第十一話 隠し通路の先と琥珀色の恵み
静の手が触れたことで、さらりと表皮が溶けるようにして現れた空間。一行はその不思議な人工の通路へと一歩ずつ足を踏み入れていった。
「うわぁ……。外から見るよりも、ずっと綺麗で不思議な通り道ね」
アリアがランタンを軽く掲げながら、感嘆の声を漏らす。通路の内部は大樹の根元から登ってきた時よりもさらに密度を増した、淡く美しい発光苔が壁一面に群生している。満天の星空を閉じ込めた回廊を歩いているかのような神秘的な光景が広がり、全員の足取りも自然と緩やかになる。
「きゅきゅ!」「くぉん」「ぴぴっ!」
そんな幻想的な光の道がすっかり気に入ったのか、幼体たちは楽しそうに行ったり来たりと元気いっぱいに駆け巡りながら、静たちの足元をにぎやかに先導していた。ツキもお姉ちゃんらしく、その愛らしい大はしゃぎっぷりを「にゃあ」と喉を鳴らしながら、一歩引いて見守っている。
歩き進めると仄明るい通路の先に出口が見えてくる。一行が光の中へと踏み出すと――そこには先ほどまでいた桜色の花弁の海とは、全く異なる緑豊かな第二の大枝が広がっていた。
「へぇ、通路を一本挟んだだけなのに今度は全然違う場所なんだね」
静が小さなカゴを片手にのんきな声を上げる。そこは青々とした瑞々しい緑がどこまでも広がる空間。足元には色とりどりの見たこともない美しい花々が咲き乱れ、少し奥には香ばしい匂いを漂わせる大粒のナッツが実った木々が整然と並んでいる。
ミレイアの腕の中のルゥが「くぅ」と穏やかに鳴き、花の香りを深く吸い込むように鼻先を動かした。「良い香りがするのね」とミレイアが優しく呟くと、ルゥは満足げにロップイヤーの耳を揺らした。
(――大樹の上層ごとに、これほど明確に環境や生態系が変わるなんて……。ダークエルフの古い伝承にある、あの『伝説の樹』の記述にそっくりじゃない……)
リーナは手帳を片手に、冷や汗が背中を伝うのを覚えながら内心で一人、呆然と立ち尽くしていた。隣に立つミレイアや、旅装を纏ったフレイアも、そのあまりにも神聖な大樹の空気にうすうすその正体を察していたが、静ののんきな雰囲気を壊さないよう、あえて誰もそれを言葉にはせず視線を交わし合うにとどめていた。
そんな中、色鮮やかな花々の周囲から、羽をパタパタと鳴らす心地よい羽音が響いてきた。
「あ、見て!見て!大きなハチ……?丸くて可愛い!」
フィアが指差した先をのんびり飛び交っていたのは、両手サイズほどもある、驚くほど丸くて大きなミツバチたちだった。ぬいぐるみのようにふっくらとした愛らしい姿をした彼らは、この大樹の層と深く結びついた不思議な存在なのだが、こちらから敵対行動をしない限り非常に人懐っこく優しい性格をしていた。
大きなミツバチたちは静たちの一団を見つけると、すっと空中から降りてきて、興味津々といった様子で周囲を優しく飛び回りながら観察を始めた。やがて静たちの纏うおだやかな気配をすっかり気に入ったようで、ミツバチたちは嬉しそうに小さく身体を揺らす。そして一度、大枝の上にある大きなウロの巣へと戻ると、すぐにそれぞれの両手で何かを大切そうに抱えて、再び戻ってきた。
「ん?何か持ってきてくれたみたいだよ」
ミツバチたちが静やセリナ、足元にいる幼体たちの前にそっと差し出したのは、卵ほどの大きさの不思議な蜂蜜ボールだった。シャボン玉のような透明で柔らかな殻の中に、見るからに濃厚な琥珀色のはちみつがたっぷりと満たされている。
「にゃあ」「くぉん!」
ツキが澄ました声で短く鳴いて自分の前の蜂蜜ボールをそっと確かめ、ルナたちは目を輝かせてパチンと殻を優しく割って、ペロペロと夢中で味わい始めた。特に静とセリナのところには、気が付けばたくさんのミツバチたちが蜂蜜ボールを運んできてくれていたため、静が持っていた手提げのカゴは、いつの間にか綺麗な琥珀色の輝きでいっぱいになっていた。
「うわぁ、こんなにたくさん、ありがとうね。これならお屋敷に戻ってから、礼拝堂でもたっぷりお供えできそうだね、セリナ」
「はい、静様。ルーナフィリス様たちもきっと、豊かな実りを喜んでくださいますね」
セリナが黒晶の髪飾りを揺らして本当に嬉しそうに微笑むと、静はカゴをそっと置き、お屋敷から持参していた小さな移植ゴテを取り出した。
「お礼と言ってはなんだけど……この空いている場所に、これを植えておくね」
静はふかふかの樹皮の土壌に手際よく小さな穴を掘ると、傍らの空間からごく自然な仕草で、あらかじめ株分けしておいた瑠璃星草と星霞草の苗を取り出し、丁寧に植え込んでいく。
「この二つの花も、お屋敷の近くで綺麗に咲くんだ。きっとすごくいい蜜になると思うから仲良く使ってね」
静が優しく語りかける足元では、マルがいつもの様に「ぽむぽむ」と土を叩くように整えていた。マルが小さな手でふかふかの土壌に触れるたび、大樹の豊かな魔力と屋敷から持ってきた星霞草の苗が、まるで見えない回路で結ばれるようにして、しっとりと土の奥深くへ根を馴染ませていく。
静がトントンと移植ゴテを片付けて立ち上がると、星霞草がさっそく淡い銀色の光を小さく揺らし始めた。それを見た大きなミツバチたちは、まるで大喜びしているかのように空中でくるくると嬉しそうにダンスを踊り、再び花の海へと元気に飛んでいくのだった。
静はふと、花の海のさらに奥、大樹の枝が緩やかなお椀状にくぼんだ場所に、瑞々しい緑の葉が茂っているのを見つけた。近づいてのぞき込んでみると、そこには驚くほど真っ赤に熟した大きなトマトや、トゲがぴんと立った鮮やかな緑色のキュウリが、まるで誰かに丁寧に手入れされているかのように、たわわに実っていた。
「へえ、大樹の上には野菜も育っているんだね。しかも、すごく美味しそうだね」
静が目を細めて感嘆すると、周囲を飛んでいたミツバチの一匹がまるで「持っていっていいよ」と促すように、小さな羽をパタパタと鳴らしてトマトの茎のそばをぐるぐると回った。
「いいの?ありがとう。じゃあ、少しだけ分けてもらおうかな」
静はセリナと一緒に、大樹の恵みである夏野菜を優しく一つずつ摘み取っていった。静の手が触れるだけで、野菜たちはまるで自ら喜んで差し出されるように、ぽろりと綺麗にヘタから離れていく。カゴの中にはずっしりと重みのある真っ赤なトマトと、ひんやりとしたキュウリが収まっていく様子を、リーナはまたしても手帳を握りしめながら複雑な表情で見つめていた。
(……大樹の純粋な魔力だけで、ここまで完璧な形と栄養を持った作物が育つなんて……。それにあのミツバチたち、完全に静さんに懐ききってるじゃない。もう驚かないって決めたのに、また私の常識が静かに崩れていく気がするわ……)
そんなリーナの内心の葛藤など露知らず、静は収穫したばかりの野菜の入ったカゴを持ち上げ、みんなを振り返って穏やかに微笑んだ。
「さて、それじゃあ、この採れたてのトマトやキュウリも合わせて、お昼ごはんにしようか」
静の言葉でシートの場所へと戻り、お弁当の時間が始まる。お屋敷で仕込んできたおむすびやおかずに、みずみずしい夏野菜のざく切りサラダ。そして、たった今もらったばかりの濃厚なはちみつを贅沢に絡めた、香ばしいナッツ。
「――美味しい……!なんですか、このはちみつは……。口の中でとろけるのに、ちっともしつこくないわ。もう、仕事になんて戻りたくなくなっちゃう」
小さなサンを頭に乗せたまま、フレイアが至福の溜息を漏らす。
「本当ね、フレイ。風もこんなに心地よくて、目の前には可愛いミツバチさんたちとお花畑……。静さんのお屋敷だけでなく、この大樹の上まで、まるで夢のような優しさに満ちていますね」
フォルティナもまた、膝の上で満足そうに丸くなっている白銀のルナを愛おしそうに撫でながら、心からのんびりとした笑顔を咲かせていた。
穏やかで美味しいピクニックのひととき。大樹の爽やかな風が吹く中で、みんなの幸せそうな笑い声が、どこまでも優しく響き渡っていた。




