第一話 北東への道、セレニアの誘い
黄金色の美しい秋の収穫が一段落し、『星霜の実』を囲んだ穏やかな宴の余韻が落ち着いた頃。空白地帯に佇む屋敷には少しずつ肌寒さを増していく、晩秋の風が吹き始めていた。
庭の星霞草は夕暮れになると相変わらず淡い銀色の光を揺らしているが、その周りを舞う虫の声はもうない。代わりに夜になると遠くの森から冷えた空気が流れ込んできて、縁側に出ると思わず肩を縮めてしまうほどだ。
「そろそろ本格的な冬支度だな」
静がそう呟いたのは、その日の朝のことだった。畑を見回りながら指先に伝わる冷気に、今年の冬の到来を静かに感じていた。
夕食後のリビングには、竈の火でパチパチと爆ぜる薪の音と、新しく淹れ直した温かいお茶の湯気が静かに満ちている。窓の外はすでに完全な夜の暗さで、木枯らしが屋根をかすかに揺らしていた。
「ふぅ……。やっぱり、静の淹れてくれるお茶を飲むと、一日の疲れが全部吹き飛んじゃうわね」
アリアが長椅子に深く背もたれを預けながら、気持ちよさそうに息を吐いた。その足元では、夕日の色をしたあかねが「きゅぅ」と同意するように短く鳴き、アリアのブーツの先に小さな顎をちょこんと乗せて丸くなっている。アリアは「やれやれ」という顔をしながらも、その頭をそっと撫でてやっていた。
「アリア、今日の調査はいつもより遠くまで行っていたみたいだけど、何か変わったことでもあった?」
静が自分のカップを両手で包み込みながらのんびりと尋ねると、対面に座っていたフィアが、待ってましたとばかりに身を乗り出してきた。
「そうなの! 聞いてよ静! 今日の北東の探索、すっごく奥まで進んだんだから! ハルが『こっちだよー』って風を教えてくれたおかげで、迷わずガシガシ進めちゃうんだよね」
「ひゅるぅ!」
フィアの肩の上で、緑毛のハルが短い羽をパタパタと動かして、まるで威張るように笑う声を上げる。フィアはそんなハルの頭を嬉しそうに指先でつついた。
静の膝の上では、いつの間にか丸くなっていたツキが「にゃ」と短く鳴き、小さく伸びをしてから再び静の太ももに前足を預けた。静はその柔らかな黒い毛並みを優しく撫でながら、アリアへと視線を戻す。
「北東の奥、か。確か、あの先は別の国に繋がっているんだったよね」
「ええ。正確には、空白地帯の北東の境界線を越えたすぐ先。ドワーフや獣人、それにエルフたちが多く集まる独立交易地――『セレニア自治連邦』のすぐ近くまで到達したわ」
アリアが手元のお茶を一口すすり、真剣な、けれどどこか楽しげな瞳で言葉を続けた。
「フォルツの街も活気があるけれど、セレニアはまた全然違うの。あそこには世界中から珍しい物資が集まる市場があるのよ。王都の市場にすら並ばないような、ドワーフたちが造る変わった調味料や、獣人たちの伝統的な発酵食品が山ほど売られているらしいわ」
アリアのその言葉に、それまで静かに手帳へペンを走らせていたリーナが、ふっと顔を上げた。
「……確かに、学術的な記録でもセレニアの市場の多様性は突出しているわね。外界の一般的な人間が空白地帯を越えて行くのは不可能だけど、私たちの現在の足腰なら、境界を越えること自体はそう難しくない位置にあるわ」
リーナが淡々と補足し、また手帳へと目を落とす。その足元では、暖炉の熱でふかふかになった毛布の上に陣取ったマルが「ぷぅ」と満足げに短く鳴いて、丸い背中をわずかに揺らした。リーナはちらりとマルを一瞥して「……気のせいよ」と呟いてから、静かにペンを走らせ続けた。
「珍しい、調味料……それに、発酵食品……」
静の手元で、お茶を運ぶ手がぴたりと止まった。
その呟きは、これまでのどんな魔境の発見よりも、はるかにはっきりとした熱を帯びていた。屋敷では普段から使い慣れた調味料を手に入れているが、それはあくまでも静が知っている味の範囲内の話だ。『この世界産の、まだ知らない発酵調味料』という響きは、それとはまったく別の、新しい世界への扉のような魅力を持っていた。
「静様……?どうかされましたか?」
隣でそっとお茶を注ぎ足してくれていたセリナが、不思議そうに静の顔を覗き込んできた。その肩にかかった薄い栗色のストールが、暖炉の光に照らされて柔らかく揺れている。
「あ、いや。……これからどんどん寒くなって、冬になると屋敷でも温かい汁物やお鍋が増えるでしょう?こっちで言うなら……麹系の調味料、みたいな。深みのある発酵系のものが手に入ったら、もっと色んな美味しいお料理が作れるなと思ってさ」
言葉を選びながら言いよどんだのは、頭に浮かんだ『味噌』や『醤油』という言葉が、この世界の言葉とは微妙にずれているからだ。正確に伝えようとすると、どうしても一拍考えてしまう。
セリナは「麹系……発酵系……」と静の言葉をそっと繰り返してから、「なるほど、静様が普段お使いになっているものに近い系統ですね」と納得した様子で微笑んだ。
「まあ……! それは素敵ですね。静様が新しくお作りになる冬のお料理、私もぜひ、お手伝いしてみたいです」
「うん。せっかくアリアたちが近くまで道を調べてくれたんだし、みんなでいつでも買い物に行けるようにしようか。商店街が一つ増えるみたいで、何だかワクワクするよね」
静が微笑みながら口にしたその言葉に、リビングの空気が一瞬だけ固まった。
「……買い物、ねぇ」
アリアが頬杖をつきながら、苦笑いを浮かべる。
国家間の物理的な接続、未踏のルート開拓という歴史的な大偉業を、完全に「隣の商店街へお出かけする」かのような日常の延長線上で語る静。アリアはそれを指摘しようとして、一瞬口を開きかけ――やめた。何度繰り返しても、この人には届かないと知っているからだ。
リーナも深く、大きな溜息を吐きながら手帳をパタンと閉じた。
「国家規模でも簡単には実現しない接続を、冬の鍋の材料探しで進めるのね……まあ、あなたらしいと言えば、あなたらしいけれど」
それ以上は言わない。言ったところで「そうかな?」と首を傾げるだけだとリーナも分かっている。彼女はカップを両手で静かに包み直した。
「あはは! いいじゃん、セレニア! 私、新しい屋台のご飯が食べたい!」
「フィア、食べる専門はダメよ。……でも、確かに楽しそうね。私も少し、秋物とは違う冬の生地や、あちらの珍しい香草を見てみたいわ」
ミレイアが穏やかに微笑むと、その傍らでロップイヤーの耳をパタパタと動かしていたルゥが「くぅ」と嬉しそうに声を落とした。
アリアは小さく肩を竦め、「……まあ、私も一度、セレニアの武具市場は覗いてみたかったのよね」と、やや素直すぎる一言をぼそりと漏らした。
フィアが「アリアも楽しみなんじゃない!」と嬉しそうに突っ込むと、アリアは「……別に」と視線を逸らした。あかねが「きゅ!」とタイミングよく鳴いて、その場の笑いを誘った。
「よし、決まりだね。じゃあ明日から、アリアたちの歩いたルートを追いかける形で、少しずつ『休止中コア』を解放していこう。慌てる旅じゃないし、毎日屋敷に帰ってこられるペースで、のんびり進めようか」
静がそう言って笑うと、膝の上のツキが「にゃ!」と、まるで自分が先頭に立つと言いたげに、誇らしげに喉を鳴らした。
「ツキ、頼りにしてるよ」
静がそっと頭を撫でると、ツキは「にゃ」と短く、どこか得意げに返事をした。
暖炉の炎がパチリと爆ぜ、部屋の空気をふっと温める。
外では冷たい晩秋の夜風が吹いていたが、暖炉の炎に照らされた屋敷の内側には、明日からの新しい「お買い物計画」に胸を躍らせる、どこまでも温かくポカポカとした日常の時間が流れていた。
リーナだけが、静かにカップを口に運びながら、内心でもう一度深く溜息をついた。
(……まったく。でも、まあ)
暖炉の前でふかふかの毛布に埋もれたマルが「ぷぷぅー」と寝息に近い声で鳴いて、その丸い体をぽすりと横に倒した。リーナはそれを見て、口元をほんのわずかに緩めた。
(……悪くないわね)
それだけ思って、リーナは手帳を開き直した。新しいページの一番上に、静かな文字で書き記す。
――北東ルート開拓、開始。
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物語の方も順調に書き進めていますので宜しくお願い致します。
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