第2話:悪役令嬢、全力のドレスアップ
「……お嬢様。少し、肩の力が入りすぎているようですよ」
耳元で、低く、熱を帯びた声が囁いた。
直後、冷たい指先が私の剥き出しの肩に触れ、背中の編み上げをゆっくりと、だが確実に締め上げていく。
(ひえっ……! 無理無理無理! 心臓が口から飛び出して、そのまま宇宙まで飛んでいきそうなんですけど!?)
鏡の中に映る私は、相変わらず冷徹な悪役令嬢リリアーヌの面構えをしている。けれど、その内面――佐藤結衣の魂は、あまりの「尊さ」と「恐怖」のハイブリッド攻撃に、今にも消滅しそうだった。
現在、私は絶賛「お着替え中」だ。
乙女ゲームの世界において、専属執事が令嬢の着替えを手伝うのは珍しいことではない。だが、それはあくまで『ゲームの演出』としての話だ。実際に生身の男性に、それも前世で「推し」として崇拝していた美青年に、薄着の状態で背後に立たれるのは、精神衛生上きわめてよろしくない。
「シオン……。少し、締めすぎではないかしら」
私はリリアーヌらしい、傲慢で鈴を転がすような声を絞り出した。
するとシオンは、鏡越しに私の瞳をじっと見つめ、口角をわずかに釣り上げた。
「失礼いたしました。ですが、今夜のパーティーはお嬢様にとって『特別な夜』になるのでしょう? ならば、貴女のその美しい肢体を、一分一厘の隙もなく飾り立てるのが私の役目ですので」
シオンの指が、私のうなじをかすめる。
その感触に、背筋を電流が走ったような衝撃が突き抜ける。
……重い。この執事の愛、物理的にも情緒的にも重すぎる。
ゲームの『純七』では、シオンは「お嬢様に忠実すぎるあまり、周囲の人間をすべて敵と見なす隠しキャラ」だった。全年齢対象のゲームのはずなのに、彼のルートだけは「これ、アウトじゃない?」と物議を醸すほどの執着を見せていたのだ。
(本物のシオンは、ゲームの三倍くらい圧が強いわね……。でも、顔がいい。本当にいい。この銀髪のさらさら具合とか、切れ長の瞳に宿る暗い光とか、もう最高のご馳走だわ!)
恐怖とオタク的興奮の狭間で、私は必死に理性を保つ。
シオンが選んだ今夜のドレスは、リリアーヌの瞳と同じ、深い紫のシルクで作られたものだった。胸元には大粒のアメジストが飾られ、裾には繊細な黒いレースが幾重にも重なっている。
それはまるで、夜の闇を纏った女王のような、毒気のある美しさだった。
「……完璧です、お嬢様。これならば、エドワード殿下も、その隣にいる小娘も、お嬢様の輝きの前では石ころも同然でしょう」
シオンの声に、一瞬だけ鋭いナイフのような殺意が混じった。
彼が言う「小娘」とは、もちろんヒロインのアリアのことだ。
ゲームでのシオンは、リリアーヌを泣かせるアリアを「排除すべき害虫」として認識していた。だが、今の私――結衣にとって、アリアちゃんはこの世で最も保護すべき愛らしい推しなのだ。
(シオン、落ち着いて。アリアちゃんは害虫じゃないの。国宝なのよ。今夜、彼女を救い出して一緒に逃げるのが、私の最優先ミッションなんだから)
私は心の中でそう唱えながら、シオンが捧げ持った手袋に指を通した。
絹の滑らかな感触。そして、最後に渡されたのは、一見するとただの豪華な扇子だった。
だが、私は知っている。この扇子の骨の一本には、シオン特製の「強力な麻痺毒」を仕込んだ針が隠されていることを。
「お嬢様。万が一、会場で無礼な輩が貴女に触れようとしましたら……迷わずこれをお使いください。後始末は、このシオンが責任を持って行いますので」
「……ええ、わかっているわ。頼りにしているわよ、シオン」
私は精一杯の虚勢を張って、不敵な笑みを浮かべてみせた。
実際のところ、私が毒針を使う場面なんてないはずだ。今夜、私は婚約破棄を言い渡され、泥を塗られた令嬢として会場を去る。
計画では、そこで「悲劇のヒロイン」を演じつつ、アリアの手を引いて鮮やかに脱出する予定だ。
「さあ、行きましょうか。私の『最後』の舞台へ」
「御意のままに、我が主」
シオンが私の前に膝をつき、恭しく手を取る。
その手の甲に落とされたキスは、あまりにも熱く、長く――。
これから始まる嵐のような一夜を予感させるには、十分すぎるほどだった。
鏡の中のリリアーヌは、かつてないほど美しく、そして残酷なまでに輝いていた。
佐藤結衣としての平穏な日常は、もう遠い過去の話。
私は今、この狂おしいほど美しいヤンデレ執事を従え、運命の卒業パーティーへと足を踏み出す。
(待っててね、アリアちゃん。バカ王子にこれ以上、貴女を傷つけさせやしないわ。……そしてシオン、貴方のその重すぎる愛も、自由になった後にたっぷり受け止めてあげるんだから!)
高鳴る鼓動をドレスの下に隠し、私は自室の扉を開けた。
廊下には、夕闇が静かに忍び寄っていた。




