆に言えば、自分のアパートを出てすぐにこのスーパーを見ることが出来たのだ。

 志十菜は一人の時、たまにではあるが、スーパーの客の出入りを遠目に見ていた。手を繋いでいる親子ばかりが目についてしまう。間近で見てる今も、その癖は顕在である。スーパーの入り口ですれ違った親子は、手を繋いでおり、子供の手にはソフトクリームが握られていた。その子は口の周りをベタベタにして、ソフトクリームに夢中になっていた。親に手を引かれていなければ、あさっての方向に進んでしまうほどに。

 志十菜はそのソフトクリームが気になっていた。バニラアイスの3倍もの値段がして、舌ですくえるほど柔らかい。多分甘くて冷たくて美味しいのだろうと思うが、それが想像力の限界だった。なにせ志十菜は100円のバニラアイスすら食べたことがないのだ(記憶の中では)。


「志十菜ちゃんソフトクリーム食べたいの? ほら、あそこのお店で売ってるわよー」


 志十菜の表情を読み取り、妖精が指をさしたお店は、入り口のすぐ側にあるファーストフード店だった。大きくソフトクリームの写真が貼ってあるため、言われなくても分かる。志十菜は、人前では妖精と話をしたく無いため、軽くうなづいた。


「何を買うかは任せるからな」


 そう言って父は買い物かごを持った。志十菜は、予算を聞くと、また怒られそうな気がして、自分の中で千円と決めた。


 まず、三食108円のチルド焼きそばを買い、1キロ108円のもやしを買う。そして食パン。これで今日の夕食と明日の朝食は大丈夫。あとは日持ちするインスタントラーメンや、乾燥スパゲティ、足りない調味料。これで一週間は持たせることが出来る。父も志十菜も少食だし、朝と夜の分だけなので、これで十分なのだ。


 妖精は高級な肉やデザートを指差して「これを買いなさいよ! じゃあこれは?」などと志十菜の邪魔をした。勿論無視するしかなかった。


 米を買っていないが、家の炊飯器は壊れていて、新調していない。炊飯器さえあれば、もっと献立作りが楽になるのだが、志十菜は炊飯器を買おうと言い出せない。いや、一度言ったことがあった筈だ。その時は、きっと怒られて否定されたのだろう。


 父はやはり機嫌が良いらしく、レジの手前で「これだけで良いのか? 何かお前の好きなものも買えよ」と言ってきた。志十菜は少し動揺した。自分が好きなものを買う価値のある人間とは思えなかったからだ。それでも、頭の中にソフトクリームがよぎり、入り口のあたりを眺めた。


「そうか、あれかぁ。良いぞ」


 志十菜は驚いた。まさか本当に買ってもらえるなんて思っていなかった。父が買い物の精算をしている間、志十菜は不安と期待の入り混じった感情で、鼓動が速くなっているのを感じ、ソフトクリームのお店を何度も横目で見てしまった。


 支払いを終えた父は、意気揚々とスーパーの入り口に向かって行った。ところが、父はソフトクリームのお店ではなく、隣のゲームコーナーにやって来た。ゲームコーナーは、ソフトクリームのお店よりも入り口に近く、奥にトイレがあり、無料の求人誌まで置いてあって、ゲーム機も3台ほどしかない。もし、ここに何も置いていなかったら、無駄に広い空間だと思うが、ゲーム機を三台置くには狭い場所だった。人通りも、トイレに行く人しかいない。


 父が目をつけたのは、一番手前にあったUFOキャッチャーだった。父は志十菜の背を押し、UFOキャッチャーの前に立たせた。


「ほら、やってみたいんだろ?」

「あ、いや、違くて……」


「ソフトクリームが欲しい」と言う前に、父は100円をUFOキャッチャーに入れてしまった。すると、UFOキャッチャーは、志十菜の鼓膜を破ろうと、耳障りな音楽を開始し、薬中の人間がハイになっている様な、明るさの限度を超えた声で、ゲームの仕方を説明し始めた。


「ほら、ゲームのやり方ちゃんと聞けよ」


 志十菜は意図せず、やりたくもないゲームをする羽目になってしまい、緊張を感じた。何せ、周りに人が居る中で、練度の低いことをしなければならないのだ。恥ずかしいし、父のお金を使っている以上、失敗は許されない。志十菜は、ソフトクリームが食べられるかもしれないと言う期待から、いきなり地獄に落とされた気分だった。これならむしろ、買ってもらったソフトクリームを一口も食べずに落としてしまった方がマシだった。


 しかし、ここで天の助けか。妖精がタイミングを教えてくれると言うのだ。


「私これ得意よ! ピッタリの位置で合図をするからね!」


 志十菜はうなづき、妖精の指示通りにアームを動かした。狙いは猫のぬいぐるみだ。妖精の合図は的確でちょうどぬいぐるみの真上にアームが止まった。アームはぬいぐるみに向かって下がっていき、その挙動に父も満足そうな声を挙げた。


 しかし、ぬいぐるみを抱いたアームは、力なくぬいぐるみの脇を撫でただけで元の場所へと戻って行った。妖精も父も開いた口が塞がらなかった。


「はあ!? 何これ? 力なさ過ぎじゃん! これを取れるのはUFOキャッチャーのプロか店員か強盗だけだよ。もうやめといた方がいいよ!」


 妖精が言う通り、アームの力はそれこそ、子供がソフトクリームを舐めるほどの力しかない。志十菜もこれは無理だと思った。それを父に言おうとした時、100円を入れる音が聞こえた。


「もう一回やってみろ」


 志十菜は父の顔を見た。明らかに苛立っている。また失敗したら、父に怒られてしまう。しかし、成功のイメージが全くわかなかった。志十菜の鼓動は速くなり、こんなゲームなどほっておいて、逃げ出したい衝動に駆られた。しかし、やるしかない。妖精も協力してくれるようだ。


 次は人形の幅のある部分。ぬいぐるみの頭にアームを掴ませた。だが、今回もアームはぬいぐるみを舐めただけで帰ってきた。妖精はアームを軽蔑していた。


「あの、お父さん……」

 

「もうやめよう」と言おうとした瞬間、ドンッ、という音が志十菜の鼓膜を震わた。。父がUFOキャッチャーのガラスを叩いたのだ。


 父は、もう一度鉄槌をガラスに喰らわせ、志十菜を押しのけて、100円を投入し、アームを操作し始めた。志十菜は次の反応を予想し、少し後ずさった。父の操作するアームはぬいぐるみを捉えたが、案の定、さらりと撫でただけで上昇した。父はパニックとも取れるほど激怒し、汚い言葉をはきながら、UFOキャッチャーのガラスに何度も頭突きを喰らわせた。ドンッ、ドンッ、と大きな音がスーパー中に響いた。


「こんなの詐欺じゃねぇか! 金返せ糞が! 糞が!」

「お父さん! 辞めて!」


 志十菜が父の腕を掴み、UFOキャッチャーから、離そうとした。しかし、志十菜の力では父を一歩も動かすことは出来ない。志十菜は視線を感じ、後ろを振り返ると、視界に入る全ての人達がこちらに注目していた。


「もういい! 私ぬいぐるみいらないから、帰ろう!」


 その訴えが効いたかどうか分からないが、父は勢いよく入り口に向かって歩き出した。志十菜はそれを小走りで追いかけた。


「買ったやつ忘れてるよ!」


 買ったものが、UFOキャッチャーの下置いてあった。志十菜は妖精の指摘に感謝し、急いでそれを取りに戻り、父親を追いかけて行った。

 

 父は家に向かう車の中でもイライラし、運転が荒くなった。家に帰ってからも、ブツブツと文句を言いながら、タバコに火を付けた。そして、まだ昼だと言うのに冷蔵庫からビールを取り出して、飲み始めた。昨日と全く同じ動作だ。もはや、家に帰ったら自動的にしてしまう癖なのだろう。


「妖精さん。本当に優しくなる魔法かかってるの?」

「そりゃそうよ。あなたには優しいでしょ?」


 確かに魔法をかけてもらってからは、一度も暴力も暴言も受けてはいない。


「あなた、優しくなる魔法って、人格とか知能を良くするものだと思ってた? 違う違う。馬鹿な奴は、馬鹿な価値観の優しさを出してくるのよ。さっきのは、あなたを喜ばせられないゲームに反抗する事が、あなたに対する優しさだと思っての行動だと思うわよ」


 妖精は父を軽蔑していた。志十菜はその軽蔑に反論する考えすら浮かばなかった。志十菜も自分を軽蔑していたからだ。

 優しくする魔法。そうは言っても、結局は自分の都合の良いように、父を操って欲しかっただけだった。恥ずべき事だ。


 台所でタバコを吸いながら、ビールを飲む父を見た。その時初めて、父を下らない人間だと思った。そして、その父から生まれ育てられた自分はもっと下らない。それは言葉に出来ない感情として、志十菜の心の奥底に暗く、濃く、溜まっていった。


 18時になった。志十菜は昼にスーパーで買った焼きそばを作り出し、父は昼寝から目覚めた。


 志十菜は小学五年生にしては、料理が上手い。物心ついた時からやっているのだから当たり前だ。説明書に書いてある通りに作るので、及第点の味にはなるものなのだが、父に美味いと言われた事は一度も無かった。


 出来上がった焼きそばを、台所のテーブルに並べ、父を呼んだ。父はだるそうに頭をかきながら台所へ来た。作業服のままだった。


「いただきます」と志十菜と妖精が同時に言った。妖精は当然のように、焼きそばの麺を一本取り、食べ始めた。志十菜は、妖精が手づかみで食べたので、少し驚いたが、妖精が「美味しいじゃん」と言ってくれたので、嬉しくなった。

 父もいつのまにか食べ始めていた。


「うん、美味い」


 父のその言葉に、志十菜は驚愕した。独り言のような発声だったが、確かに美味いと言った。志十菜は嬉しいのか、悲しいのか、よく分からない感情が胸に溢れてくるのが分かった。自分の存在が少しだけ肯定された様な気がして、嬉しい。しかし、そんな事で喜んでしまう自分が情けないのか? 明らかに体の反応は悲しみに近く、涙をこらえる事に必死で、焼きそばが喉を通らなかった。


「志十菜ちゃん、これ以上魔法を継続してると、代償で死んじゃうと思うから、魔法とくよ。いい?」

「え?ちょっとまって!」

「ああ、安心して。父親が眠ってる時は魔法の使用止めてたから、あなた損はしてないから」


 そんな事は問題ではない。心の準備がまだ出来ていなかった。しかし、そんな事はお構いなしに妖精は父に左手をかざし、魔法を解いた。


「そうだ、焼きそばにはビールだな」


 そう言って父は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。冷蔵庫をしばらくのぞいた父は、いきなり志十菜を睨みつけ、


「おい! ビールが無いぞ!」


 父の怒声に、志十菜はビクッと跳ねて、鼓動を加速させた。


「何でビールが無いんだ⁈」

「あ、あの……お父さん、昼に飲んじゃったから……」


 志十菜は座ったまま、父に顔を向けて答えたが、目は合わせられなかった。


「今日一緒に買い物行ったよな? なんでその時言わなかった?」

「あの……忘れてて……ごめんなさい」


 志十菜の目には涙がにじみ出ており、言葉はかすれ、まともに声が出ていなかった。そして、志十菜が何の言い訳も思いつかず、次の「ごめんなさい」を言おうとした瞬間、父の蹴りが腹に入った。


 志十菜は椅子ごと床に倒れ込んだ。鬼の形相で歩いて来る父に、志十菜は謝罪の言葉を繰り返した。しかし、言葉が通じない。父は志十菜を踏みつけ始めた。


「冷蔵庫の! 中身の管理は! お前の仕事だろうが!」


 父は、志十菜の腹、首、踏みつけられる場所は容赦なく踏みつけ、志十菜が身をよじって逃げようとすると、脇腹、肩を踏みつけた。最後に、トドメを刺すが如く、思いっきり足を振り上げ、志十菜のあばらを踏みつけた。


「ぎゃああああああああぁーーー!」


 今迄感じたことの無い痛みが、志十菜の体を駆け巡り、耐えきれない痛みは叫びとなって、志十菜の声帯を爆発させた。その叫び声は、アパート中どころか、近所中に広がり、その声はさらに父を逆上させた。


「近所迷惑を考えろクソガキ! 声を出すな!」


 父の怒声も十分に近所迷惑なのだが、そんな事は父には関係なかった。父は、痛みで体を丸めている志十菜の髪を掴み、顔を上げさせ、残っていたやきそばを、全て志十菜の口に突っ込んだ。志十菜の口は焼きそばを全て入れる事は出来ず、かなり溢れていたが、無理矢理押し込まれ、声が出ないどころか、息まで出来なくなった。


 声が出せなくなった志十菜を、父はまた蹴り始めた。腹に思いっきり蹴りを入れると、志十菜は嘔吐物とともに焼きそばを吐き出した。それを見た父は息切れしながら「片付けておけよ!」と一言言い、隣の部屋でテレビを見始めた。


 志十菜は意識が朦朧とし、身体中の痛みは感じるものの、自分の嘔吐物を片付けなくてはならないという義務感に、体を動かされ、ゆっくりと起き上がり、台所の棚のビニール袋を取ってきた。身体中が、動かすだけで激痛を感じた。歩く事も苦痛でしか無くなっていた。それでも、志十菜は嘔吐物をビニール袋につめ、床を雑巾で拭いた。


「志十菜ちゃん、ゲロ臭いよ。めっちゃ服についてるじゃん」


 妖精の言葉で、服や体にも、自分の嘔吐物が付いている事に気付いた志十菜は、シャワーを浴びることにした。脱いだ服はそのまま風呂場に持ち込み、服を洗いながらシャワーを浴びた。シャワーは志十菜の意識をハッキリさせ、痛みをも明瞭にした。普段なら気持ちのいいシャワーも、水が傷にしみ、拷問に近かった。志十菜は1、2分で風呂場から出て、洗った服を洗濯機に放り込んだ。明日他の服といっぺんに洗うのだ。


 やっとの思いでパジャマに着替えた志十菜は、体に振動を与えないように、ゆっくりと布団に寝た。当然、妖精も志十菜の横に、面と向かって寝転んできた。志十菜は息が荒いく、今にも気を失いそうだ。


「妖精さん」

「なぁに、志十菜ちゃん」

「お父さんが、私の作った焼きそばを美味しいって言ってくれたのは、魔法の効果なの?」


 志十菜は、どこを見てるかも分からない瞳で質問した。その質問に妖精は「やあねぇ志十菜ちゃん」とニッコリと笑い、言った。


「そんなの当たり前でしょ」


 志十菜はそれを聞いてすぐに眠りについた。涙が一筋流れていた。

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