第九話 湯けむりと朝の約束
後片づけも一段落した頃、静はセリナに声をかけた。
「セリナさん。お風呂の準備ができたらお呼びしますので
それまで皆さんとゆっくりしていてください」
その言葉にセリナは一瞬、きょとんとした表情を浮かべる。
「お風呂……ですか?
あの……貴族の方が入る、あのお風呂でしょうか?」
「貴族、というのがどんな方なのかは分かりませんが……
たぶん、そのお風呂だと思いますよ」
静はそう答えつつ、内心では首を傾げていた。
(……お風呂って、そんな特別なものだったっけ?)
日本では当たり前だったお風呂
だが、この世界では違うのだろうか。
その戸惑いを察したのか、セリナは少し照れたように説明する。
「私たち平民は、普段は井戸水を汲んで、温めた布で体を拭くくらいなんです。
夏なら川で水浴びもできますけど……冬は、とても無理ですから」
「アリアさんたちのような上級冒険者の方だと、清浄の魔道具や
私のように生活魔法が使える人は、清浄魔法で済ませることが多いですね」
「なるほど……」
静は納得したように頷く。
この世界では、お風呂は贅沢品なのだ。
「それなら、今日はぜひうちのお風呂を使ってください。
ゆっくり湯船に浸かれば、きっと疲れも取れますから」
そう言って、セリナを皆のいるリビングへと促した。
◆◆◆
一方、静はキッチンに戻りツキを見下ろす。
「さて……人数も多いし、お風呂も広い方がいいよね?」
ツキは呼ばれたことに気づいたのか、首を傾げる。
静は屋敷コアのメニューを開き、《増改築》を選択した。
浴場の項目を見ていくと、様々な選択肢が並んでいる。
「大浴場……露天……あ、温泉もあるんだ」
少し迷ってから、静は楽しそうに呟く。
「今日は温泉にしようか。ツキも一緒に入る?」
「にゃ~」
嬉しそうな鳴き声に静も自然と笑顔になる。
「あ、そうだ。泊まってもらう部屋も用意しないと」
そうして静は、次々と必要な準備を整えていった。
客室を五つ。それぞれに寝具を用意し、清潔なタオルと寝間着を準備する。
◆◆◆
リビングへ戻ったセリナが皆に伝える。
「静さんがお風呂の準備ができたら、呼んでくださるそうです」
「お風呂!?」
アリアが思わず声を上げる。
「そんなものまであるの……?」
「また魔道具かしら?」
リーナは興味津々だ。
「すごいね! 本当に何でもあるんだ」
フィアは目を輝かせる。
「お風呂……とても甘美な響きですね」
ミレイアはうっとりと呟いた。
旅を続けていると、ゆっくりお風呂に入る機会は少ない。
その時、ふとミレイアが表情を変える。
「……今、何か感じなかった?」
「はい……神聖な気配のような……」
セリナも小さく頷く。
「魔道具とは違う魔力ね。でも、危険な感じはしない」
リーナが補足する。
そう話しているところへ、静がやって来た。
「皆さん、お風呂の準備ができましたよ。
タオルなどは置いてありますので、ご自由に使ってください。
設備の使い方は……セリナさん、お願いできますか?」
そうして一行は浴場へと案内される。
◆◆◆
浴場の扉が開いた瞬間、湯気と柔らかな香りが広がった。
「……広……」
アリアの声に皆が足を止める。
石造りの広い湯船に、澄んだ湯が満たされている。
天井は高く、窓からは月明かりが差し込んでいる。
「魔力の流れが……とても穏やかですね」
ミレイアが静かに言った。
「床、滑らないよ!」
フィアが楽しそうに跳ねる。
湯に浸かった瞬間、自然と息が抜けた。
「……温度が、ちょうどいい……疲れが溶けていく感じがするわね」
アリアも目を細める。
「肌……すべすべする」
リーナが驚いたように腕を撫でる。
「温泉……心にも作用しますね」
ミレイアの言葉に、皆が静かに頷いた。
笑い声が湯気の中に溶け
旅の疲れがゆっくりと癒されていく
◆◆◆
湯上がり後も驚きは続いた。
「この風……すぐ乾く……」
ドライヤーを使ったリーナが目を見開く
「髪、すごく柔らかくなってない?」
フィアがセリナの髪を見て言う。
セリナはそっと触れ、その感触に目を潤ませる。
こんなに柔らかい髪は初めての経験だった。
◆◆◆
その夜、屋敷の灯りはいつもより多く灯されていた。
まだ答えは出ていない。
けれど――
翌朝、甘い香りに包まれた朝食の席で
もう一度、大切な話が交わされることになる。
それは、祈りの行き先を決めるための、静かな約束だった。
世界は――また少しだけ、動き始めている。
静かに、だが確実に。
この出会いが、どんな未来を紡ぐのか。まだ誰も知らない。
だが、確かなことが一つある。
この場所は――もう、一人だけの場所ではない。
楽しそうな笑い声
そして祈りが満ちる場所へと
変わり始めている。
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