第六話 『星霜の実』初なりの日
夕方から庭の空気が少し変わっていた。
星霞草の光がいつもより柔らかく、風の流れが緩やかに止まっているような、そんな静けさ。
静はそれに気づいていたが、特に深く考えはしなかった。ただ、なんとなく縁側に出たくなって、セリナと並んで夜の庭を眺めていた。
「……なんだか、今日は一段と静かだね」
「ええ。なんでしょう……空気が、澄んでいる気がします」
夜の屋敷を包む空気は、どこまでも澄み渡っていた。庭に並んだ星霞草が、月明かりに呼応するように銀色の海となって揺れている。
ふと気づけば、庭の温度がすっと下がっている。それは肌を刺す冬の寒さではなく、まるで庭全体が静かに息を潜めて、何かを待ち望んでいるかのような、不思議に心地よい静寂を伴う涼やかさだった。
「ぷぷぅー!」
庭の奥から、マルの元気な鳴き声が響いた。
見れば、マルが先日芽吹いた例の種の根元で、短い前足を使って土を最後の一叩きしているところだった。まるで「これで完璧だよ」とでも言うように、満足げに胸を張っている。
「マル、もしかして……」
静たちが歩み寄ると、そこには宝石のような青白い輝きを放つ実が、たわわに実っていた。
完熟の瞬間を迎えたその実は、周囲の星霞草と共鳴するように淡い光を帯びている。
「……綺麗だね」
静が静かに言った。
それだけだった。美しい夜景として、ただ受け取った。
◆◆◆
「くぅ」
ルゥが喉を鳴らし、実の表面に結露した一粒の雫を、好奇心に任せてぺろりと舐めた。ひんやりとした感触が美味しかったのか、ロップイヤーのような耳をぱたぱたと揺らして目を細める。
「ひゅん!」
上空ではハルが嬉しそうに一旋回し、柔らかな風の輪を作った。ハルにとってはただの遊びだったが、その羽ばたきが実の周囲の熱を優しく逃がし、清冽な香りを庭いっぱいに広げていく。
「きゅ?」
あかねが不思議そうに首を傾げ、その涼やかな実を見上げている。火の性質を持つあかねだが、この実に宿る冷気は不思議と心地よいようで、あかねはそのまま実の影にちょこんと寄り添った。
「にゃあ」
静の肩の上で、ツキが尻尾を優しく揺らした。
熟成の香りをじっと確かめてから、静の頬にそっと鼻先を寄せる。
食べごろだよ、と告げられた気がして、静は実を一つ、丁寧に摘み取った。
「ぷぷぅー!」
マルが改めて誇らしげに鳴いた。
「マル、ありがとうね。よく育ててくれたね」
マルはそれを聞いて、さらに胸を張った。
◆◆◆
「リーナ、これ……何ていう果実なのかな」
少し離れた場所で、手帳を持ったまま固まっていたリーナに静が問いかける。
屋敷の中から気配を感じて出てきたらしいアリア・フィア・ミレイアも、庭に立ち、青白く輝く実を静かに見つめていた。
リーナの内心は、学術的な戦慄に揺れていた。
(……この質感。触れずとも伝わってくる、長い年月を閉じ込めたような感覚。古い伝承にある『神の食卓に並ぶ果実』と言われているものに……似ている気がするけれど。……まさか、あり得ないわ。そんな伝説の代物が、ただの屋敷の庭で、たった数日で実を結ぶなんて)
自分の持つ知識の限界を超えた光景を前に、リーナは土晶のペンダントをぎゅっと握りしめた。だが、それをそのまま口にするのは、この穏やかな時間を壊してしまうような気がした。
「……そうね。すごく珍しい、特別な個体なのは間違いないわ。……詳しい名前は分からないけれど」
リーナが言葉を濁すと、静は「そっか。やっぱり珍しいんだね」と、それ以上は深く考えずに微笑んだ。
「せっかくだから、みんなで食べよう。美味しいといいな」
◆◆◆
静が切り分けた実を、まずは一番近くにいたセリナへ差し出した。
実はひんやりとしていて、口に含んだ瞬間にさらりと溶けるような瑞々しい甘さが広がった。
そして、飲み込んだ後。
鼻を抜ける余韻の中に、ふっと「一番幸せな記憶」の香りが立ち上った。
「……あ」
セリナが小さく声を漏らし、手が止まる。
彼女の脳裏に浮かんだのは、高価な供物でもなければ、教会の荘厳な儀式でもなかった。
この屋敷に来て最初の日。静が「これ、食べてみて」と差し出してくれた、あの温かいスープの、湯気の向こうにあった笑顔。
目がじわりと潤むのを感じ、セリナは慌てて俯いた。
「美味しい、です。……なんだか、すごく……」
言葉にならなかった。それで十分だった。
アリアも実を一口食べて、そのまま空を見上げた。
何を思っているのか、誰にも分からない。ただ、いつもより少しだけ遠い目をしていた。
フィアは食べた瞬間だけ、不思議と静かになった。
いつも弾んでいる声が、その一瞬だけ止まった。それからまた、いつものフィアに戻ったが、その目はどこかほんのり潤んでいた。
ミレイアは目をゆっくりと閉じた。
しばらく、そのままでいた。
やがて目を開けた時、その表情は普段よりも少しだけ柔らかかった。
リーナは食べた後でペンダントをそっと握った。
何も言わない。ただ、手帳を閉じた。
誰も、内容を口にはしない。自分だけの大切な記憶が、その甘みと共に胸の奥を温めている。
「……うん、本当に美味しいね」
静もまた、どこか懐かしそうに目を細めてから、みんなの顔を見渡して言った。
「でも……こうしてみんなで並んで食べると、より美味しく感じるね。一人で食べるより、ずっといい」
過去の幸せな記憶を思い起こさせる果実。
けれど、静のその一言を聞いた時、彼女たちは気づいた。
今、この場所で、穏やかな夜の風に吹かれながら、みんなで笑っているこの瞬間が
――自分たちにとっての「一番幸せな記憶」を、今この瞬間が、同じくらい大切な記憶になっていくことに。
「……ええ。本当に、そうね」
アリアが柔らかな声で同意した。
「おかわり!」
フィアが元気よく手を上げると、場の空気がふわりとほどけた。
◆◆◆
「セリナ、少し取り分けておいてもらえる? お供えしたいから」
静の言葉に、セリナは「はい」と頷いて、一房を丁寧に小皿へと移した。
礼拝堂へ向かうセリナの後を、ツキが音もなくついていく。
祭壇の前にそっと小皿を置き、セリナは静かに手を合わせた。
(……ルーナフィリス様。今日、不思議な実がなりました。皆さんとご一緒に、美味しくいただきました。良かったら、女神様方にも召し上がっていただけますと嬉しいです)
祈りを終えて目を開けると、小皿の実が、礼拝堂の灯りを受けてひときわ青白く輝き消えていく。
「にゃ」
隣に座っていたツキが、一声鳴いた。
届いた、ということかもしれない。
「ありがとう、ツキ」
セリナが小さく微笑んで、礼拝堂を後にした。
◆◆◆
縁側に戻ると静が連絡板を手に取っていた。指先で淡い線をなぞり、文字を定着させていく。
【静:こんばんは。先日のお裾分けの種に、実がなりました。驚くほど瑞々しくて、美味しいですよ。明日、少しお届けしますね】
しばらくして、連絡板が淡い光を宿す。
【フォルティナ:……もう実がなったのですか? 静さんの庭は、本当に驚きが絶えませんね。楽しみにお待ちしております】
短文の中にも、どこか苦笑いが混じっているような気がして、静はツキの頭を撫でながら小さく笑った。
「美味しい実がなるといいねって言ってたけど、本当に良かった。明日、フォルティナさんたちにも喜んでもらえるかな」
「にゃ」
ツキは静の言葉に短く答えて、膝の上でくるりと丸くなった。
庭では、マルがもう一度だけ「ぷぷぅー」と得意げに鳴いてから、実の傍らに丸くなって眠り始めていた。
宝石のような実は、秋の夜の静寂の中で、新しい繋がりを予感させるように静かに輝き続けていた。
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