あなたが隣にいてほしい
ある日の放課後、音楽室で楽譜の整理をしていたスピカの所へ、ポラールとカンセルが仲睦まじくやって来た。
「結婚式で、スピカ先生にぜひ歌をお願いしたいんですが……」
「歌?」
彼らの結婚式は三ヶ月後。同僚であるし、招待されたので勿論参加するつもりではいたが、なぜ急に歌なんて。
「去年スピカ先生、卒業式の時に『門出の歌』を歌ったでしょう。私、あれが忘れられなくて」
ポラールが意外なことを覚えていた。
卒業式の日、スピカは卒業生に向けて歌を贈った。冷めた生徒は「歌なんて」と退屈そうにしていたが、中には泣いて喜んでくれた生徒もいた。『門出の歌』……新たな出発を応援する歌だった。ちょうど、結婚する二人にもぴったりである。
「スピカ先生が歌うあの歌を、式で聴けたら良いなあって」
もじもじとするポラールの肩を、カンセルが優しく支えた。
「無理にとは言わないんだけど……スピカ先生、お願いできない?」
まさか二人にこんなことを頼まれるなんて。
「それでスピカちゃんは引き受けたの?」
「だって、二人からそんなふうに頼まれたら断れないじゃない……」
「まったくお人好しだね」
スピカはまたサブロの店で過ごしていた。仕事しながら話し相手になってくれるサブロには、本当に感謝しかない。
「そういえば、この間レオン様が店に来たよ」
サブロが、思い出したように教えてくれた。
あの日から、街では度々レオンの姿を目撃するようになった。彼は背が高いので、歩いているだけでよく目立つ。
レオンは、見かけるたび誰かを手伝っていた。ポスターの張り替えをしていたり、壊れた台車を直していたり。いつもにこにこと、人の良い笑顔を貼り付けて。
彼の笑顔を見るたび、スピカはあの夜のレオンを思い出した。彼の、陰った表情を。その度に彼女の胸には優越感のようなものが掠めた。もしかしたら、彼のあの顔は自分しか見たことがないのではないかと。
「スピカちゃんが、誘ったんだって? また店で飲もうって」
「そ、そうよ」
「やるね」
まさかレオンがまた店に来てくれているとは思わなかった。悩みを聞いてしまって、多少気まずい雰囲気になってしまったから。
素直な青年なんだなと思った。素直で、朗らかで、親切で……少し自信のないレオン。恋を諦めてしまっているレオン。スピカは、少し自分とレオンを重ねてしまっていた。
次の日から、スピカは勤務が終わると『門出の歌』を練習した。
歌い慣れているこの歌だが、誰でも知っている歌でもある。結婚式という大切な舞台で歌うからには、より良い歌声を贈りたい。
音楽室でスピカが歌っていると、校舎に残っていた生徒が歌声を聴いてちらほらやって来る。そして一緒に歌ってくれた。
生徒達の透き通った歌声も重なり、季節外れの『門出の歌』は、放課後の学園中に響き渡った。
「あっ!」
「スピカさん! こんばんは!」
レオンがサブロの店に顔を出していることを知ってから、スピカはなんとなく店へ行く頻度を増やした。そんな自分にサブロが生暖かい眼差しを向けているのは、知っていて見ないフリをしている。
今日店に行くと、やっと会えた。カウンターに座り、にこやかに手を振るレオンと。
「やっと会えましたー。すごく久し振りな感じがします」
レオンが、スピカの気持ちそっくりそのままを口にした。それだけでスピカの心は湧き踊った。
「また飲もうって約束したもんね」
嬉しい。顔が自然と緩んでしまう。嬉しさだけが、スピカの胸を埋め尽くした。
「私は、レオン様のこと良く見かけましたよ。街で」
「そうなんですか? 声かけてくれればよかったのに」
そうは言われても、話し掛けられるような場面ではなかった。いつも彼は誰かの手助けをしていたのだから。
「俺も、この間偶然聴きましたよ、スピカさんの歌!」
「えっ!?」
レオンが学園の前を通りかかった時、偶然『門出の歌』が聞こえてきた。卒業シーズンに良く歌われる歌なのに、こんな時期に珍しいとしばらく耳を傾けていると……その歌声がスピカのものだと気付いたのだった。
「さすが、声楽の先生ですよね! なんだか感動してしまう歌声でした」
「そんな、大げさですよ」
まさかレオンに聴かれているとは……恥ずかしいようなくすぐったいような、落ち着かない気持ちになった。
「スピカちゃん、同僚の結婚式で歌うことになったんですよ。『門出の歌』をリクエストされたんだって」
「そうなんですか」
そのために練習していたんですね、とレオンが大きく頷いた。
「仕事のあと練習したりね……えらいよね」
「……スピカさんは、仲間想いなんですね」
レオンもサブロも、自分にはもったいないような言葉をくれる。
スピカは良心がぎゅっと握られたように、苦しくなった。自分が? 仲間想いだなんて……
「そんなことない。私、花嫁に嫉妬してますもん」
歌を打診されたときも、スピカはちらりと思ってしまった。惨めな自分がなぜ、こんなにも幸せなそうな二人へ応援の歌を贈る必要が? と。
とても見苦しい自分が顔を出したのに気付いた。すぐにその顔は押し込んだけれど。
「いい顔したいだけなんです、私」
こんな本心を、レオン相手にペラペラと口にしてしまうなんて……久々に会えたからなのか、どうかしている。
「そうだね、だからこの店では『スピカ先生』の仮面がバリバリ剥がれるもんね」
サブロがフォローするようにからかった。
「こないだなんて、私もお持ち帰りされてみたーい、なんて言って」
「!?」
サブロ……なんてことを。彼はたまに悪気なく余計なことを言う……それ見たことか、レオンがポカンとしているではないか。
サブロも「しまった」という顔をしているけれど、もう遅い。スピカはいたたまれず俯いた。
「スピカさんは、そんなの無理じゃないですか?」
少し間を空けて、レオンが口を開いた。
やっぱりレオンからもそう思われるのか。スピカは『お持ち帰り対象』では無いと。
惨めが振り切れて、スピカは絶望的な気持ちになった。今は、顔を上げられない。顔を上げたら、涙が出てしまう気がするから。
「だってスピカさん情が深そうだから、相手ともちゃんとしたお付き合いがしたいんじゃないですか?」
続いたレオンの言葉に、スピカは思わず顔を上げてしまった。
「もっと大事にしてくれる男と付き合わないと。こう……デートからちゃんと、手順を踏んで……」
彼は身振り手振りを加え、大真面目に説得しているつもりのようだ。
「スピカさんには、誠実な男が似合いますよ」
レオンは眉を下げて、いつものように笑顔を作った。
なんで、この人はこんなにあたたかいのだろう。まるで胸に柔らかな光が灯ったよう。こらえていた涙が一粒、スピカの頬を滑り落ちた。
「あれっ! ごめんなさい! 失礼でしたか!?」
すみません! と、レオンが隣で焦っている。スピカは、あたふたとする彼から目が離せなかった。彼の言葉には黙ったまま、否定も肯定もしなかった。ずっと隣で、レオンに困っていて欲しかったから。
(レオン様……私は、あなたがいい)
この日スピカは、自分の恋心を自覚した。




