第十話 大樹の果樹園と新たな発見
大樹の上へと向かう当日の朝。屋敷の周囲には朝露に濡れた草木のみずみずしい香りが漂っていた。
「よし、朝食とお弁当に使う野菜を少し採ってこようかな」
静が小さなカゴを手に勝手口から庭の畑へと歩き出すと、パタパタと軽快な足音が後ろから追いかけてきた。
「静さん。もしよろしければ、私も収穫をお手伝いさせてください」
薄紫色の美しい髪を軽く結わえたフォルティナが、おだやかな笑みを浮かべて並び立つ。街を治める若き領主としての威厳を下ろした自然な距離感だった。
「うん、ありがとうフォルティナさん。じゃあ、あっちの瑞々しい葉物をいくつかお願いできるかな?」
「はい、お任せください」
二人がのんびりと会話を交わしながら朝の畑で野菜を摘んでいる頃、日課である礼拝堂での穏やかな祈りを終えたセリナは、すでにエプロンを締めて台所に立っていた。屋敷の広々としたキッチンには、コトコトと温かいスープが煮える心地よい音が響き、お弁当用の卵焼きの香ばしい匂いが広がり始めている。
「セリナ、私も手伝うわ!これ、どうすればいい?」
そこへ少し料理ができるようになって自信をつけたアリアが元気よく腕をまくって合流する。さらに畑から戻った静とフォルティナ、そしてフレイアも加わり、台所は一気ににぎやかな調理風景へと変わっていく。
そんな美味しい匂いが満ちる台所の隅では、いつものように味見係の攻防が始まろうとしていた。焼き上がったばかりのジューシーな肉詰めを前に、ツキが「にゃあ」と喉を鳴らし、あかねが「きゅ!」と翼を揺らして一番乗りをアピールする。だが、その二匹の前に新入りのルナとサンがちょこんと控えめに進み出た。
「あら、ルナ……お腹が空いてしまったのですか?ふふ、本当に良い子ですね」
「サン、あんたもそんなに目をきらきらさせちゃって。ほら、出来たての一番美味しいところよ、どうぞ」
いつもなら周囲を鋭く見据える大人の女性であるはずのフォルティナとフレイアが、すっかり普段の威厳を忘れてデレデレの笑顔を浮かべていた。二人は小さなルナとサンの前に屈み込み、まだ熱いお肉を丁寧にふーふーと冷ましてから、真っ先に口元へと引き渡してしまう。ツキが「にゃ、にゃあ……」と少し呆れたように耳を伏せ、それを見たあかねも「きゅぅ」と首を傾げる中、ルナは「くぉん」と嬉しそうに白銀の尻尾を振り、サンも「ぴぴっ!」と薄黄色の羽毛を震わせて幸せそうに味見を堪能していた。
そんな微笑ましい光景の裏側のリビングでは、フィア、リーナ、ミレイアの三人がピクニック用の大きなシートや水筒、万が一のための魔導具といった道具類をテキパキとカゴにまとめて準備を進めていた。
◆◆◆
にぎやかな朝食を終え、すべての準備を整えた一行は、屋敷の玄関ホールへと集まった。
「それじゃあ、出発しようか」
静が右手を軽くかざすと、柔らかな光の粒子が全員を優しく包み込んだ。一瞬の後、視界を遮っていた光がさらりと引く。次の瞬間、フォルティナとフレイアは揃って息を呑んでその場に立ち尽くした。
「――っ、これは……」
「信じられない……。本当に、木の上なの、ここ……?」
二人の瞳に飛び込んできたのは、息を呑むほどに圧倒的な天空の世界だった。足元には、まるで上質な絨毯のように一面を埋め尽くす、淡い桜色の花弁。頭上を見上げれば、人族の街のどんな建造物よりも太く巨大な、世界の屋根とも言える大枝が幾重にも重なり、そこから満開の花びらが春の雲のように咲き乱れている。さらに枝の端へと視線を向ければ、はるか雲の下に広がる大陸の山並みや、空白地帯の緑が陽光を浴びてきらきらと輝く絶景が、どこまでも広がっていた。世界を包み込むような圧倒的な美しさと神聖な空気に、二人はただただ圧倒されるばかりだった。
「ふにゃあ!」
そんな二人の緊張をほぐすように、地面に降りた幼体たちが大喜びで走り出す。ルナとサンも、あかねやハル、ルゥにマルたちと一緒になって、ピンクの花弁の海の中を楽しそうにゴロゴロと転がり回っていた。
「よし、まずはここにシートを広げて、休憩場所を確保しようか」
静の言葉でみんなが動き、花弁の絨毯の上に広々としたシートが敷かれた。おだやかな風を感じながら、それぞれ大樹の果樹園の散策や、たわわに実った巨大な果実の収穫を楽しみ始める。
静はカゴを片手に、地面代わりになっている太い大枝の端の方へと何気なく歩いていった。ふと視線を外に向けると、少し離れた場所にも、同じように広大な水平面を持つ、別の太い大枝が並ぶようにして伸びているのが見えた。
「へえ……向こうにも、まだ行ける場所があるのかな」
静がぽつりと呟いた、その時だった。彼の足元をのんびり歩いていたツキが、ふいに耳をピクリと動かし、「にゃ」と一段高い樹皮の隠れた場所を指し示すようにして鳴いた。
「ん?ツキ、どうしたの?」
静が歩み寄り、ツキが見つめる大樹の表皮をそっと覗き込む。古く厚い樹皮の隙間に、ひっそりと埋め込まれるようにして存在していたのは、屋敷のエリアコアとは明らかに異なる意匠の、けれど触れずとも伝わってくるほど神聖な神気と魔力を帯びた古い石板だった。
「なんだか不思議な石板だね」
静はいつものように特に深く考えることもなく、自然にその石板へと指先を伸ばした。その光景が少し後ろから手帳を片手に追いついてきたリーナの目に留まる。魔術師としての鋭い直感が、その石板の持つ底知れない魔力の格に気が付く。
「――ちょっと、静!?むやみにそんな古代の遺物に触ったら、どうなるか分からないから危ないわよ!!」
リーナが冷や汗を流しながら、声を大にして叫ぶ。しかしその制止の声よりも、静の白い指先が石板の表面にそっと触れる方が、ほんの一瞬だけ早かった。
――キィン……
指先が触れた瞬間、空気が澄むような高い神気の響きが走り、続いて石板の奥底から、ボゥン……と大樹の芯を震わせるような重い共鳴が広がった。
静の手が触れた瞬間、石板は拒絶の反応を一切示すことなく、静の透き通った魔力を受け入れて優しく発光した。目の前にあった強固な大樹の表皮が、まるで水面に溶けるかのように『さらり』と消失していく。
光が引いた跡には大人が一人、余裕で通れるほどの綺麗な空間――人工的な通路が現れていた。通路の内壁には、あのウロの階段と同じように淡く発光する苔が群生しており、温かな光の道の遥か先には、遮るもののない外の風景と、先ほど静が見上げていた隣の太い大枝の緑がはっきりと覗いている。
「うそっ……結界や空間の位相ごと、樹木の一部を書き換えたというの……?」
「まぁ……お隣の大枝まで、真っ直ぐ道が繋がってしまいましたね」
リーナが手帳を抱えたまま顎が外れそうなほど呆然とし、フォルティナやフレイアたちも言葉を失って立ち尽くす中、当の静だけはいつも通りのんきに頭を掻きながら、ぽつりと声を漏らすのだった。
「あ、本当だね。向こうの大枝までちゃんと繋がっているみたいだね。せっかくだし、向こうにも行ってみようか」
その一言に、リーナが「……まあ、静がそう言うなら」と呆れたように手帳を開き直し、みんなが自然と頷いた。こうして、誰も予定していなかった探索が、またしてもごく自然に始まろうとしていた。




