第六話 星霞草、夕暮れに咲く
陽が大きく傾き始める頃。
夏の気配を含んだ風が、木々の葉をさらさらと揺らしていた。
空の色が橙から深い藍へと変わるちょうど境目。
この時間の屋敷は不思議なほど静かになる。
鳥の声が遠ざかり、虫の声がまだ始まらない。
世界がほんの少しだけ、息を止めているような間。
縁側に腰を下ろした静は、セリナが淹れてくれた冷たいお茶を一口飲み、ふう、と息を吐いた。
昼間の暑さがようやく少しだけ和らいでいる。
「今日も良い天気でしたね」
隣に腰を下ろしたセリナが柔らかく言った。
「そうだね。……星霞草、だいぶ根付いてきたな」
静の視線の先、庭の東側の花壇。
花見の日にみんなで植えた星霞草が、今では花壇の端まで白い小花を広げていた。
魔法銀の遮光布を外してからも、この屋敷の神気に馴染んだのか、驚くほど伸び伸びと育っている。
夕暮れが近い今の時間、その葉が微かに光を含み始めているように見えた。
「……もうすぐかもしれませんね」
セリナが目を細める。
「夕暮れ時に光る、って言っていたから。今日、見られるかな」
二人はしばらく、並んで花壇を眺めた。
◆◆◆
その静寂を破ったのは、花壇の中から聞こえた、のんびりとした声だった。
「ぷぷぅー……」
星霞草の茂みが、ふにふにと奇妙な動きを見せる。
やがて、もふもふとした薄茶色の塊が、花をかき分けるようにして姿を現した。
マルだ。
背中の小さな羽をパタパタとさせ、体に付いた花びらを盛大に振り払っている。
耳まで白い花びらが乗っていたが、本人は全く気にしていない様子だった。
「マル……もしかして、ずっとそこで寝ていたの?」
セリナが目を丸くする。
「ぷぅ」
マルは満足そうに鳴いて、とてとてと縁側へ向かってくる。
その歩みに合わせて、踏んだ土がほんのりと温かくなっていく。
「おかえり、マル。ゆっくり眠れたか?」
静が声をかけると、マルはとてとてと歩み寄り、縁側の端でごろりと転がった。
「ぷぅ」と短く鳴いて、静の膝をじっと見上げる。
「……上がっていいよ」
言った瞬間、マルが「ぷぷぅー!」と得意げに鳴いて、ずりずりと膝の上に這い上がってきた。
その足跡を追うように――不思議なことが起きた。
マルの体が触れていた場所から順に、星霞草が淡い光を放ち始めたのだ。
最初は夕闇に紛れるほどの微かな瞬き。
一輪、また一輪。
それが波紋のように広がり、やがて花壇から庭の端まで、まるで地上に星屑を撒いたような輝きに包まれていく。
「わあ……」
セリナが思わず息を呑んだ。
光は瑠璃星草の鮮やかさとはまた違う。
霞のように柔らかく、揺れるように淡い。
見つめているだけで、日中の作業で強張った肩の力がふっと抜けていくような、穏やかな安らぎがあった。
静は膝の上のマルを撫でながら、光る花畑を静かに眺めた。
「……綺麗だな」
「はい。本当に……まるで夢の中にいるみたいです」
セリナが胸の前で手を重ねるようにしながら言った。
その瞳に星の光が静かに映っていた。
◆◆◆
「ぷぷぅー」
マルが満足そうに鳴いた。
まるで「どうだ」と言わんばかりの、得意げな声だ。
「……マルのおかげだね」
静が言うと、マルはさらに胸を張った。
その時、縁側の奥からパタパタと足音が近づいてきた。
「にゃ!」
ツキが真っ先に飛び出してきて、庭の光景を見るなり動きを止めた。
それから静かに縁側の端に座り、一言「にゃ」と鳴いて、じっと光を見つめた。
後ろからあかねが「きゅ?」と首を傾げながら出てきて、光る花びらに鼻先をくっつけて確かめる。
「きゅ!」
驚いたように鳴いて、ぴょんと後ろへ飛びすさった。
それからまた恐る恐る近づいて、またくんくんと嗅ぐ。
「あかね、びっくりした?」
静が苦笑すると、あかねは「きゅ」と鳴いて、今度は堂々と花びらの上にちょこんと座った。
あかねの淡い赤と、星霞草の白い光が混じり合う。
ルゥは静かに花壇の縁へと歩み寄り、「くぅ」と鳴いてそのままその場に丸くなった。
光の中で、ルゥの水色の毛並みがふわりと輝いて見える。
ハルは上空からひゅんと舞い降り、花壇の上をゆっくりと旋回した。
翼が起こす風で、光る花びらがふわりと舞い上がる。
それはまるで、光の粒が空へと溶けていくようだった。
「ひゅん」
ハルが満足そうに鳴いて、セリナの肩に静かに降り立った。
◆◆◆
「……なんの騒ぎ?」
屋敷の中から顔を出したのは、アリアだった。
その後ろにフィアとミレイアが続く。
三人が庭を見た瞬間、言葉が止まった。
「……すごい」
フィアが小さく呟いた。
いつものような弾んだ声ではなく、本当に静かな、素直な驚きの声だった。
「……これが、星霞草?」
ミレイアが呟き、エルフとしての感性が静かに反応するのを感じた。
木々の呼吸が深まっている。
庭の呼吸そのものが、深くなっている気がした。
「綺麗ね」
アリアが短く言った。
それだけだったが、その一言に、これ以上何も足す必要がないほどの温度があった。
三人は縁側に腰を下ろし、静とセリナの隣に並んだ。
しばらく、誰も何も言わず光る庭を眺めていた。
◆◆◆
しばらくして、静はふと庭の隅へ視線を向けた。
星霞草の花びらに宿った露が、光を帯びたまま根元の土へとぽたりと落ちている。
その場所だけ土がひときわ瑞々しく、葉の色も濃く見えた。
(……露が落ちたところだけ、育ちが違う気がするな)
それから庭全体を眺める。
光の届いている場所と届いていない場所で、草の伸び方が微妙に異なる。
「この露、畑の方にも分けてあげたら、夏野菜がもっと美味しくなるかもしれない。……それに、これだけ光ってくれるなら、夜に廊下を歩く時の足元灯にもなりそうだな」
静が独り言のように呟いたその時、屋敷の中からリーナが出てきた。
いつの間に来ていたのか、メモを手に持っている。
「……星霞草の露が滴る場所だけ、土が特別な状態になっている。魔力の浸透率が上がっているわね。畑への応用は面白いわ。……それと静、今『足元灯の代わりになりそう』と言っていたけれど」
「夜にトイレに立つとき、廊下が暗くなくて助かると思って」
「……なるほど」
リーナは一拍置いてから、静かに言った。
「宮廷魔導師や研究院が泣いて羨む発光植物を、廊下の足元灯に使う発想ができるのは、あなたくらいだと思うわ」
「そんなに珍しいもの?」
「……珍しいわよ」
リーナが溜息をついた。
ただ、その口元は確かに緩んでいた。
フィアが堪えきれずに吹き出した。
「あはは! 静らしい!」
「本当にそうね」
アリアも苦笑する。
ミレイアは静かに笑いながら、光る花びらをそっと一枚手に取った。
「……でも、足元灯、良いと思うわ。廊下に少し鉢を置いたら、夜も綺麗でしょうね」
「あ、それいいな」
静が素直に頷いた。
◆◆◆
夜の帳が下りる頃
静は縁側から連絡板を取り出し、指先でゆっくりと文字をなぞった。
【静:フォルティナさん、星霞草が咲きました。夕暮れ時に光るって言っていましたが、本当でした】
少しの間があって、板が淡く光った。
【フォルティナ:……本当ですか。どんな光でしたか?】
静はしばらく考えてから、指先を動かした。
【静:霞みたいに柔らかい光です。見ているだけで肩の力が抜けます。来た時に見てもらえると嬉しいです】
返信はすぐに来た。
【フォルティナ:……楽しみにしています。必ず伺います】
静は連絡板を閉じた。
肩の上のツキが「にゃ」と短く鳴いた。
庭では、星霞草がまだ静かに光っていた。
マルはいつの間にかまた花壇の中へ戻り、「ぷぅ……」と眠たそうな声を出している。
あかねが「きゅ」と鳴いてその隣に座り、ルゥがその向こうで丸くなっていた。
「……おやすみ、みんな」
静の声に、庭の光がほんの少しだけ、揺れたような気がした。
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