第八話 黄金色のピクニック
まだ薄暗い朝の空気に、かすかな薪の爆ぜる音が混じっていた。
静は屋敷の静寂を乱さないよう静かに台所へと向かった。窓の外に広がる空白地帯の森は、夜明け前の深い青に包まれており、ひんやりとした風がガラス窓を小さく揺らしていた。
昨日、お弁当の土台となる『秋の味覚おこわ』や、じっくり火を通した『石焼き芋』の準備は済ませてある。だが、重箱の隅には、まだ少しだけ綺麗な余白が残されていた。
調理台の上の籠には、前日の夕方に湖畔から戻ったアリア達や幼体たちが嬉しそうに持ち帰ってきた秋の恵みが並んでいる。実の引き締まった銀色の川魚と、カサの大きな立派なキノコ、そしてほんのり甘い香りのする秋の木の実だ。
手際よく川魚の表面に薄く塩を振り、香ばしく焼き上げていく。パチパチと皮目の爆ぜる良い匂いが立ち上る傍らで、大ぶりのキノコを香草と共にさっと炒めた。仕上げに、すり潰した木の実を隠し味として加えると、台所全体に優しく濃厚な秋の香気が満ちていく。
それらを、昨日作っておいた重箱の最後のひとマスへと、彩りよく丁寧に収めていく。
「みんなが頑張って採ってきてくれたから、これでお弁当が本当に完成だね」
自然と口元が緩む。
その時、後ろで布が擦れるような柔らかな足音がした。
「おはようございます、静様。……とても良い香りでしたので」
振り返ると、すでに身支度を整えたセリナが、お盆を手に目を細めて立っていた。
「おはよう、セリナ。起こしちゃったかな」
「いいえ。お茶の準備をお手伝いしてもよろしいですか?」
「ありがとう、助かるよ」
重箱の中を覗き込んだセリナの金色の瞳が、少しだけ丸くなった。
「……素晴らしいですね。皆さん、きっと大喜びしますよ」
静は少し照れたように笑った。まだ全員が起きてくる前の、静かで満ち足りた朝の風景だった。
◆◆◆
朝食を終え、屋敷の玄関前に集まった一行は、出発の時を迎えていた。
足元では、ツキ、あかね、ルゥ、ハル、マルが、これから向かう場所を察して思い思いに声を上げている。
「じゃあ、セリナ、アリア。先にみんなで景色の良い場所を見つけて、敷物の準備をお願いできるかな。皆を送った後にフォルツにフォルティナさんたちを迎えに行ってくるから」
静がそう言って右手をそっとかざすと、空間が水面のようにわずかに波打った。
「ええ、任せておきなさい。最高の特等席を見つけておくわ」
アリアが頼もしく口角を上げ、リーナやミレイア、フィアもそれに続く。
柔らかな光が一行を包み込んだかと思うと、次の瞬間には屋敷の前からその姿が消えていた。
静は皆を渓谷に送った後、今度はフォルツの街へと転移を行った。
◆◆◆
フォルツの馴染みの宿の一室に、柔らかな光の波紋が広がった。
「おはようございます、フォルティナさん、フレイアさん」
光の向こうから現れた静がのんびりと声をかけると、ソワソワした様子で待っていたフォルティナが、ぱっと表情を明るくした。
「静さん、おはようございます。……本当に、一瞬なのですね」
今日のフォルティナとフレイアは、普段の礼服ではなく、動きやすい柔らかな仕立ての私服姿だった。それでも、フォルティナの髪には黒銀色の髪飾りが、フレイアの髪には瑠璃晶の髪留めが、朝の光を吸い込んで静かに佇んでいる。
「うん。あっちでみんなが待ってるから、早速行こうか」
静が微笑んで先を促すと、二人は嬉しそうについてきた。
再び世界が揺らぎ、次の瞬間、二人の肌を撫でたのは、室内とは明らかに違う、どこまでも冷涼で澄み切った風だった。
「……まあ」
フォルティナが思わず息を呑む。
視界を埋め尽くしていたのは、目の眩むような黄金色の紅葉だった。渓谷を包む木々から、ひらひらと舞い散る金色の葉が陽光を浴びてキラキラと輝き、まるで宝石の粉を撒いたかのような美しさを見せている。足元にはふかふかとした黄金の絨毯が広がり、渓流のせせらぎが心地よく響いていた。
「以前の湖も素敵でしたが……ここはまた、言葉を失うほど美しい場所ですね」
「いい風ね……」
フレイアは小さく呟きながら、周囲の空気を深く吸い込んだ。エルフとしての本能が、この地に満ちる清らかな神気を瞬時に察知していた。しかし、これほどの場所を事も無げに案内している主はといえば、
「アリアたちが見つけてくれたんだ。歩くだけで気持ちいいでしょう」
と、相変わらず無自覚な様子で、重箱を抱えてセリナたちの元へのんびり歩き出している。フレイアは隣のフォルティナと顔を見合わせ、小さく苦笑いを交わした。
◆◆◆
渓谷の開けた場所に敷かれた大きなクロスの周りでは、すでに賑やかな時間が始まっていた。
「あ、静! フォルティナさんたちも、おかえり!」
フィアが大きく手を振る。その肩の上ではハルが「ひゅるぅ」と笑うような声を上げ、短い羽をパタパタと動かして風の渦を作った。その風に乗って、金色の落ち葉が渓谷に高く舞い上がる。
「きゅ、きゅ!」
あかねが楽しげに鳴きながら、舞い踊る葉を追いかけてアリアの足元をくるくると回る。アリアは「こら、あまりはしゃぎすぎるな」と言いながらも、その目はどこまでも柔らかく、あかねの頭をそっと撫でてやった。
夏の湖での旅では、水飛沫を上げて激しく飛び回っていた幼体たちだったが、秋の渓谷では、乾いた空気と土の匂いを楽しんでいるようだった。ルゥはミレイアの隣に「くぅ」と静かに座り込み、流れる水のせせらぎを潤んだ瞳で見つめている。
そして、前日に庭番を頑張ったマルはといえば、お気に入りのリーナの足元に陣取っていた。
「ぷぷぅー!」
満足げに鳴くと、ふかふかの落ち葉の絨毯にどすんと丸い体を沈め、土の匂いをくんくんと嗅いでいる。
「……あなた、今日は随分とご機嫌ね」
リーナが手帳を片手に呆れたような声を出すが、その指先はマルの丸い頭をそっと優しく撫でていた。
「……楽しそうね」
小さく付け加えても、マルは嬉しそうに目を細めて、リーナの膝元にぴったりと寄り添うばかりだった。
◆◆◆
「さあ、みんなでお昼にしようか。出来立ての温かさのままだよ」
静が手を添えて重箱を取り出すと、セリナが手際よく蓋を開けていく。立ち上る黄金色の湯気と共に、台所で丹念に仕上げた秋の香りが一気に広がった。
『秋の味覚おこわ』の隣には、アリアたちが採ってきたキノコと銀色の川魚が美しく並び、そして中央には、濡らした薄紙で包んでじっくりと熱を通した石焼き芋が、ねっとりとした蜜の艶を放って鎮座している。
「美味しそう……! 静さん、このお芋、どうやって焼いたのですか?」
フォルティナが目を丸くして焼き芋を口に運ぶ。一口かじった瞬間、濃厚で、まるで凝縮されたような優しい甘みが口いっぱいに広がった。さらに、渓谷で採れた蜜の実の特製シロップをたらすと、それはもう贅沢なお菓子のような味わいへと変わる。
「美味しい……こんな食べ方、初めてです」
「本当にね。日々の疲れが、この甘さで全部溶けていっちゃうみたい」
フレイアも細い目をさらに細めて、幸せそうに頬を緩めた。
「みんなが昨日キノコや魚をたくさん採ってきてくれたからね。お芋も上手く焼けて良かった」
静は笑いながら、全員のお茶を淹れていく。
その時、セリナが自然な手つきでお茶を差し出しながら静の右側に座った。そしてフォルティナもまた、流れるような動作で、静の左側の席へとそっと腰を下ろす。
言葉を交わして場所を奪い合うのではない。ただ、静かにそこにある。かつて二人に贈られた黒晶の髪飾りが、黄金の光の中でほんのわずかに呼応するように輝いていた。
静本人はといえば、その絶妙な空気に全く気づく様子もなく、「シロップ、まだあるからたくさん使ってね」と自分の焼き芋を美味しそうに頬張っている。少し離れた場所からその様子を見ていたミレイアだけが、そっと優しく微笑みを浮かべていた。
◆◆◆
食後の穏やかなひと時、静が小さな籠を取り出した。その中には、青白く淡い光を宿した果実が入っている。
「これ、庭で昨日初めて実がなったんだ。珍しい実みたいだから、みんなで食べよう」
切り分けられた実が、全員の手元へと配られる。
実は口に含んだ瞬間、さらりと溶けるような瑞々しい甘さを残した。そして、飲み込んだ後。鼻を抜ける余韻の中に、ふっとそれぞれの胸の奥にある、大切な何かの香りが立ち上る。
「……あ」
フォルティナの手が、ぴたりと止まった。
彼女の脳裏に浮かんだのは、若くして領主を継ぎ、孤独と重責に押し潰されそうだった辛い夜の記憶ではなかった。
この前、屋敷を訪れた時。静からあの黒銀の髪飾りを贈られ、「お守りに」と言ってもらえた時の、あの温かい手の感触。
何の味がしたかは口に出さなかった。ただ、長い睫毛の先をほんの少しだけ涙で潤ませながら、ぽつりと呟いた。
「……なんだか、すごく、懐かしいです」
その言葉に、セリナが深い共感を込めた眼差しをそっと返した。セリナにとっても、この実の味は、あのスープの湯気の向こうにあった静の笑顔だったからだ。
誰も、自分が何を感じたかを語らない。ただ、静かに目を閉じ、胸の奥に残る温もりを確かめている。
「……フォルティナさん、大丈夫ですか?」
静が声をかけると、フォルティナはぱっと顔を上げ、「え、はい。……ごめんなさい、なんだかとても美味しくて」と、少し照れたように微笑んだ。
静はそれ以上は聞かず「美味しいのは良かった」と言って、フォルティナの皿にシロップをそっと足してやった。
「おかわり!」
フィアが元気よく手を上げると、穏やかな沈黙ががふわりとほどけ、楽しげな笑い声がせせらぎに混ざっていった。
◆◆◆
少し離れた渓流の岩場で、アリアとフレイアが二人、流れる水を見つめながら静かに言葉を交わしていた。
「……本当に、不思議な人ね、静さんは」
フレイアが瑠璃晶の髪留めに触れながら、遠くで幼体たちと笑い合っている静の背中を見つめる。
「彼がただそこで笑って暮らしているだけで、周りの空気が少しずつ優しくなっていくみたいだわ。フォルツの街も……そして私たちも」
アリアは渓流に視線を落としたまま、ふっと小さく口元を緩めた。
「ええ。でも、あいつはただ『みんなで食べると美味しいね』って笑ってるだけよ」
少し間があった。
「……私は、あの場所と、あの笑顔を守れれば、それでいいわ」
深くは語らない。それだけで十分だった。
フレイアはアリアの横顔を見て、何も言わずに小さく微笑んだ。
黄金色の紅葉が風に舞う渓谷に、幼体たちの鳴き声が響き渡る。
「にゃ!」「きゅぅ!」「くぅ」「ひゅるぅ!」「ぷぷぅー!」
ハルが運ぶ心地よい秋風が、金色の葉を空へ舞い上げた。その中心では静がみんなと笑い合っている。
何気なく重ねられた穏やかな秋の一日が、誰にも気づかれないまま、彼女たちの胸の奥へ静かに広がっていった。
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物語の方も順調に書き進めていますので宜しくお願い致します。
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