憎糧の花
店のドアを開けると、店主が鉢植えに水をあげていた。
俺に丁寧に挨拶をして、古風な如雨露を置いた。
久し振りに嗅ぐ生花の香りに、いいなと思うより、違和感が強かった。
他の品を見ていても、花の香りが気になって仕方ない。
今日はこれにするしかないようだ。
「店主、この花には、どのような過去があるのですか」
店主は、ひとつ頷き語り始めた…………
女には何も無かった。
誰かを愛した事はなく、他人に心を許さない為に、友人もいない。
両親は小さな頃に、死んでしまった。
いつ死んでも良いと、思いながら生きてきた。
腹が減るから食べて、眠くなるから寝るだけを繰り返す日々。
女が自分の意思でする事は、死に場所に出向き、飽きるまで眺めて、自分の死期を考える事だけだった。
女が決めた死に場所は、両親が自殺をした山の中。
ここに来る度に、どうして自分だけ死にきれなかったかと、後悔が渦巻く。
それに、自分を殺しきれなかった、両親への憎悪が膨らむ。
置いて行かれた寂しさに浸り、死を求める自分に酔っている。
それでいいと、思っていた。
何時ものように山に出向くと、両親の死んだ場所に花が咲いていた。
何度となく通っていたが、初めての事だった。
死を望む場所には似合わない。
花は風に揺られ、女の目を楽しませた。
咲く場所を間違えた花が、滑稽で愛おしく思えた。
久しく無かった、死以外の記憶が甦る。
優しかった両親の顔を思い浮かべ、涙が零れた。
涙は枯れていたと思っていた女は驚き、花に礼を言って、その場を後にした。
家に着いた頃には、また、置いていかれた憎悪の感情が溢れていた。
それから女は、死を求めるのではなく、花を見に行くのが目的となった。
花を見ている時だけは、安らかでいられた。
優しい記憶に浸り、憎悪から解放される。
何か大切な事を忘れているような、不思議な気持ちが、空っぽな自分を満たしてくれた。
女は秋と冬が嫌いになった。
花が咲かない季節は、ひたすらに両親を憎み、死を望み、春の訪れを待った。
春になり、また花が咲く。
自分の一部となっている憎悪を癒し、優しい記憶に酔いしれる。
他には、何もいらなかった。
ある時、花に変化が起こった。
いつも生彩に咲いていた花が、頭を垂れて、色艶が失われていた。
女は焦り、手を尽くしたが駄目だった。
また自分を残し、去って行く花を憎んだ。
両親ではなく、花を憎む為に出向くと、花は美しく咲いていた。
また見せてくれた、優しげな姿に、感謝して、謝った。
ありがとう。
貴方を憎みたくないの。
だから、いつまでも咲いていてね。
花はまた元気を無くした。
憎みたくないと言ったのに。
どうして。
黒い感情をぶつける。
花は輝きを取り戻す。
何度と繰り返し、女は悟った。
この花は、自分の憎しみを糧にしていると。
ある決意をし、花に逢いに行く。
もう、貴方を深く憎めないの。
たから置いて行く私を憎んで。
きっと、私と同じ様に、憎んでいる間だけは、咲いていられるから。
女は、ナイフを首にあて、目を閉じた。
深く深呼吸をして、力を込めようとした所で、声が聞こえた。
目を開けると、知らない男が居た。
男は、女の名前を呼び、ナイフを取り上げた。
久し振りに呼ばれた名前に、違和感と、暖かい感情が湧く。
誰と聞くと、男は曖昧に、ずっと好きだったと答えた。
花の香りが記憶と共に舞った。
両親が営んでいた生花店。
引っ越して行った、大好きだった、幼なじみの男の子。
自分と同じ名前の花。
男は女を抱き締めた。
優しく髪を撫で、ここに来た経緯を語った。
久し振りに、実家に戻って来たら、刃物を買っている女を見た。
ずっと好きだった女の事を思い出し、胸騒ぎがして、止めに来たと。
男は、死ぬなと言った。
女は首を振る。
お前が好きだ、俺と一緒に居よう。
人を好きになるのが怖い。
じゃあ、俺を好きになるまで、一緒に居よう。
いつまで。
死ぬまでかな。
もう好きだったら、どうするの。
男は答えに困まり、苦笑いを浮かべながら答えた。
もっと、好きになるまでにするかな。
そっか……
女は泣きながら笑った。
男の胸に顔を預け、優しい気持ちに身を委ね、心の中で自分と同じ名前の花に懺悔した。
ごめんね。
貴方を置いて行く私を憎んで。
決して、私を赦さないでね。
二人の側で、花は見た事もない程に、美しく咲き誇っていた。
「最後に花は、どう思ったのでしょうね。糧を得られなくなる憎悪か、それとも祝福か」
花は何も言う筈もなく、ただ咲いているだけだった。
「生きていく為に、心の糧となる物が必要です。お客様の糧は何でしょうか」
答えが見つからず、花の香りを吸い店を出た。