表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/103

第64話:影の処刑場――シオン、一線を越える

 地上では、リリアーヌお嬢様が放った「聖女アリア様の幸福な日常」という名の光の濁流が、聖都の欺瞞を暴き、民衆の信仰を根底から揺るがせていた。

 華々しい凱旋の鐘と、人々のどよめき。……だが、その喧騒が届かない場所がある。


 大聖堂の地下深く。

 かつて教会の異端審問所として使われ、今やアリア様を「器」として繋ぎ止めるための魔導増幅装置が唸りを上げる暗黒の回廊。

 カビと古い血の臭いが染み付いたその場所に、一人の男が音もなく降り立った。


「……おや。……お帰りですか、教会の皆様。……許可なくお嬢様の庭を荒らし、その最推し(たからもの)に触れた報い……。……まだ、何も支払っていないでしょう?」


 闇の中から響いたのは、死神の囁きよりも冷たく、そして酷く愉しげなシオンの声だった。


「……な、何だ!? どこにいる! 影の魔術師か!」


 回廊の奥、脱出の準備を急いでいた教会の暗部騎士たちが、一斉に抜刀し、周囲を照らし出した。

 だが、彼らが掲げた松明の炎は、まるで目に見えない巨大な胃袋に吸い込まれるように、一瞬で「黒」に飲み込まれた。

 

 シオンは、影の中からゆっくりと姿を現した。

 お嬢様の前で見せる、あの献身的で有能な執事の仮面は、今の彼には必要ない。

 瞳からは完全にハイライトが消え、どろりとした漆黒の魔力が、彼の背後から無数の触手となって壁を、天井を、床を侵食していく。


「……神聖魔法……不快ですね。……お嬢様が作ったあの眩しい光のネットワークに、貴方たちのような生臭い『ノイズ』が混じるのは、美しくありません」


「……貴様! 枢機卿様のお命を狙う不届き者め! ……光よ、この闇を撃ち払え!!」


 高位の魔導師が、必死に『聖なる槍』の魔法を放つ。

 だが、放たれた光の矢は、シオンが指先一つを動かした瞬間、物理的な衝撃を伴って「影」に喰い破られた。

 シオンの影は、光を反射するのではなく、ただ「無」へと帰す。……それは、この世界の魔導法則さえも無視した、絶望的な捕食者の力だった。


「……叫んでも無駄ですよ。……この階層の『音』は、既に私の影がすべて飲み干しました。……貴方たちがどれほど無様に命を乞おうとも、その醜い振動がお嬢様の耳に届くことはありません」


 シオンが足を踏み出すごとに、大理石の床が腐食するように崩れ落ちる。

 彼は、逃げ惑う騎士の一人の首を、実体化した影の腕で静かに、けれど逃げられない力で掴み上げた。


「……教えてください。……あのアリアという少女を精神的に縛り付けていた、予備の『発信機』はどこにありますか? ……お嬢様は、あの子の笑顔を守るために心を砕いていらっしゃる。……その努力を台無しにするゴミは、一つ残らず消去せねばならないのですよ」


「……ひ、ひぃ……っ! 貴様……狂っているのか! ……あんな、世界を滅ぼしかねない魔導知識を持つ女に、なぜそこまで……!」


「……狂っている? ……お褒めに預かり光栄です。……お嬢様のどこが良いか、と貴方は問いたいのでしょう? ……全てですよ。……あの方の傲慢な笑い声、私の予想を遥かに超える無邪気な残酷さ、そして……この私を、完璧に『道具』として使いこなしてくださる、あの至高の手触り」


 シオンは恍惚とした表情で、自らの胸元――影の中枢が脈打つ場所をなぞった。

 

「……貴方のような虫ケラに、お嬢様の尊さが理解できるはずがない。……さあ、掃除の時間です。……跡形もなく、歴史のパケットにすら残さず、消えなさい」


 ――ズ、ズズズ……。

 

 影の津波が、回廊のすべてを飲み込んだ。

 断末魔の叫びさえも、黒い虚無の中に吸い込まれ、一秒後にはそこには静寂だけが残された。

 シオンは、砕け散った騎士たちの甲冑を無造作に踏み越え、部屋の隅に隠されていた魔導増幅装置を発見した。

 それは、アリア様の意識を強制的に『聖域』へ繋ぎ止めるための、醜悪な機械だった。


「……お嬢様の『推し』を苦しめた罪。……これでは軽すぎますが」


 パキィィィィィン!!

 

 シオンが指を鳴らすと、影の腕が装置を粉々に握りつぶした。

 その瞬間、彼は懐から、リリアーヌお嬢様から貰った『シルの毛入りの特製お守り』をそっと取り出し、鼻先でその残り香を確かめた。

 

「…………ふぅ。……浄化されました。……やはり、お嬢様の愛が一番の特効薬ですね」


 先ほどまでの狂気が嘘のように消え、シオンの瞳に「有能な執事」の光が戻る。

 彼は影を使って、自分に付いた返り血や不浄な魔力を完璧に「掃除」し、衣服の皺一つない状態に整えた。

 

 地上へと続く階段を上り、眩い光が差し込む大聖堂のホールへ。

 そこには、既に教会の制圧をほぼ終え、優雅にパフェ(の試作)を味わいながら、次のインフラ整備の計画を練っているリリアーヌお嬢様の姿があった。


「……遅かったわね、シオン。……地下の調査は済んで?」


「……ええ、お嬢様。……少々、影が溜まっておりましたので、念入りに『換気』をして参りました。……お嬢様の歩く道に、一点の曇りもあってはなりませんから」


 シオンは完璧な執事の礼を捧げ、お嬢様の足元に膝をついた。

 血の匂いなど一欠片もさせず、ただ「忠誠」という名の甘い香りだけを漂わせて。


「……そう。……ご苦労様。……さあ、次はハシム様の船を使って、この聖都全体の『資産鑑定』を始めますわよ! ……ルカ枢機卿、貴方の隠し財産、1ペニー残らず私の開発費に当てて差し上げますから!」


「……御意、お嬢様。……どこまでもお供いたしますよ」


 お嬢様の勝利の笑みを見守るシオン。

 だが、彼の影の奥底では、先ほど地下で捕食したルカの魔力の残滓が、不気味に蠢いていた。……教会の真の禁忌。……ルカがアリアを使って呼び出そうとしていた「何か」の気配が、まだ完全には消えていないことに。


(お嬢様。……貴女が望むなら、私は神さえも影で絞め殺して差し上げましょう。……貴女の微笑みを守るためなら、私は何度でも、この一線を越えてみせますから)


 王城を背に、影の執事は静かに誓うのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ