第二話 名を呼ぶ距離、越えない境界
馬車は一定の揺れを刻みながら街道を進んでいた。
フォルツを出てしばらく、道は緩やかに南西から西へと向きを変え人の往来も次第に少なくなっていく。商人の姿も、旅人の姿も、次第に見えなくなっていった。
窓の外に流れる景色は特別なものではない。低い丘、点在する林、遠くに見える畑と集落。どこにでもある、ありふれた田園風景。それでもフォルティナには、その一つ一つがどこか名残惜しく感じられた。
膝の上で手を組んだまま、彼女は小さく息を吐く。
「……こうして馬車に揺られていると、不思議ですね」
向かいに座るフレイアは視線だけで応じる。
「何が?」
「いえ……ただ」
フォルティナは少し言葉を探すように間を置いた。
「子どもの頃に冒険者の方たちが街を出ていく姿をよく見送っていたことを思い出して」
フレイアは口を挟まない。
ただ静かに耳を傾けている。
「荷馬車に荷を積んで仲間と笑い合って……自由そうで、少し眩しかったんです」
照れたような声音だった。
「今思えば、危険もたくさんあったはずなのに。当時はいいところしか見えていませんでした」
フォルティナは窓の外に視線を向けたまま続ける。
「でも……憧れていました。どこへでも行ける生き方に」
一拍
「今は……もう許されませんけど」
その言葉は淡々としていた。不満でも愚痴でもない。
ただ現実をそのまま口にしただけだ。
領主という立場
それは自由を手放すことでもある。
街を守り、人々の生活を支える責任
それは個人の願いよりも重い。
フレイアは揺れに身を任せながら言った。
「それでも……今回の訪問を引き受けた」
フォルティナは小さく頷く
「……はい。だからこそ、逃げたくなかったんです」
その声は決意というよりも、確認に近かった。
馬車の中に静かな時間が流れる。外では風に揺れる草の音だけが聞こえていた。
車輪の音、馬の足音、それらが規則的なリズムを刻んでいる。
しばらくしてフレイアがぽつりと口を開く
「……私もね」
フォルティナが視線を戻す
「昔から名前で呼ばれることが少なかった」
フレイアは苦笑するでもなく続ける。
「《ギルドマスター》《代表》《責任者》そういう呼び方ばかりが増えていって……慣れてはいるけど……それは慣れただけなのよ」
フォルティナは思わず言葉を失った。
フレイアがそんなことを語るのは意外だった。
いつも冷静で完璧に見える人
そんな人がこんな弱音のようなものを口にするなんて
「だから」
一拍
「今くらいは……」
フレイアはほんの少しだけ言葉を選び
「名前で呼び合ってみない?」
馬車の揺れがやけに大きく感じられた。
「……え、と……」
フォルティナは視線を落とす。
心臓が急に速く打ち始める。
「無理ならいいの。ただの気まぐれみたいなものだから」
「……いえ」
フォルティナはゆっくりと首を振った。
「嫌では、ありません」
少し間を置いてから意を決したように口を開く。
「……フレイ……さん」
言った瞬間、顔が熱くなるのが分かった。
こんなに緊張するなんて思ってもみなかった。
フレイアは一瞬だけ目を瞬かせ、それから穏やかに微笑む
「……ティナ」
それだけだった。
特別な言葉は何も続かなかった。
それでも二人の間に流れる空気は、確かに先ほどまでとは違っていた。
越えたわけではない。けれど距離は縮まった。
公的な関係から、もう一歩だけ人間同士の関係へ
フォルティナは窓の外を見ながら小さく微笑んだ。
◆◆◆
昼過ぎに馬車は空白地帯の手前で止まった。
周囲には簡易的な野営地が設けられており、すでに護衛の騎士たちが警戒に当たっている。テントが張られ、焚き火の準備も整っている。
「本日はここまでといたしましょう」
護衛隊長が一礼する。
「これより先は明朝、我々はこの地点までの護衛となります」
フォルティナは一瞬だけ口を開きかけ、それから静かに頷いた。
「……分かりました。警戒はお願いします」
線引きははっきりしていた。空白地帯の内側へは誰も踏み込まない、踏み込んではいけない
少なくとも今夜は……
◆◆◆
焚き火が起こされ、簡素な夕食が用意される。
干し肉と温めたスープ、そしてパン、味は素朴だが身体に染み渡る。
二人は並んで腰を下ろし、多くを語らず火を眺めていた。
沈黙はあるが重くはない、むしろ心地よいくらいだ。
フォルティナは炎の揺らめきを見つめながら思う。
(……怖い)
正直な気持ちだった。明日、何が待っているのか分からない。
相手がどんな存在なのかも、はっきりとは知らない。
話が通じると言われても、それでも不安は消えない。
それでも――
(逃げない)
そう決めた自分がいる。
隣ではフレイアが静かに夜空を見上げていた。
その横顔はいつもより少しだけ柔らかく見える。
(……空白地帯の主)
その名が自然と脳裏に浮かぶ
フレイヤは話の通じる相手だと言っていた
そして《ルミナ・ヴェール》のアリアたちが信頼している人物だと
(きっと、大丈夫)
誰に言うでもなく、そう思う
夜が深まり空は澄み渡り、星々が静かに瞬いている。
騎士たちが交代で見張りに立ち、焚き火の音だけが静かに響いている。
遠く、空白地帯の方角
何も見えないはずなのに、なぜか目を引く闇がそこにあった。
境界はすぐそこ
だが――
越えるのは明日早朝
今夜はまだ境界のこちら側
フォルティナはもう一度深く息を吸う
明日からすべてが始まる。




