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観測者に見守られる屋敷で生きることにした ~静は世界を支配しない~  作者: 灯乃しんわ
第十八章 悠久の大樹と繋がりゆく日常

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第一話 琥珀色の焼き菓子と小さな住人達

空白地帯の屋敷のキッチンには、朝から優しく甘い香りが心地よく立ち込めていた。

パチパチと竈の薪が爆ぜる音に混じって、トントンと小気味よい包丁の音が響く。静とセリナは並んでまな板に向かい、今日の大樹探索へ向けた朝食とお弁当の準備をテキパキと進めていた。


「静様、卵焼きの味付けはいつも通りでよろしいですか?」


「うん、ありがとうセリナ。あ、こっちの野菜の飾り切り、すごく綺麗だね」


「ふふ、良かったです。みんなが喜んでくれると嬉しいですね」


セリナが穏やかに微笑む隣で、静は焼き上がったばかりのオーブンへと手を伸ばした。ミトンの手袋をはめて扉を開いた瞬間、リビングの空気が一気に書き換わる。

今日のおやつの目玉として作ったのは、『蜂蜜ボール』を贅沢に練り込んだ焼き菓子。ただ甘いだけでなく、嗅ぐだけでも身体の奥からじんわりと温かくなるような極上の香りがふわりと広がり、カウンターの周りでは幼体たちがそわそわと鼻を鳴らし始めていた。


静は焼き上がった菓子の中から、特にふっくらと一番綺麗に出来上がったものを丁寧に皿へと取り分けた。多めに作ったおかずのセットと共に小さなお盆に載せると、セリナへと優しく托す。


「それじゃあセリナ、女神様へのお裾分けをお願いしてもいいかな」


「はい、お任せください」


セリナがお盆を両手で持って歩き出すと、足元から漆黒の滑らかな毛並みをしたツキが、当然のような足取りでトコトコと後ろをついていった。

静かな礼拝堂へと入り、祭壇の前に膝をついたセリナは、そっと目を閉じて胸の前で手を合わせる。


(ルーナフィリス様。今日もみんなで大樹へ行ってまいります。静様がとても美味しい焼き菓子を作ってくださいましたので、どうぞお召し上がりください)


丁寧な近況報告と共に祈りを捧げると、お盆の上の品々が淡い光の粒子に包まれ、跡形もなくスッと神域へ回収されていく。それを見届けたツキが、届いたことを知らせるように「にゃん」と満足げに喉を鳴らした。それは屋敷の住人たちにとって、今日も変わらない丁寧な日常の習慣だった。


その間、リビングではアリアたち《ルミナ・ヴェール》の面々が、上級冒険者としての的確な手つきで探索装備の確認や、休憩用の道具をテキパキと背嚢へ仕舞い込んでいた。


◆◆◆


全員の準備が整った後、静がごく自然に意識を向けて転移の力を発動させる。視界がふわりと淡い光に包まれた次の瞬間には、一同はすでに大樹の一層目にある『大樹の泉』のすぐ傍らに佇む祠へと到着していた。

泉には大樹の上部からさらさらと透明な雫が絶え間なく流れ落ちており、周囲には心地よい静寂が満ちている。前回エリアコアを接続したことで、大樹の内部へと続く美しい螺旋状の石階段が壁面に現れており、一行は足元を確かめながら少しずつ上り始めた。


「地上から一層目に上がるときも思ったけれど、本当に不思議な階段よね」


アリアがひんやりとした石壁に軽く手を触れながら言うと、静も「そうだね、どこか現実離れしているというか、でも歩きやすくて安心するな」とのんびり応じる。

しばらく階段を上っていくと、広めの踊り場が見えてきた。息を整えるためにそこで一度休憩を挟むことにした一同だったが、リーナがふと、古い石壁の一部に目を留めた。


長い年月を経て薄れかけてはいるが、そこには緻密なタッチで「巨大な大樹」と「その梢を舞うドラゴン」の姿が描かれていた。


(……この魔力の残滓、ただの壁画じゃないわ。歴史の表舞台にすら残っていないような、気の遠くなるほど古い時代の神話の記憶……)


魔術師であるリーナは、絵から発せられる微かな歴史の重みに肌を粟立たせ、内心で深く戦慄していた。隣にいるアリアもまた、剣士としての本能が仄かな緊張を伝えてくるのか、言葉にできない何かを感じ取って束の間だけ表情を引き締めていた。それは世界が生まれた瞬間に姿を成した第一階位の世界樹《アーク=エテルナ》と、それに対を成す原初竜《ヴィータ=ドラコス》――人界には伝わることのなかった、失われた神話の一場面そのものだった。


そんな内容を全く知らない静は絵の前に立ってぽつりと呟いた。


「へえ、古いのに綺麗な絵だね。……このドラゴン、なんだか丸っこくてマルたちみたいで可愛いな」


「ぷぅ?」


リーナの足元にいたマルが首を傾げて鳴く。静のあまりにも緊張感のないのんびりとした感想に、アリアとリーナは思わず顔を見合わせ、内心で(静は相変わらずね……)と深い脱力を覚えて苦笑するのだった。


◆◆◆


休憩を終えて再び螺旋階段を上っていくと、やがて頭上から柔らかな光が差し込み、明るい出口が見えてきた。

何の気負いもなくそのまま進もうとする静の前に、アリアがすっと腕を出して優しく制した。


「静、待って。念のため、私たちが先に出るから安全を確認するまでそこで待っていてちょうだい」


「あ、うん。わかった、よろしく」


静が素直に足を止めると、アリアを先頭に四人が武器へ手をかけながら鋭い踏み込みで光の先へと先行していった。だが、外へ出た直後、フィアの弾んだ声が響き渡った。


「わぁ、すごい! みんな見て、すっごく可愛い!!」


緊張の抜けた声に誘われるようにして静たちが階段を抜けると、そこには驚くべき光景が広がっていた。

地面の代わりになっているのは、大樹の太い大枝の数々だった。それらが幾重にも複雑に交じり合い、まるで広大な緑の広場のような二層目のエリアを形成している。頭上からは梢の隙間を縫って春の柔らかな陽光が降り注ぎ、周囲の葉がきらきらと輝いていた。


そして何より一同を驚かせたのは、そこに暮らす小さな住人たちだった。

見たこともないほど色鮮やかで美しい小鳥たちが枝々を飛び回り、ふさふさとした尾を持つ愛らしいリスに似た小動物たちが、花の蜜や木の実を求めてちょこちょこと走り回っている。

人間が珍しいのか、小動物たちはアリアたちの周りを興味津々に飛び回り、さらには自分たちとサイズが近いあかねたち幼体群を仲間だと思ったのか、小さな手や嘴で一生懸命に集めてきた瑞々しい木の実を運んできては、目の前へとそっと置いてくれたのだ。


予期せぬ小さな贈り物をもらった幼体たちは、すぐに大喜びで応じた。


リーナの足元にいたマルは、もふもふの毛皮を揺らしながらリスから木の実を差し出され、嬉しくてたまらなくなったのか、大枝の上の柔らかな苔を小さな手で「ぽむぽむ」と叩きながら「ぷぷぅー!」と得意げに声を弾ませた。


フィアの肩の上のハルは、集まってきた小鳥たちに囲まれて羽をパタパタと動かし、フィアにだけ聞こえる甘えた声で「ひゅるぅ」と鳴いて顔を寄せている。


アリアの足元ではあかねが小さな鼻をくんくんと鳴らして「きゅ」と短く挨拶し、ミレイアの腕の中のルゥもロップイヤーのような耳をパタパタと揺らして「くぅ」と可愛らしく鳴き返す。


ツキはみんながはしゃぎすぎないように一歩引いた場所から優しく見守りつつ、静の肩の上から「にゃ!」と誇らしげに胸を張っている。


「可愛いね。みんな、せっかく素敵な木の実をくれたんだから、僕たちからも何かお返しをしようか」


静はふわりと表情を緩めると何もない空間へそっと手をかざし、ごく自然な手つきで、お弁当と一緒に収納していた新鮮な果物や朝焼いたばかりの蜂蜜ボールの焼き菓子を取り出した。


静とセリナは、小動物たちが食べやすいように果物を切り分け、焼き菓子を小さくちぎって優しく差し出した。

焼き菓子から漂う、ほんのり神気を孕んだ琥珀色の甘く香ばしい香りに、大樹の小動物や小鳥たちは一瞬で目を輝かせた。夢中になってぱくぱくと食べ始めると、そのあまりの美味しさと優しい味に大興奮したのか、静や幼体たちの周りを嬉しそうにくるくると跳ね回り始める。


大枝の上は、まるで小さな祭りのような賑やかさと温かな空気に包まれていった。


「ふふ、静の作るお菓子は、大樹の動物たちも一瞬で虜にしちゃうわね」


アリアが武器から完全に手を離し、呆れたように、けれど心から楽しそうに笑う。


「本当に、みんなとっても楽しそうですね」


セリナも嬉しそうに目を細め、静と並んで動物たちの毛並みを優しく撫でてやった。

緑きらめく二層目の本格的な探索を前に、まずはこの愛らしい住人たちとのんびりとしたお茶の時間を楽しむ一同の笑い声が、春の穏やかな風に乗って大樹の梢へと優しく溶けていくのだった。

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