エピローグ:なぜ武田は、織田を裏切ったのか?
俺と莉央ちゃんは、またしても唐突に現代に舞い戻ってきていた。
「武田信玄は、徳川家康との関係を仲裁してくれなかった織田家に対しても、不信感を抱き始めます。
ですがまあこれは……信長も幕府も、口出ししたくても出せなかったというのが真相でしょうね」
「そりゃまたどういう訳だ?」
「これまでの通説では、室町幕府は形骸化し、何の権威も持っていなかった……なんて言われていましたが。
意外と権威はあったのです。本当に有名無実なら、信長もわざわざ上洛して足利義昭を盛り立てようなんて考えなかったでしょうし。
昨今の大河ドラマでも信長は、将軍の権威を認める発言をしています。お互い二人三脚でやっていきたかったのは本心でしょう」
「へ? 話が見えないんだけど……権威があるなら何で、口出しできなかったの?」
「下田さん。『意外と』あったんです。それは将軍の勅令や、与えられる役職が『得になる』場合に限られました。
駿河・遠江なんて、織田の所領と接してないですし、当事者である徳川・北条が納得済みでやってるならそれがベターな訳です。
ここで無理に武田の肩などを持って、徳川さんたちに『損になる』命令を出したら……どうなると思います?」
「えーっと、そりゃ……俺が家康だったら、損したくねえから命令無視するかも」
「そう。それですよ。地方の大名は、中央の幕府の命令が自分に都合が悪ければ、従ったりしないのです。
で、もしそんな事になれば、それこそ幕府の威信に傷がついてしまう。いくら武田のためとはいえ、信長さんがわざわざそんなリスクを背負い込むでしょうか?
……まあ、その埋め合わせのために、上杉家との和睦仲介だけは何とかしようと思ったのかもしれませんけどね」
それでも武田は表向きは、織田との関係を壊したくなかったようなのだが。
ある事件をきっかけに、とうとう信玄公はブチ切れて、信長に対し軍事行動を起こす事となる。
「その事件というのは……東美濃の岩村城(註:岐阜県恵那郡の辺り)の主だった国衆・遠山氏の帰属問題です」
「へ? 国衆……独立勢力ってヤツだっけ? なんでそんなのがまた」
「遠山氏の岩村城は、織田・武田の両勢力の境にあり、どちら側にも恭順の意を示していました。
一見どっちつかずに思えるかもしれませんが、これによって大国間に緩衝地帯が出来上がっていたのです」
どんな大国でも、国境を接する隣国は味方、最低でも中立であって欲しいと考えるのが人情だ。
ところが1572年、遠山氏の当主が急逝。後継ぎがいなくなったのを契機に、信長は家臣を送り込んで岩村城を自勢力に組み込んでしまう。
「え……それマズイんじゃねえの? 緩衝地帯なくなったら一触即発待ったなしなんじゃ……」
「信長さんが何故そんな事を行ったのかは分かりません。ですが……彼は長年、低姿勢だった武田を信用しすぎた……いや、見くびっていたんじゃないでしょうか」
「…………えぇえ…………」
織田信長、実は意外とそういう所があったりする。妙に気安くなるというか、変なところで気を遣わないというか。
実際、以前は官位が上だった大名には低姿勢の書状だったのに、自分の官位が相手を上回った途端、急に手のひらを返して横柄な態度の書状を送りつけたりしている。やられる側としてはショックだよなぁ。
「信長としては『武田さんとはズッ友だし、領土接しても大丈夫♪』と信頼の証だったのかもしれません。
『だがそれが、逆に信玄の逆鱗に触れた!』ってヤツです。ひとつひとつの要因は小さいですが、積もり積もった結果なのでしょう。
実際、遠山氏も今回の織田家の強引なやり方に反感を持ったようで。武田家に援軍を要請し、結局織田方を追い出して武田方の国衆に納まってしまいます」
武田は徳川も相当恨んでいた。「この三年の鬱憤を晴らす!」と公言して徳川との戦に臨んでいるのだ。
駿河侵攻時の家康の約定破りや、三年間続いた嫌がらせの数々。相当、腹に据えかねていたのだろう。
「で、織田さん方はこの時点では、武田が裏切るなんて思ってもいなかったようです。
足利義昭も『せっかく上杉・武田の和睦ができそうなのに軍を編成し挑発するとは何事か!』と武田に抗議しています。
よく言われる『義昭が武田をけしかけて、織田を攻めさせようとした』……訳ではない事は明らかですね」
「地味にまたひとつ、通説が覆ってる……」
「信玄の裏切りを知った信長は、相当ショックを受けたようで……上杉に対し『もう武田とは未来永劫絶交じゃー!!』と、怒りをぶち撒けまくった手紙を送っていたりします」
それは逆に考えれば、信長はギリギリまで信玄の事を信用しきっていた事の証左でもあるのだ。
「信長さんって明智光秀だけでなく、結構あっちこっちで色んな人に裏切られてますよね。
しかも裏切る側は、一大勢力となった織田家相手に勝ち目がないと分かっていても、決起しているケースも多いです。
彼は秀吉と違い、相手のメンツやこだわりを察したり汲み取るスキルが、決定的に欠けていたのではないでしょうか」
「あー……そういう人なんだって考えると……今まで謎だった色んな事件が、急に腑に落ちてくるような……」
メジャーすぎて手垢のついた戦国時代、というイメージが俺の中にはあったが。
こうして深く掘り下げていくと、今まで知られていなかった大名や武将の、意外な一面が垣間見えてくるのだから、面白い。
「どうです下田さん。戦国時代といえど、新研究・新発見が熱いジャンルだとお分かりいただけましたか?」
「そーだな……個人的には色々ショックだったけど、新事実を知ること自体は悪くねえと思ったよ」
満面の笑顔で親指を立ててくる莉央ちゃんに、俺は素直に頷くのだった。
(第8話 おしまい)




