第十話 春の予感と次の種
少しずつ、一日の日が長くなってきた冬の終わり。空白地帯の屋敷の台所では、朝から心地よい調理の音が響いていた。
「静様、お野菜の準備、こちらでよろしいですか?」
「うん、ありがとうセリナ。いつも助かるよ」
静とセリナが並んで立っている台所には、えも言われぬ香ばしく甘い匂いが漂っている。鉄鍋の中であの老職人の醤を贅沢に使った「特製肉そぼろ」を静がじっくりと炒め、その隣でセリナが手際よく彩り豊かな冬野菜を刻んでいく。今日セレニアの工房へ持参する、お礼のお弁当の仕込みだった。
「にゃ」
静の足元で、ツキが台所の様子を静かに見守るように座っていた。その隣では夕日の色をしたあかねが、オレンジ色の小さな腹巻きと帽子を揺らしながら、台所の温かな熱気が心地よいのか「きゅ!」と嬉しそうな声を上げている。
アリアの愛剣を受け取るため、そして素晴らしい包丁を仕込んでくれたことへの感謝を込めた、お屋敷の全員で作る特別なお裾分け。その準備が整うと、一行はのんびりとした足取りで再びセレニアの街へと向かった。
◆◆◆
カン、カン、と金属音が響く職人通りの奥。静たちが古びた工房の前を訪れると、奥から無愛想に顔を出したドワーフの老職人――最高鍛冶匠バルドラン・ガルートは、静の手元にある、ずっしりとした籠に目を留めてふんと鼻を鳴らした。
「約束通り、手入れは完璧に終わらせてある。その代わりの直剣を返しな」
「はい。本当に素晴らしい直剣をありがとうございました。アリアも凄く助かったと言っていました」
アリアが腰から直剣を外し、両手で丁寧に返却する。バルドランはその刀身を一瞥して満足げに頷くと、奥から一本の細身の剣を差し出してきた。受け取ったアリアの目が、かすかに見開かれる。拵えは元のままだが、重心のバランス、そして鯉口をわずかに切った際に見えた刃の輝きは、預ける前よりも明らかに洗練され、本来持つ性能を余すことなく引き出されたかのような仕上がりだった。
「技術を安売りした覚えはねえ。お前さんの剣の癖、刃の偏り、すべて修正して素材の限界まで引き上げておいた。……おい、あんちゃん、それはなんだ」
バルドランが顎で静の籠を指す。静はのんびりと微笑んで、籠の蓋を開けた。
「この前頂いた包丁のあまりの切れ味に感動して、新しく仕込んできた三色弁当なんです。あの美味しい醤をタレに使った肉そぼろと、それからお茶請けに作った甘い焼き菓子です。お礼と言ってはなんですが、皆さんで食べてください」
「……ちっ、余計な真似を」
バルドランは悪態をつきながらも、籠から漂う醤の最高の匂いに、喉を小さく鳴らした。若い弟子が「うわあ、美味そう!」と目を輝かせるのを拳で軽く小突いた老職人は、不器用そうに籠を受け取り、ふいと顔を背けた。
「その包丁、大事に使いな。刃が鈍ったら、また持ってこい」
「はい! ありがとうございます。また美味しいものができたら、お裾分けに持ってきますね」
静が少年のように屈託なく笑うと、その横でセリナが「今日のお弁当、喜んでいただけると良いですね」と穏やかに頭を下げた。バルドランはセリナをちらりと見て、アリアの腕の中のあかねが「きゅ」とひとつ鳴くのに合わせるように、口元をわずかに緩めるのだった。
◆◆◆
それからさらに数日後。屋敷の朝。
静が庭を見回っていると、瑠璃星草の根元に積もっていた白い雪が、ほんの少しだけ融け始めていることに気づいた。その黒い土の下から、小さな、けれど力強い緑の新芽が、ひょっこりと顔を出している。
「あ、もう春の準備をしてるんだね」
静が腰を落として目を細めると、足元についてきていたマルが、その新芽の前で「ぽむ」と短い前足で土を優しく叩いた。そして、ふっくらとした翼をパタパタと揺らしながら「ぷぷぅー」と得意げに胸を張って鳴く。
「ふふ、マルも知ってたの? 教えてくれてありがとう」
静が苦笑しながら丸い頭を撫でてやると、マルは嬉しそうに目を細めていた。
◆◆◆
縁側には、いつもと変わらない穏やかなお茶の時間が戻ってきた。
「今年の冬も、色々あったわね」
斬れ味を取り戻した愛剣を愛おしそうに確認しながら、アリアがふうと満足げな溜息を漏らす。その足元で、あかねが「きゅ」と短く同意するように鳴いた。
「セレニアの屋台、また行きたい! あの串焼き、ハルも気に入ってたもんね!」
フィアが元気よく言うと、肩の上のハルが「ひゅるぅ!」と同調するように羽を揺らし、心地よい風を縁側に巡らせた。
「お裾分けや買い出しの記録が増えすぎて、手帳が一冊終わりそうだわ。でも、とても有意義な冬の記録ね」
リーナが新しく調達した手帳の表紙を撫でながら、静かに口元を緩める。その足元のマルが「ぷぅ」と短く得意げに鳴いた。
「また新しいことが、たくさん増えていくわね。次の季節も、本当に楽しみだわ」
ミレイアが腕の中のルゥをそっと抱き直すと、ルゥも「くぅ」と満足げに目を細めていた。
静の肩の上では、ツキがのんびりと目を細めている。縁側の端にはセリナが静の隣に腰を下ろし、温かいお茶のカップを両手で包み込んでいた。
(静様のおかげで、今年の冬もたくさんの温かいことがありましたね)
心の中で静かに思いながら、セリナはそっと空を見上げた。まだ冬の青さを残しているけれど、どこかほんのりと春の色が混じっているような、そんな空だった。
その時、リビングの壁に掛けられた連絡板が、ふわりと淡い光を放った。静が覗き込むと、フォルツの領主館からの、優しい冬の終わりの報せが映し出されていた。
【フォルティナ:今朝、領主館の窓辺にある星霞草に新芽が出ていました。静さんたちがお裾分けしてくださる温もりのおかげで、フォルツにも、確かな春が近づいています】
静は少しだけ口元を緩め、指先で文字をなぞった。
【静:こちらのお屋敷の庭でも、今朝新芽を見つけました。春の準備が始まったみたいです。また良い季節になりますね】
板の端を指先で軽く押さえると、文字がすっと光に変わって消えていった。
庭の新芽は、来る春にまた新しい何かを実らせ、新しい縁を運んでくるだろう。世界はゆっくりと、だが確かに、次の季節へと回り始めている。
それでも、縁側で温かいお茶を飲む静の表情は、冬も、そしてこれからも、変わらずのんびりとした、優しい平穏に満ちていた。
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物語の方も順調に書き進めていますので宜しくお願い致します。
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