閑話 香りが届いたその先で
それは言葉になる前の感覚だった。
神域には本来、現世の匂いなどが届く理由はない。
温度も、湿気も、こうした感覚的なものは
神域に存在しないものとして久しい。
それなのに
温かく、刺激的で、どこか懐かしい――
神域に満ちるはずのない香りがふと胸をくすぐった。
「……?」
淡い紅の髪を揺らし、火属性神フレアリアは小さく瞬いた。
(なに、今の……)
焮げるようでいて、やさしい
肉の旨味と、複雑に絡み合う香辛の気配
鼻腔を通るだけで、何か深いものが呼び覚ませられる
思わず思念が零れる
――美味しそう
ただ、それだけだった。
神威を持つ存在としての威厳など、この瞬間には存在しなかった。
◆◆◆
次の瞬間
「……あれ?」
フレアリアの前に小さな皿が置かれていた。
いつの間に
まさか自分が置いたのか
いや、違う
褐色の液体と、丸く整えられた肉料理
見たことのない組み合わせ
その香りは確かに先ほどの、あの感覚と同じものだった。
「どうやら……届いてしまったようですね」
静かに微笑んだのは、ルーナフィリスだった。
白銀の髪を揺らしながら、穏やかに続ける。
「一食分ほどしかありませんが……せっかくですから」
その言葉には何かを知っているような、少し含みのある温かさがあった。
気配が集まる
「……いい匂い」
水のように澄んだ声
水属性神ミラシア
その表情はいつもの静かなものだが、目には興味の色がある。
「香りが、流れてる……」
風がそよぐように、風属性神ウィスティアが言う。
そして
「……」
土色の瞳をした女神
土属性神ルートミアは、黙って皿を見つめていた。
他の三柱が声を上げるのに対して、ルートミアはただじっと
静かに視線を注いでいる。
◆◆◆
フレアリアは皿を手に取り、一口
目を見開いた。
「……っ!?」
熱と香りが一気に広がり、肉の存在感が遅れて追いかけてくる。
舌の上で複数の味が折り重なり、それでいてぶつかることなく調和している。
「なにこれ……!」
「味が……重なってるのに、ぶつからない……」
ミラシアが感嘆の息を漏らす。
彼女も一口食べて水のような瞳が微妙に揺れる。
「次の香りがすぐ来る……楽しい」
ウィスティアは小さく笑った。その声には、風のような軽やかさがある。
そして――
「……」
ルートミアはしばらく沈黙したまま咀嚼し続けていた。
目を閉じてただ食べている。
他の三柱の声も、何も聞こえていないかのように。
やがて、ぽつりと
「カレーと……ハン……バーグ……は……」
一同が息を呑む
「……最強の、存在……」
「ちょっと待って!?」
フレアリアが思わず声を上げる。
「いきなり何言ってるのよ、ルートミア!」
「……否定、不可」
淡々と頷くルートミア
「生命を、活かす……力」
「……また、食べたい」
その言葉には神威の威厳などどこにもない。
素直な感想だけが、淡々と語られている。
自然と笑いが零れ、場はお茶会の空気へと変わっていった。
ルーナフィリスが用意していた菓子を添え、女神たちは穏やかな時間を共有する。
菓子の甘さと、先ほどの料理の余韻が混ざり合い
神域には珍しい「楽しい」という雰囲気が満ちていた。
誰も――この出来事が
世界を揺らすとは思っていなかった。
◆◆◆
一方、その頃
グランヴェル帝国・地晶大殿
その日も聖女は祈りを捧げていた。
神殿の奥深く、静謐な祈り室
灯りも少なく、ただ神気の濃い場所
年に数回、特別な神事にしか足を踏み入れない空間だ
奥深くで祈りを捧げていた聖女が突如として息を呼んだ。
「……っ!?」
胸を押さえ、震える声で呟く
その感覚は、激しい衝撃ではなかった
にぎるほどの痛みでもない
けれど「何かが伝わっている」という事実は
はっきりと感じられた。
神託が降りている
「今……神託が……」
神官たちが駆け寄る
「内容は!?」
聖女は必死に言葉を拾う
神託の内容は往々にして
「言葉」という形で伝わるものではない。
印象や感覚が混ざり合い、それを言葉に変換する過程で
ある程度の誤差が生まれる。
だが今の神託は奇妙に鮮明だった。
「『カレート……ハン……バーグ……は……』」
「……?」
「『最凶の存在』……と……!」
空気が凍りついた。
「最凶……?」
「新たな魔王……?」
「災厄の名では……?」
誰もが顔を見合わせる
神託が「最凶」という言葉を用いたことは、過去の記録にもない。
それだけでも、事態の深刻さは明らかだった。
やがて、重く誰かが告げた。
「……教会中央監察局へ、緊急報告を」
◆◆◆
教会中央監察局――
大理石の床と高い天井を持つ執務中枢は
早朝にもかかわらず張り詰めた空気に包まれていた。
書記官たちが羊皮紙の音だけを立てながら、無言で動いている。
「……報告を、繰り返せ」
中央円卓の最上席
白衣に身を包んだ監察局長が低く命じる。
報告官は一度喉を鳴らし、慎重に口を開いた。
「グランヴェル帝国・地晶大殿より、正式な第一級神託報告です」
「内容は――」
室内の全員が息を潜める。
「『カレート・ハン・バーグは、最凶の存在』」
――ざわり
誰かが小さく息を呑み、別の誰かが思わず机を叩きそうになるのを堪えた。
「……最凶?」
「魔王級、もしくはそれ以上の概念名では?」
「いや、聞いたことがない……」
囁きが、瞬く間に広がる。
監察局長は手を上げ、場を制した。
「落ち着け」
静かな一言だったが、威圧感は十分だった。
「確認事項を整理する」
「まず、この"名"――《カレート・ハン・バーグ》」
書記官が即座に古文書索引魔法を展開する。
「該当なし」
「過去の魔王、災厄級魔獣、禁忌存在、いずれの記録にも一致する名称は存在しません」
「……新たな概念、か」
別の監察官が腕を組む
「神託で『最凶』と明言された以上、危険度評価は最高ランクで想定すべきでしょう」
「だが、焔守護竜案件と関連している可能性は?」
「否定できません」
即答だった。
「同時期に複数の異常事象が重なる確率は低い」
「何らかの連鎖、あるいは……」
言葉を濁す。誰もが同じ可能性を思い浮かべていた
――世界構造そのものへの干渉
監察局長は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「結論を出す」
空気が凍りつく
「本件は焔守護竜案件を上回る……特級案件として扱う」
「未知の存在名、《カレート・ハン・バーグ》」
「神託において"最凶"と表現された以上、危険度は最大」
「各教会、各国、冒険者ギルドに対し――」
一拍、置く
「緊急招集を発令」
「理由は伏せる」
「ただし、通達文にはこう記す」
監察局長は、はっきりと告げた。
「――『確認された神託により、『最凶』と表現される未知の存在が示唆された』
『現在、詳細不明。判断を誤れば世界的災厄に繋がる恐れあり』」
誰も異論を挟まなかった。むしろ遅すぎるとさえ思っていた。
「冒険者ギルドへは?」
「竜種関連と同様、独断行動の即時停止を通達」
「討伐・接触・調査、すべて中央許可制とする」
監察局長は、最後に静かに言った。
「――『最凶』と呼ばれる以上、我々が想像する枠に収まる存在だと考えるな」
この瞬間、世界が震え上がっている理由が――
一皿の料理の名前だということを誰も知らない。
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物語の方も順調に書き進めていますので宜しくお願い致します。
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