第二十七話 湯けむりの夜と朝の庭の小さなお客様
屋敷の奥へと続く廊下をツキが先導していく。数歩進んでは振り返り、エナがついてきているかを確かめるように「にゃ」と鳴いた。
その後ろにはエナと手を繋いだセリナ、そしてアリアたち四人。リーナの腕の中では、マルが待ちきれないとばかりに短い手足をじたばたさせていた。
「ぷぷぅー!」
「はいはい、もうすぐ着くから。暴れないの」
廊下の突き当たりで、ツキが扉の前にちょこんと座り込んだ。『ここよ』とでも言うように、少しだけ得意げに「にゃ」と鳴く。
「ありがとう、ツキちゃん」
◆◆◆
脱衣所の棚には、洗い立てのタオルが人数分、きちんと重ねてあった。小さな籠には石鹸と洗髪用の小瓶が並び、ほのかに花のような香りが漂っている。
エナは孤児院から持ってきた布包みを棚に置き、結び目をほどいて――その手が、ぴたりと止まった。
明日の服、下着、手ぬぐい、それだけだった。
「し、師匠……私、寝間着を……入れ忘れてきちゃいました……」
ローゼ先生に「お行儀よくするのですよ」と送り出されたばかりなのに、と顔を真っ赤にしてうつむく。今にも泣き出しそうな声に、セリナは客室の寝間着を思い浮かべ、すぐに首を振った。あれは大人用、エナが着ればきっと大きすぎて脱げてしまう。
「静様にご相談してみますね」
◆◆◆
事情を聞いた静は「ああ、なるほど」と頷き、ステータス画面の《再購入》から『衣類』の一覧を開いた。
(あ……あった)
林間学校の前に自分で選んで買った、無地のTシャツと短パン。子供の頃に着ていたものだから、今の自分には小さいが、エナならちょうどよさそうだった。
手をかざすと、生成りのTシャツと淡い空色の短パンが、ふわりと現れる。
(懐かしいな。……サイズも、ちょうど良さそうだ)
「はい、セリナ。俺が子供の頃に着てたのと同じものなんだ」
「まあ……ありがとうございます、静様。とても可愛らしいですね」
◆◆◆
「わぁ……ふわふわで、すごく柔らかい布です……!」
孤児院の固い麻の服とはまるで違う手触りに、エナは目を丸くし、Tシャツを胸の前でそっと抱きしめた。
それから胸元のペンダントへ手を伸ばす。けれど留め具に指をかけたまま、なかなか外せない。
セリナが小さな木の盆を差し出した。
「ここに置いておきましょう。上がったら、すぐに着けられますよ」
エナは両手で包むようにして、そっとペンダントを盆に置く。足元のツキが、『大丈夫よ』と言うように『にゃ』と鳴き、エナを安心させた。
◆◆◆
風呂場の扉を開けた瞬間、真っ白な湯気がふわりと溢れ出した。
その向こうに広がる大きな湯船に、エナはぴたりと固まった。
「……こ、これ、全部お湯なんですか……?」
孤児院では井戸の水を温めて布で体を拭くのがいつものこと。それなのに目の前には、子供たち全員が一度に入れそうなほどのお湯が惜しげもなく溢れている。
「ふふっ、懐かしい反応ね」
「私たちも最初はここで固まったものね」
アリアとミレイアが笑う中、セリナはエナを洗い場へと導いた。
「お湯に入る前に、まずはこうして体を流すんですよ。足元から、ゆっくりと」
「はい、師匠!」
診療所で手順を教わる時と、まったく同じ返事だった。
洗髪用の小瓶を髪になじませると、白い泡がもこもこと膨らみ、花のような香りが広がっていく。洗い流したあと、何気なく髪に指を通したエナは、目を見開いた。
「髪が……引っかからないです……!」
いつもなら途中で必ず引っかかる毛先が、指の間をさらさらと滑り落ちていく。
「ふふ。香りが気に入ったなら、毛先まで丁寧にね」
ミレイアが毛先を手のひらで包む仕草をしてみせると、エナは真剣な顔で真似をした。エルフらしく手入れの行き届いたミレイアの髪を、少しだけ憧れるように見上げながら。
湯船では幼体たちがそれぞれにお湯を満喫していた。
ルゥは垂れた耳をお湯に広げてぷかぷかと浮かび、マルはリーナが用意した小さな桶ごと、湯面をゆらゆらと漂っている。
「ぷぅ……」
「まったく、いいご身分ね」
あかねはアリアの腕の中で「きゅぅ」ととろけ、ハルは湯気の上をくるりと飛んでは涼しい風を送る。ツキは湯船の縁に陣取り、時折前足だけをお湯に浸けながら、皆を見張っていた。
肩までお湯に沈んだエナの口から、小さな声が漏れた。
「……あったかい……体が、とけちゃいそうです……」
朝から診療所で患者さんを診て、初めてのお屋敷で緊張して――一日中張っていた体の芯が、ゆっくりとほどけていく。
「でしょう?」
アリアたちが懐かしそうに笑う。すいっと寄ってきたルゥが、エナの肩口に鼻先をちょんと寄せた。
「くぅ」
「ルゥちゃん……気持ちいいね」
しばらく黙ってお湯に浸かっていたエナが、ぽつりと呟く。
「……孤児院のみんなにも、入らせてあげたいなぁ」
セリナは何も言わず、ただ優しく微笑んだ。自分のことより先に、大切な誰かを思い浮かべる。そういう子なのだと、よく知っていた。
「師匠。私……いつか、師匠みたいな治療師になりたいです」
まっすぐな声に、セリナはくすぐったそうに頬を緩めた。
「では……まずは、のぼせないことからですね」
「は、はいっ……!」
なぜか頑張るように肩まで沈み直したエナを見て、アリアとミレイアがそっと顔を見合わせる。予感はすぐに的中する。
「エナちゃん、顔真っ赤!」
フィアの声にミレイアが手際よくエナを湯船から引き上げ、セリナが冷たい手ぬぐいを額に当てる。
「……さっき、気をつけてって言われたばかりなのにね」
「でもフィアより早かったね!」
「フィア、そこは張り合うところじゃないわよ」
風呂場に笑い声が広がり、エナも照れくさそうに小さく笑った。
◆◆◆
湯殿を出たエナは、真っ先にペンダントを着け直す。それからTシャツに袖を通し、袖口をつまんで不思議そうに眺める。
「遠くの国の服って、こんなに柔らかいんですね……」
リビングでは、静が冷たいガラス瓶を並べて待っていた。紙の蓋をした、昔ながらのフルーツ牛乳だ。
「エナ、大丈夫だった?はい、冷たいのどうぞ」
「あ、ありがとうございます! この服も、すごく柔らかくて……」
静は自分の瓶の蓋を外すと、悪戯っぽく笑って腰に手を当てた。
「俺の故郷ではね、お風呂上がりにはこうやって飲むのが作法なんだ」
「えっ、なにそれ!フィアもやる!」
フィアが即座に真似をして「ぷはぁ〜っ!」と声を上げる。呆れ顔のアリアの手も、いつの間にか腰に添えられていた。
(遠い国の、作法……)
エナもおそるおそる腰に手を当てて、こくりと瓶を傾けた。
「……甘くて、冷たくて……すごく、美味しいです……!」
最後まで迷っていたセリナも、エナに「師匠も!」とせがまれ、頬を染めながらそっと腰に手を添えたのだった。
ソファに座ったエナの周りを、ハルがくるくると回る。ふわりと涼しい風が吹くたび、湿った栗色の髪が少しずつ乾いていった。
「ハルちゃんの周りって、いつも涼しいね」
ラグの上では、湯上がりのあかね・ルゥ・マルがほかほかの団子になり、ツキが一匹ずつ毛並みを舐めて整えて回っていた。
「それじゃあ、俺もお風呂に入ってくるね。エナは、眠くなったら先に休んでいいからね」
「はい! ありがとうございます、静さん」
◆◆◆
夜も更けた頃、エナはセリナの隣の客室へ案内された。
ふかふかの寝台に横になっても、なぜか眠れない。孤児院の固い寝台の軋む音も、小さな子たちの寝息もない。静かすぎて、かえって落ち着かなかった。
窓辺へ行くと、満天の星がこぼれ落ちそうなほど瞬いていた。
(孤児院のみんな、ちゃんと霊桃の芽にお水をあげてくれたかな……)
それから、ほんの一瞬だけ。
(レナードさん……今ごろ、帰り道のどのあたりかな)
胸元のペンダントを握り、今日一日を思い返す。光と一緒に現れた静、しゅわしゅわの飲み物、たくさんの料理、大きなお風呂。
(……全部、内緒なんだよね)
少しだけ胸がどきどきした。けれどそれは、嫌などきどきではなかった。
その時、扉のすき間から黒い影がするりと入って来る。ツキは寝台へ飛び乗ると、エナの枕元でくるりと丸くなる。
「にゃ」
『早く寝なさい』とでも言うような、少しだけお姉ちゃんぶった声だった。
すう、すう、と小さな寝息が聞こえ始める。孤児院の子たちの寝息とは少し違う。けれど、すぐ隣に誰かがいる温もりは同じだった。
エナの瞼が、だんだんと重くなっていく。
「……おやすみ、ツキちゃん」
しばらくして様子を見に来たセリナは、扉のすき間から寄り添って眠る二人を見つけ、ふわりと微笑んだ。
(ふふ。ツキちゃん、お姉ちゃんのお仕事ですね)
◆◆◆
翌朝、孤児院での習慣で、エナは誰よりも早く目を覚ました。廊下に出ると、ちょうど籠を提げた静と鉢合わせる。
「おはよう、エナ。……ツキ、やっぱりエナのところにいたんだね」
客間を整えながら思った通りだったと、静はくすりと笑う。
「朝ご飯の野菜を採りに行くんだ」
「お手伝いさせてください!」
朝露の降りた畑で、エナは慣れた手つきで葉物を収穫していく。孤児院の裏の畑で、毎日世話をしているのだという。
「上手だね、エナ」
やがてセリナとアリアたち、幼体たちも庭へ出てきた。静は空間から、穂のままの古代麦を一本取り出す。
「せっかくだし、うちの庭でも育つか試してみようかな、と思って」
「それなら、精製した粒も少し蒔いて、育ち方を比べてみましょうか」
リーナはもう手帳を開いていた。
『成長には清らかな魔力水が必要』――ステータス画面の表示を思い出し、静が水場を探していると、ミレイアの腕の中のルゥが小川の方へ耳を向け、「くぅ」と鳴いた。
「ルゥも、水のそばがいいって」
「この小川の水なら、条件を満たすかもしれないね。まずは試してみよう」
屋敷から少し歩いた小川は、朝の光を映してさらさらと澄んだ音を立てていた。水底の小石まで透けて見える流れを、小さな魚がすいっと泳いでいく。
その日当たりの良いほとりで、マルが「ぷぷぅー!」と張り切って土をぽむぽむと叩き、静が短い畝を二本作る。
エナは静に教わって、一粒ずつ丁寧に種を置いていった。あかねは土の匂いを嗅いでくしゃみをし、ハルはフィアと落ち葉を集める。リーナの手帳には『古代麦・屋敷の庭にて試験栽培』の文字が書き込まれた。
薄く土をかぶせ、静が手桶で水をやろうとした時――
「静さん、根元に、そーっとですよ」
霊桃の芽の時と、まったく同じ口調だった。
「はい、先生」
「せ、先生じゃないですっ……!」
小川のほとりに笑い声が広がる。静はそっと水を注ぎながら言った。
「水やりはエナの代わりに、ちゃんとやっておくからね」
孤児院の子たちが、霊桃の芽を引き受けてくれたのと同じだ。エナは嬉しそうに頭を下げた。
(群生地の刈り跡は、一日で新しい穂が覗いていた……屋敷の小川の水なら、どうなるのかしら)
(あの水路と祠……やっぱり、水が鍵なのかもしれないわね)
リーナとミレイアは顔を見合わせたが、何も言わなかった。
「うちの庭、土がいいから、きっと大丈夫だよ」
◆◆◆
その時、ツキがぴくりと耳を立て、花壇の方へ顔を向けた。「にゃ」と短く鳴くと、とことこと小道を戻っていく。
花壇の脇の小さな祠の奥で、ぽわっ、と淡い光が揺らめき小道の向こうから、ツキに寄り添われるようにして、小さな影が「てくてく」と歩いてきた。琥珀や水晶の欠片が集まったような、まんまるの身体。いつかの朝、祠の前まで見送った時と同じように、ツキはゆっくりと歩調を合わせていた。
「あっ、コロンだ!」
フィアが真っ先に駆け出す横で、エナがその場で固まっていた。
「い、石が……歩いてる……!?」
コロンはエナの前で立ち止まると、全身を「こてん」と斜めに傾け、体の中の光を「ぽわっ」と灯した。
まるで、『はじめまして』と挨拶をしているかのようだった。
「……か、かわいい……」
「この子はコロン。遠くの大きな木のところに住んでてね。時々、あそこの祠から遊びに来てくれるんだよ」
「お名前は、私がつけさせていただいたんですよ」
セリナが少し誇らしそうに微笑むと、フィアが待ってましたとばかりに声を弾ませた。
「最初ね、静は『いしお』って付けようとしてたんだよ!」
「……それは言わなくていいよ、フィア」
皆が吹き出す中、エナはおそるおそる手を差し出した。コロンの小さな手が、ちょん、と指先に触れる。
(つめたいのに……あったかい……)
「……よろしくね、コロンちゃん」
コロンはマルの隣へ行くと、一緒に土をぺちぺちと叩き始めた。エナもその隣にしゃがみ込み、三つの小さな手が並んで畝を整えていく。
「そうだ、コロン。この間、すごく綺麗なのを見つけてきたんだ」
静が空間から取り出したのは、透き通った青の潤晶と、温かな赤の炎晶だった。
コロンが両手で抱え込むと、結晶はすうっと体の中へ溶け込み、光が「ポワワッ」と鮮やかに輝いた。青と赤が重なり、ほんの一瞬だけ、淡い紫色が揺らめく。いつか結晶の谷で、二つの結晶を光にかざした時と同じ色だった。
静の胸の奥が、じんわりと温かくなる。理由は分からないけれど、陽だまりにいるような心地よさだった。
ふと見れば、あかねとルゥが揃ってきょとんと首を傾げ、コロンを見つめていた。
(このお屋敷、不思議なことばっかり……でも、みんな優しい)
エナは胸の前で、こっそりと両手を握った。
(コロンちゃんのことも……内緒、だよね)
◆◆◆
朝食のテーブルには、採れたて野菜のスープと、小川のほとりの白桃のような果実、そして蜂蜜をとろりとかけたフレンチトーストが並んだ。
卵と牛乳をたっぷり吸い込んだ生地は、こんがりときつね色。ひと口食べたエナが、目を丸くする。
「これ……師匠が診療所で作ってくれたのと、同じ……!」
「ふふ。静様に教えていただいたものなんですよ」
「静さんが、師匠に……!?」
「うん。前に、一緒に作ったんだよね」
(師匠の、そのまた先生の味……)
エナは宝物を味わうように、ゆっくりと頬張った。
「ねぇ静、古代麦のパンはまだ〜?」
「もうちょっと待ってね」
「さっき蒔いたばかりでしょう」
アリアの呆れ声に笑いが起きる。ダイニングの隅では、コロンが皆の輪のそばで穏やかに光を揺らしていた。
「フレイアさん、もう出発したかなぁ」
静が窓の外を見ると、エナが少しだけ背筋を伸ばした。
「帰ってきたら一番にお茶を淹れるって……約束したんです。それまでに、もっと美味しく淹れられるように練習しておきます!」
「姉さん、喜ぶわね」
ミレイアが嬉しそうに微笑んだ。
◆◆◆
出発の時間。布包みと飴の小袋を抱えたエナは、皆に一人ずつお辞儀をしていった。
「またいつでも遊びに来てね」
「今度は、のぼせないようにね」
アリアたちに笑顔で見送られ、エナは幼体たちにもしゃがみ込んで頭を下げる。そして最後に、コロンと並んで座るマルの前で、少しだけ真面目な顔になった。
「マルちゃん。麦の畑、お願いね」
「ぷぷぅー!」
任せて、と言わんばかりにマルが胸を張り、隣でコロンも光をぽわっと灯した。
「コロンちゃんも、またね」
コロンが小さな手を「ふりふり」と振り返す。ツキは当然のような顔で、セリナの足元に並んでいた。
「静さん、本当にありがとうございました! お風呂も、お料理も、服も……全部……!」
「またいつでもおいで。コロンも、待ってると思うよ」
静が右手を軽くかざすと、空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれる。光の向こうで、エナが大きく手を振っていた。
上弦の宿へエナとセリナ、ツキを送り届けたあと、静は屋敷へと転移で戻りアリアたちを古代麦の群生地へと送った。
「今日は群生地の、さらに北側を見てくるわね」
「お昼になったら、迎えに来るね。お腹すいたら連絡して」
「お昼ご飯、楽しみにしてるね♪」
◆◆◆
皆を送り出した屋敷はしんと静かになった。
ここに残っているのは静とコロンだけだ。
小川のそばへ行くと、蒔いたばかりの畝の隣に、コロンがちょこんと座っていた。静の足音に気づくと、くるりと振り返って光を灯す。
「コロン、見ててくれたの?」
答える代わりに、小さな身体がちょこんと上下に揺れた。
「エナとの約束だからね」
根元に、そーっと。静がゆっくりと水を注ぐと、隣でコロンが小さな手で、ぺち、と土を叩いた。
初夏の風が、ほとりの木の葉を優しく揺らしていく。
「……さてと。フォルティナさんのお弁当、何にしようかな」
隣でコロンが、楽しそうに、こてん、と首を傾げた。




